国立市議会 2005-02-28 平成17年第1回定例会(第1日) 本文 開催日: 2005-02-28
下谷保1号墳は、国立市史にも記録されており、近年発掘された府中市の熊野神社古墳や四軒在家古墳群とともに、武蔵国成立以前の歴史を知るうえで貴重なものです。また、墳丘の残存は希少となっており、現状のまま用地買収していきます。 市指定文化財である谷保天満宮拝殿の天井にある書は、多くの著名な文人等の書と考えられています。
下谷保1号墳は、国立市史にも記録されており、近年発掘された府中市の熊野神社古墳や四軒在家古墳群とともに、武蔵国成立以前の歴史を知るうえで貴重なものです。また、墳丘の残存は希少となっており、現状のまま用地買収していきます。 市指定文化財である谷保天満宮拝殿の天井にある書は、多くの著名な文人等の書と考えられています。
武蔵国府庁の場合には、現在調査中の現場で、前殿の北側部分と正殿の南側部分と考えられる大型建物跡が確認されておりますので、今後、周辺の発掘調査を実施させていただくことで国庁の構造と規模が明らかになりますので、それによって国庁域も特定できるものと考えております。
そしてもう一つの可能性は、都から派遣された国司とするもので、その国司が武蔵国にゆかりの深い人物だったことからこの地に葬られたというものです。
狛江という地名も,武蔵国分寺跡から出土したかわらの中に認められ,平安時代初めのころの文献には,「武蔵国多磨郡狛江郷」の記載も見られると言われております。このことは,狛江が多摩川や湧水などの自然に恵まれ,人々が住むのに適していた環境にあると言えるのではないでしょうか。「水と緑の住宅都市」の町づくりを目指す狛江市の原風景が,原始・古代の時代から形づくられていたと思われます。
また、ウの御答弁にもございましたが、府中市は奈良時代に武蔵国の国府が置かれるなど、歴史と伝統、それに独自の風土のあるまちです。さらには、これまで競走事業による収益を核として、周辺自治体には見られない高い水準の行政サービスが行われております。
「秋留台地に生を受け、この地と父母兄弟をこよなく愛し、貧しい農民に深い同情のまなざしを向け、「民間省要」を世に問い、将軍吉宗の哀願を被り、治水に優れた手腕を発揮し、武蔵国3万石の代官として生を全うした人」と、秋川ファーマーズセンターロビーの田中丘隅コーナーに掲げられている田中丘隅の偉大さは、再質問で細かく伺うこととして、登壇でのここでは、私は「水を制する者国を制す」のことわざどおり、治水事業の功績と
国分寺市は天平時代の武蔵国国分寺が建立されている歴史と文化があります。また、武蔵野の面影を残す自然もあります。新しい千年紀は、こうしたかけがえのない自然環境と、ぜひ人間社会が適合できる社会をつくり上げるよう、市政運営について御期待申し上げまして、壇上からの質問を終わらせていただきます。
講演会のテーマは「武蔵国の古代窯跡」、副題を「武蔵国府国分寺と瓦谷戸遺跡」として行い、講師に元瓦谷戸遺跡調査団主任調査員の松原典明氏、武蔵国府関連遺跡調査団主任調査員の荒井健治氏、八王子南部地区遺跡調査会主任調査員の遠藤政孝氏の3名を迎えました。3人ともスライドを中心にお話をいただき、大丸瓦谷戸窯跡をより広域的な立場から位置づける機会となりました。
武蔵野ヶ原と、こう言ったんですが、いわゆる武蔵国でございました。しかし、おかげさまで武蔵野という名前を市が独占いたしておりますので、これは何としても譲れないと、こう考えているわけであります。いろんな見方があります。三鷹駅を武蔵野駅にしたらどうだという意見もある人から出されました。
武蔵国に高麗郡という朝鮮からの渡来人、あるいは新羅郡というのも武蔵国に生まれたんだそうです。そういう朝鮮文化の先進文化をここで引き受けてきている。そして、朝廷そのものも八角形に変わっていく、それをもっと解明していく必要があるのではないかと思います。
さらに近辺の市では、府中市が、かつて武蔵国の国府が置かれていたと、府中に。こういう歴史的なものも含めて、いわゆる民俗資料館的なものを大規模につくっております。これも私もさきに見てまいりました。 こういったことを考えますと、武蔵野で独自に民俗資料館をつくるということになると一体どういうことになるのか。武蔵野独自の民俗はあるのかどうか。
このとき、当時の武蔵国多摩郡は、韮山県、品川県、神奈川県に属していたが、これを機会に神奈川県になったようであります。 従来からの多摩郡にあった高円寺村、阿佐ヶ谷村、中野村などは東京府に編入され、明治11年には神奈川県の郡区町村編成法により、多摩郡は区部が広く、人口も多いため、西、北、南に分け、このときから南多摩と呼ばれるようになったわけであります。