佐賀市議会 2020-06-16 令和 2年 6月定例会−06月16日-06号
「わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきた。恒久の平和は、日本国民の念願である。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いている。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではない。
「わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきた。恒久の平和は、日本国民の念願である。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いている。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではない。
この流れで、やはり戦争というのがとめられなくなっていったんじゃないかと、私、その時代に生きていたわけではありませんけれど、その仕組みの問題でそう思います。日本国憲法が地方自治体が国から独立した存在として意思決定をして行政運営をすることを掲げたのに対しまして、明治憲法は、地方行政組織を中央集権的な統治基盤の1つと位置づけていました。 日本国憲法に基づきまして再度聞きます。
人類の歴史上、初めて戦争で使われた原爆は、40万人が働き、暮らす広島を壊滅させました。広島の死者は、その年の末までに約14万人に上りました。かろうじて生き延びた人々は、体と心に深い傷を負い、苦しめられてきました。8月9日午前11時2分、アメリカが投下したプルトニウム原爆が長崎市上空で爆発し、その年の末までに約7万人が命を落としました。
私は、鳥栖でも戦争で多くの方が亡くなられたことを後世にしっかり継承し、戦争の悲惨さ、平和のとうとさを語りついでいく必要があると強く考えています。 今現在、一部の有志で、慰霊祭等が行われていることはお伺いしておりますが、まずは、この鳥栖空襲について1点お尋ねいたします。 すいません、今ので2つですね。 もう一点、最後ですね。
ところが、戦争終結期に、米軍が県民の家屋や住宅地を銃剣とブルドーザーで奪い取って拡大した普天間基地が、住宅地に囲まれた世界一危険な基地だという触れ込みで、人口の少ない辺野古地域に半永久的な新基地をつくることにすりかえてしまった欺瞞があることを見逃してはならないと思います。
しかし、私が危惧しているのは、日本国憲法9条の第1項、第2項とする「国際平和を誠実に希求し」という、この部分の中に、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」これは、憲法9条の1項、2項を読まれたら、皆さん誰でも御存じです。この前項の部分も読ませていただきます。
次にもう一つ、中山間地域の質問ですけど、これもニュースで聞きましたけど、実はベトナム戦争で使用されていた枯れ葉剤とも言われる2・4・5T剤、これが国有地に埋設されているということで、福岡県との県境にある吉野ヶ里町の山林のほうに埋設されてあるということです。
これほど暮らしが長年にわたり破壊される人災は戦争みたいなものです。 そのような原発をベース電源に位置づける国の方針がそもそもおかしいと私は思っています。再生エネルギー推進は国策であると私は思っておりますけども、今は、太陽光などの再生エネルギーを主力にしていくときだと私は思っております。
また、メーカーも、ホンダとヤマハがHY戦争と言われしのぎを削った時代もありましたが、今はホンダがヤマハへOEMで車両を供給している時代です。具体的には、タクトがジョグ、ジョルノがビーノで売られております。これは、2サイクルから4サイクルへ変わっていったように、排ガス規制が厳しくなり、現在、欧州の規制であるユーロ4に対応するのに開発費用や製造コストがかかるためです。
オスプレイは戦争の道具です。有明海を守ってきた先人たちには戦争体験者も多くいます。戦争の足場にしてほしくないと思っています。子や孫に100年たっても豊かな有明海を残したい。漁業者として海を守りたい。オスプレイ配備と自衛隊の佐賀空港利用に反対していきますと、今回の合意に強い怒りを表明されています。当然のことではないでしょうか。
戦争に巻き込まれるような状態にはしたくないという思いでつくられた協定ですから、そういう思いを持っておられる地権者の方たちが受け入れなければ、自衛隊駐屯地は整備もされず、着陸料も当然ないということで、現時点では何か決まったかのように言われているけれども、実はまだ何にも始まっていないということで、これはきちんと何にも動いちゃいないんだよと、協定はちゃんと生きているんだよというところをしっかり発信していくということも
その中で一番大事なのは、基地ができれば、戦争になったときはどうなるかということで、組合長たちとうちのおやじたちもいろいろ話した中で、戦争になったときは川副町は火の海になるということで、最終段階でですね、この覚書の中に、自衛隊と共用しないということを明記してくださいと言ったのは、これは当時の我々青年部から言ったわけです。
憎悪も信頼も蔑視も尊敬も戦争も平和も全ては人間の一念から生まれるものだ。したがって、人間革命なくしては、自身の幸福も社会の繁栄も世界の恒久平和もあり得ない。この1点を欠けば、さまざまな努力も砂上の楼閣となるとの言葉を残しております。 この言葉を胸に刻み、全力で邁進してまいりますので、今後とも御指導、御鞭撻のほどよろしくお願いいたします。 それでは、通告に従いまして順次質問をさせていただきます。
この中で、私が2月定例会で取り上げた佐賀戦争についても、佐賀の乱という表現ではなく、佐賀戦争という言葉で説明がありました。佐賀県の教育委員会は進んでいるなと感じたところであります。 また、中央大通りには佐賀県の偉人の銅像が建てられ、佐賀から出た偉人を紹介されております。 この事業は来年1月まで開催されるということで、ここしばらくは明治維新に注目が集まるのではないかと思います。
ということは、佐賀県の空港は四、五年で潰れるという判断で私たちは協議しながら、それなら、あとはもう県も自衛隊等の設備を持ってきはしないかという判断になり、その中で組合長たちは戦争の体験、うちのおやじともいろんな話をして、これだけはさせないようにしなさいと。
具体的に学校の取り組みとしましては、生活科や総合的な学習の時間、学校行事の中で、米、花苗といった農芸体験を初め、敬老の日などの機会を捉えた老人会や高齢者福祉施設の訪問、さらには戦争体験の講話を通した平和学習集会などを行っているところです。
明治維新幕末のときには、唐津藩主が函館まで行って、五稜郭で戦争までしてきたという、今、耐恒寮、耐恒寮とかいう話もするけど、その原点は小笠原家だと思うんです。
そういう方を「佐賀の乱」という表示方法で現在使われておりますが、私も大分勉強させていただきましたが、何と「戦争」、「役」などの表記の定義は定まっておらず、「西南戦争」は「西南の役」という表示も見受けられます。 歴史というものは、見る側で大きく変わります。
佐賀空港を建設するときに、漁民の皆さんと県が結んだ公害防止協定覚書付属資料の中で、「県は自衛隊と共用するような考えを持っていない」という一文を盛り込ませた背景には、戦争を体験された先輩方の平和を願う決意があり、例え佐賀空港が赤字になったとしても、基地交付金などを頼って自衛隊に活用させるようなことがあってはならないという強い思いがあったことを忘れてはなりません。
現在の世界情勢を見ますと、テロや内戦のおさまる兆しがなく、また、北東アジアに目を転じますと、北朝鮮の核の脅威が深刻なレベルに達している状況下において、戦争の悲惨さと平和のとうとさを語り継いでいきながらも、不測の事態に備え、関係機関としっかりと連携協調をし、市民の平和な生活を守り抜いていきたいと考えているところでございます。 ほかは、所管部長よりお答えさせていただきます。