高崎市議会 2021-12-02 令和 3年 12月 定例会(第5回)−12月02日-02号
明治から昭和初期にかけて、生糸は日本からの輸出の70%から40%を占め、1900年頃からは中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっています。このように、一時は世界を席巻していた日本の絹産業ですが、その後、化学繊維の発達や農業人口の減少などで衰退していくようになってしまいました。現在国内の養蚕農家は低収入、高齢化、後継者不足などにより年々減少し、生産量も減少の一途と聞いております。
明治から昭和初期にかけて、生糸は日本からの輸出の70%から40%を占め、1900年頃からは中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっています。このように、一時は世界を席巻していた日本の絹産業ですが、その後、化学繊維の発達や農業人口の減少などで衰退していくようになってしまいました。現在国内の養蚕農家は低収入、高齢化、後継者不足などにより年々減少し、生産量も減少の一途と聞いております。
ただ、化学繊維の普及や安価な外国産繭、生糸、絹製品が入ってきたことで需要が減少しまして、養蚕農家の高齢化や後継者不足とともに衰退している状況でございます。そういったことから、桑園跡地の桑の高木と言っておりますけれども、そういった状態が目に余るということでございます。ほとんどのものにつきましては、コンニャクだとか野菜などに転換されておりますけれども、一部では遊休農地化しているということでございます。
上毛かるたの中の読み札に「繭と生糸は日本一」と言われている部分があります。群馬県は早くから養蚕の生産県として知られていましたが、蚕糸業が重要な輸出品目となって、特に生産が盛んになったのは蚕糸技術の改良、明治3年、前橋藩主の手で機械製糸が始められてから、それ以後前橋を中心に発達してきました。
古代から東国文化の要衝として栄え、江戸時代は城下町として、明治期には生糸産業で発展した歴史を持つ本市には、地域性をまとった特色ある歴史文化遺産が数多く存在しています。例えば本市が誇る名古刹である龍海院には下馬将軍とうたわれた忠清公をはじめ、前橋藩主を務めた酒井氏の歴代藩主墓が約1,000坪の敷地に集積しており、全国的にも珍しい圧巻の景観をつくり出しています。
明治時代に入り、政府は生糸は外貨を獲得する上で重要な輸出製品であることに着目し、蚕糸業を積極的に保護、奨励しました。富岡製糸場が創業を開始した頃から日本の生糸の輸出量が増え始め、1909年、明治40年には世界一になりました。その後輸出量は急増し、1930年代、昭和15年代には世界に輸出された生糸の80%を日本産が占めるまでになりました。
かつては糸のまちとして、上毛かるたには県都前橋生糸の市とも詠まれていたこともあり、それにふさわしい看板となるような広告塔が必要と考えます。
古くから上毛かるたにも繭と生糸は日本一というようなことがありまして、群馬県は養蚕が盛んな県でありまして、明治に入りまして蚕糸技術の改良が進み、前橋藩士の手で機械での製糸が始められ、それ以降前橋を中心に養蚕が発展してきた、そういうこともありまして、県内で最も繭の生産が多いのは前橋市となりまして、令和元年度の生産量は約1万1,000キロとなっております。
このあたりのこともぜひ勘案しつつ、県都前橋生糸のまちとして、すてきなご縁の糸を紡げる前橋になることを要望いたします。 次に、平和事業についてお伺いします。今年で戦後75年ということもあり、本市においても戦争経験者がどんどんと少なくなっているという現状があります。戦争の悲惨さと戦争はできる限り避けなければいけない道であることを今後も後世に語り継ぐための取組が必要であるはずです。
そこへ、150周年記念で富岡市の作った生糸、マフラー、いろいろ持っていったのですけれども、その会場に来たリヨンの市民の方が、これを欲しいのだと、売ってくれという話をしたのですけれども、どうも国と国との貿易協定がないとそういう取引ができないようなのです。 私も、では実際にこういう答弁を頂いて、できるのかどうか調べてみたのです。
私は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の普遍的価値である、生糸の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本との間の「技術交流」について、今の時代にも生かしていかなければならないと考えます。改めて原点に立ち返り、この富岡の地から情報を発信することで周りを先導していくとともに、果敢に時代の変革に臨んでまいります。
蚕糸業は海外からの低価格な生糸や絹製品の流入、社会構造の変化に伴う後継者不足、日本人の生活様式が和装から洋装へと変化したことなどにより、衰退の一途をたどっています。そうした中、平成26年6月には富岡製糸場と絹産業遺産群が世界文化遺産に登録されました。また、平成29年5月には、碓氷製糸農業協同組合が組織変更し、碓氷製糸株式会社が設立されました。
市民に親しまれている上毛かるたに県都前橋生糸の市と読まれておりますが、残念ながら現在この面影を残すものが少なくなっております。
◎世界遺産観光部長(佐藤昭二君) 富岡製糸場は明治5年10月に操業を開始して以来、昭和62年3月の操業停止まで115年間の長きにわたり一貫して製糸工場として生糸生産を行ってまいりました。その間たくさんの方がさまざまな形で携わっております。例えば、初代場長の尾高惇忠を初め、工場長と呼ばれる方だけでも27名を数えます。
現に私たちに示された新議会棟の基本設計報告書には、議場の内装はできる限り木質化を図り、壁面には前橋地域産の木製ルーバーをしつらえ、さらに議長席の背面壁には前橋の地域性を表現する象徴的なしつらえとして、地元産業でもある木を組み合わせて制作する組子の意匠を取り入れ、生糸の織りなすさまと重ね合わせたデザインにすることで、より前橋らしさを表現するものとしますとあり、地元産材を積極的に活用することがうたわれております
碓氷製糸場は、高品質生糸の安定生産を図る製糸場でもありますので、誘客につきましては丁寧に協議しながら進めていきたいと考えております。 ○議長(今井敏博議員) 遠間大和議員。
本市は古くから養蚕業が盛んであり、生糸のまちとして地域経済の発展に貢献してきましたが、市内養蚕農家数は高齢化に伴い年々減少となっており、荒砥地区ではことしは4戸になってしまいました。また、昨年度においては夏の高温のため収繭量が減少したとの話を聞いております。
生産された繭は、生糸の原材料として碓氷製糸株式会社に卸されることとなっております。 次に、遺伝子組換え蚕実用飼育支援事業につきましては、3軒の養蚕農家で組織する前橋遺伝子組換えカイコ飼育組合がコラーゲンを生産する蚕を飼育しており、飼育の際に使用する人工飼料の購入に対して一部補助を行っております。補助金額につきましては、購入経費の10分の3で21万6,000円となっております。
次に、3点目の西置繭所のホールやギャラリーの運用についてでございますが、115年間という長きにわたり、一貫して生糸生産を行ってきた富岡製糸場の顕著で普遍的な価値を訪れる人に余すところなく伝えていくためには、公開活用や展示解説にも工夫が必要となってまいります。
このような観光に加え、臨江閣やれんが蔵など、生糸のまちで栄えた歴史文化を生かした観光やまえばし赤城山ヒルクライム大会に代表される参加型のスポーツツーリズム、あるいは東京オリンピック・パラリンピックに向けての全国的に増加しているインバウンド観光、今後の観光振興を考える上で欠かせないものであります。
93 【三森委員】 また、本市での養蚕業、生糸生産が盛んであった歴史を踏まえた取り組みも重要と考えます。市長説明において、本市の絹遺産を初めとする歴史文化にも触れ、よいものが育つ場所の一つのあかしとしております。