京都市議会 2023-10-02 10月02日-03号
本市では、明治の初めにまちの復興を教育に懸け、地域の皆様がお金を出し合い、日本で初めての番組小学校を創設された伝統を受け継ぎ、地域に開かれた学校づくりの理念の下、学校・家庭・地域が一体となって、地域の自然や歴史、伝統文化を学ぶ活動、環境教育、歴史、食育など、京都ならではの教育活動を展開しており、そうした中で通学区域は重要な役割を果たしております。
本市では、明治の初めにまちの復興を教育に懸け、地域の皆様がお金を出し合い、日本で初めての番組小学校を創設された伝統を受け継ぎ、地域に開かれた学校づくりの理念の下、学校・家庭・地域が一体となって、地域の自然や歴史、伝統文化を学ぶ活動、環境教育、歴史、食育など、京都ならではの教育活動を展開しており、そうした中で通学区域は重要な役割を果たしております。
明治以来初の中央省庁の本格的な移転が実現し、京都が文字どおり文化の都となりました。京都駅東隣の崇仁地域には、4月の市立美術工芸高校に続き、来る10月1日には市立芸術大学が全面的に移転します。
3つ目ですけれども、短歌でも有名な上田三四二の歌碑が西側のロータリーのところにありましたけれども、もう一つね、大きい、これ明治23年っていうふうになったんかな、あの、青谷の梅咲きたりととか短歌歌ってる、伏見宮文秀女王っていう人のかなり大きな壁面碑があったんだけども、これは青谷コミセン側ですけどね、そういう青谷らしさを出すようなための工夫というのは今後からでも何か新しいプランで、やはり文学文化、そういうあたりでの
これまでの東京一極集中の是正や地方創生などの国家的課題のための省庁の地方移転という政策における京都での大きな意義としては、この立地をいかした諸地域の多様な文化の掘り起こしや磨き上げによる文化芸術の振興と世界への発信強化はもちろんのこと、何より明治以来の中央集権体制に風穴を開け、地方分権社会の実現を強力に推進する契機とすることにもあります。
明治以来初の省庁の移転であり、御尽力いただいた全ての皆様に心から感謝いたしております。同時に、その責任の重さをひしひしと感じております。
これは、明治以来150年で初めての中央省庁の移転となる国家的事業であります。と同時に東京の一極集中の是正、文化の力による地方創生を目指す文化行政の範ちゅうを越えた非常に大きな意義を持つ一大プロジェクトであります。
もとより、本市の教育は、地域の子供は地域で育てるという明治の番組小学校創設からの市民の皆様の情熱に支えられました。これからも学校・家庭・地域の揺るぎない信頼関係の下で更なる前進を図れるよう、教育委員会としてPTAに対し持続的で充実した支援を行うべきであると考えますが教育長の見解を求めます。
その一例として、京都市が誕生する以前の明治2年(1869年)には、町衆市民の力で番組小学校ができ、本年の全国学力テストにおいて小学生は政令指定都市1位であることは、その礎によって成し遂げられたと言っても過言ではなく先人に感謝いたすところです。そして今を生きる我々や京都市行政に求められるのは、このコロナ禍の中でもより多くの市民がいかに安らかに穏やかに生活できるかであります。
言うてみたら、明治よりも江戸時代だったら、私らは、出身は何であろうと、政治に携わっている者は、あの時代やったらは武士の端くれでしょう。失敗したら自害するぐらいの覚悟を決めてみんなやってるわけですよ。
明治時代の地租改正では、佐古、佐山、林は、三郷山の土地の所有者を明らかにするため、明治5年に所有権確定を京都府知事に願い出、明治13年、山林の新地券が交付され、三郷山は佐古、佐山、林の所有であると正式に認められました。 その後、明治22年、市政、町村政において、市町村合併を円滑に進めるため、一部の地域で所有財産は財産区として規制が行われました。
前回の議会から、東部丘陵地であるとか、城陽市の中間エリアを含めていろんなことを考えておりますと、今の京都であったり、この場所というのは、以前でいいますといつぐらいの時代の変革が来ているのかなといろいろ調べておりますと、遡ること140年ほど、明治15年になるんですけれども、その当時の京都市長と京都府知事が琵琶湖疏水を引くという計画をまず掲げられました。
昔は、ご存じだと思いますけれども、竹やぶのあるところが昔の堤防でして、非常に低い堤防だったのが、再三にわたる洪水で明治の終わりから大正ぐらいに堤防が構築されたんです。 したがいまして、富野荘の場合、あるいは東富野も含めて、本来は堤外地というのは国有地が主なんですけども、あそこは皆、民地になってるんですね、民間地だと。
言うてみたら独裁国家がほとんど国連の中で占めているような状況の中で、今の西洋型の、日本が明治以降学んできた民主主義をどう生かせるかというのは大きな課題だろうと思うんですけども。そのことに対して私たち議会人はそれなりに命をかけて、言論の府であり、あるいはお助けできることがあったらできるだけのことをしたいなということを申し上げて、今回の一般質問を終わります。
京都では,明治維新の翌年に地域の皆さんが土地や資金の提供で番組小学校をつくり,子供たちへの教育をスタートさせました。京都には,生活する皆さんの力で町をつくっていくというDNAが昔からあります。その流れの中,現在東山区には東山3K基金があります。
妊産婦や乳幼児を取り巻く環境は,明治,大正,昭和,平成,令和へと時代が変遷する中で,多産多死の時代から少産少死の時代へと移り変わり,さらに近年では少子化が大きな社会問題となるなど常に変化しています。
明治憲法下で日本で行われた教育は、子供たちを、教え子を戦場に送る教育であったということであります。教え子を送るということは、教え子は次々に成長していきますから、国民を戦場に送る、殺し殺される戦争に送るということであります。そのような間違った、偏った教育が行われていたわけであります。そのような延長上にあることではありませんね。
本町にとり、旧加悦鉄道の文化財的な価値でありますが、鉄道事業につきましては、明治時代以降の我が国や地方の近代化の象徴の一つであります。関西では明治7年に大阪~神戸間が開通し、そのときに輸入された機関車の一つが旧加悦鉄道2号機関車であります。我が国の近代化を示すものとして国指定重要文化財123号機関車となっています。
また,明治維新で大幅な人口減少により,大きな危機から復興させたのも町衆でした。京都はどんな困難なときでも,町衆,今でいう市民が作り上げてきたまちです。京都市の基本構想には「市民がつくる京都のまち」が掲げられています。これまでも地域団体が主体となって,市民活動団体,地域企業,地元大学などが連携し,福祉,経済,文化,防災などあらゆる面で地域を活性化するまちづくりを進めてきました。
京都市会は,明治22年,1889年6月14日に第1回の会議を開いて以来,130年を超える歴史を紡ぎ,市民を代表する機関として市民の福祉の向上と京都市の発展に尽くしてまいりました。 また,先の議場についても,昭和2年の開設以降,90年以上もの間,市民の信託を受けた議員が,時に熱く,時に激しく,侃々諤々の議論を交わし,京都市政を決定する舞台となってまいりました。
私も税におりましたときに調べてみたときに、典拠は失念いたしましたけれども、もともと印鑑が出てきたのは、明治時代に字を書けない人がいらっしゃったので、誰かが代筆して、確かに書きましたよということを確認するような意味がもともとあったと。もちろん日本においては印鑑ではなくて花押ですね。