国分寺市議会 2016-06-01 平成28年 第2回定例会(第1日) 本文 開催日: 2016-06-01
少なくとも東山道武蔵路は、771年、宝亀2年に武蔵国が東山道から東海道に所属替えをされています。それで駅路としての使命を終えているということですけれども、その後も引き続き、北関東と、それから南関東、これを結ぶ道路として機能していたということが発掘調査の結果からもわかってきています。
少なくとも東山道武蔵路は、771年、宝亀2年に武蔵国が東山道から東海道に所属替えをされています。それで駅路としての使命を終えているということですけれども、その後も引き続き、北関東と、それから南関東、これを結ぶ道路として機能していたということが発掘調査の結果からもわかってきています。
また、高月城につきましては、同じ東京都の報告書によりますと、「新編武蔵国風土記稿」というやはり江戸時代の書籍がございまして、ここには大石信濃守が居住したという伝承があるというところになっております。
本市と国分寺市は、古くから武蔵国の国府と国分寺が置かれた関係から、歴史的なつながりが深く、東山道武蔵路があったことなどから、古くから交流が行われていました。観光に関する施策としても、こうした歴史的なつながりの強みを生かし、両市で連携して事業を実施しております。
観光の振興につきましては、武蔵国府中大使を活用した観光情報誌を作成するとともに、引き続き本市にゆかりのある漫画を活用した企画展やイベントを実施するなど、本市の魅力発信の強化により、観光施策の推進に努めてまいります。 消費生活の向上につきましては、市民生活を守るために、引き続き消費生活相談室における相談体制の充実や、被害を未然に防ぐ消費者への啓発活動に努めてまいります。
武蔵国の府中、国府・国分寺ということでですね。そういう意味でいけば、最大級であったと言われる国分寺を含んで、この武蔵国が、その当時の中でも本当に大国であったということを踏まえて、やはりしっかりと、その辺はストーリー性も含めて、今回の認定に当たってはアピールをしていきたいというふうに思っているところでございます。
それ以降新しいのはないのかな、うちの息子に出たのとそんなに中身は変わっていないようなんですけれども、ここの中でよく見ていきますと、町田が書かれている古い記録の中で「『和名類聚鈔』という930年ごろ書かれた本のなかに、武蔵国都築郡の五つの郷のうち、“店屋郷”という地名がでています。
44: ◯教育部長(本橋信行君) 先ほど御説明をした東山道武蔵路ですけれども、分岐をした以降、国分寺市がある東京都、それから埼玉県の全域、さらには神奈川県の横浜市、川崎市、こういった一帯を含んで武蔵国というふうに呼んでいたわけですけれども、この武蔵国は、当初、東山道を経由して都との行き来をしていたということです。
一方で、まさに武蔵国国分寺、この史跡を生かしたまちの魅力発信という点では、やはりこの間もさまざまな努力をしていただいているとは思いますが、もう少し努力の必要があるのではないかという観点で何点か質問させていただきたいと思います。
次に、これまでの本市の取り組みの状況ですが、庁内各関係部とともに、観光振興でも連携している国分寺市と共同で「古代武蔵国の国府と国分寺-古代律令都市1,300年の歴史が紡ぐまち-」として、平成27年度の日本遺産認定を目指して申請いたしました。しかし、平成27年度は全国で83件の応募があり、うち18件が認定を受けましたが、本市は選考されませんでした。
埋蔵文化財発掘調査では、特徴的なものとして、本市の国府の遺跡で初めて武蔵国と書かれた瓦が出土している。なお、この評価等については、文化財保護審議会等も含めて検討したいと考えている。出土品については、ふるさと府中歴史館等でも展示の機会があるため、現段階では、再開発ビル内での展示は検討していない。
また、観光の振興につきましては、引き続き「武蔵国府中大使」を任命するとともに、本市にゆかりのある漫画を活用した企画展やイベントを実施するなど、本市の魅力発信の強化により、観光施策の推進に努めてまいります。 消費生活の向上につきましては、市民生活を守るために、引き続き消費生活相談室における相談体制の充実や、被害を未然に防ぐ消費者への啓発に努めてまいります。
大変難しい問題かと思いますが、八王子まつりは余り神様は関係していないということは御存じだと思いますが、府中のくらやみ祭の場合は、まさに武蔵国一之宮ということで、伝統を背負って神社そのもののお祭りということで観光資源になっているところでございます。
江戸時代までは両岸とも武蔵国に属して,狛江市東和泉と多摩区登戸を結ぶ「登戸の渡し」が暮らしを支える重要な役割を果たしてまいりました。渡しを通して親類づき合いをしたり,職人の町・登戸から左官や大工などが多摩川を越えて世田谷方面に働きに行ったりして交流が盛んだったといいます。 その後小田急線の開通に伴って両岸の往来が少なくなり,多摩川水道橋がかかると渡しも消え,つながりは希薄になりました。
(3)の「誇りと愛着の持てるまち」といたしましては、府中市は、武蔵国の国府が置かれ、古くから政治、経済、文化の中心として栄え、また、美しいまち並みや公園などを初めとする緑豊かな自然環境など、誇りを持てる様々な財産があり、先人から受け継いできた貴重な財産を守り育て、「活かし」ながら、住み続けたい、訪れてみたいと思えるまちづくりを進めます。
我が府中市は、武蔵国の国府が置かれて以来の長い歴史と伝統が息づくまちです。近年の発掘調査や伝承されてきた有形無形の文化がその事実を証明しており、かけがえのない財産といえます。そして、市制施行後も市議会議員の皆様を初め、歴代の市長、職員、そして市民の皆様が不断の努力を重ねて築き上げてきたこのまちは、他市にない魅力にあふれており、住民満足度が高いとの評価もちょうだいしています。
546: ◯ 22番(鈴木 えつお議員) もう1つ,8世紀,武蔵国多摩郡に既に狛江郷という行政単位があって,現在の狛江市だけでなく,調布市,三鷹市,武蔵野市の一部を含む3里から4里,12キロメートルから16キロメートルくらいの範囲とされております。かなり広い地域だったようでございます。
奈良に都がつくられた律令時代、北区は武蔵国豊島郡に属しており、その範囲は北、板橋、荒川、台東、文京、練馬の各区がほぼ該当します。北区から郡衙、現在でいう役所が発見され、北区は古代において豊島郡の中心地でした。 十一世紀になり、豊島郡を支配したのは、区内の豊島地域が発祥の地とされる豊島氏です。
甲武鉄道、甲斐国と武蔵国を結ぶ鉄道ということでございますが、甲武鉄道ができて2年後に、中野から今の武蔵境までの間に駅がなかったところへ1個つくりたいということで、荻窪駅ができたわけでございます。
内容は、浅草地域を中心といたしました江戸、武蔵国の諸資料を集めたものが中心で、それらが著者の丁寧な挿絵と相まいりまして、江戸期の浅草の様子を知ることができ、郷土を研究する資料としてご活用いただけるものと考えております。 項番3、頒布についてでございます。本誌は区役所3階区政情報コーナー、生涯学習センター及び下町風俗資料館で有料頒布いたします。価格は1冊500円でございます。
本市は、今から1300年前の奈良時代、武蔵国の国府が置かれたまちで、長い歴史と伝統に培かわれた数多くの貴重な史跡や文化財がございます。 中でも、全国的にも誇れる貴重な文化財としましては、国指定史跡武蔵国府跡が挙げられます。