前橋市議会 2015-12-07 平成27年第4回定例会(第4日目) 本文 開催日: 2015-12-07
この事業は地域における日常の生活や風習とアーティストの持つ創造力が出会うことにより新しい魅力を創出、発信することを目指し、これまで生糸の歴史や家庭料理、農業などをテーマに行ってまいりました。
この事業は地域における日常の生活や風習とアーティストの持つ創造力が出会うことにより新しい魅力を創出、発信することを目指し、これまで生糸の歴史や家庭料理、農業などをテーマに行ってまいりました。
花燃ゆの影響もあり、絹の国、生糸のまちとして歴史認識が高められておりますが、県全体の27.5%を支える本市の養蚕農家を守り、長く引き継がれてきた全国一を存続させるためにも、市単独補助金を内外に恥ずかしくない額にすべきと思いますが、市長の考え方をお伺いいたします。
そして、この出荷先と申し上げますか、これが安中市の碓井製糸農業協同組合、こちらのほうは生糸を作っていますので、こちらのほうに出荷するということでございます。
また、今後の調査活動につきましては、今年度前橋商工会議所と連携して生糸のまち前橋の調査活動を取り組んでおりまして、その調査結果を各書籍として取りまとめるとともに、前橋発の器械製糸技術を伝播した地域と連携する形で生糸のまち前橋を全国に発信する新たな施策を実施してまいりたいと考えております。
1869年、明治2年に、横浜に藩営生糸直売所。1870年には、藩営洋式器械製糸場を開設いたしました。 藩主不在の100年間の治世は、本市行政としていかなるものであったのか。失われた10年と最近の言葉では聞き及びますが、この100年の藩主不在は文化そのものさえ残せず、極めて残念と思いますが、掘り起こす宝もあるのではないか。
そこで、生糸商人として大成功をおさめ、私財をなげうって前橋のまちづくりに貢献した初代前橋市長の下村善太郎や、多感な少年時代を前橋で過ごし、桃井小学校を卒業後、旧前橋中学校で学び、太平洋戦争終結時に内閣総理大臣を務め、命がけで戦争を終結に導き、国家、国民を救った鈴木貫太郎についても顕彰すべきと考えますが、ご所見をお伺いいたします。
ウズベキスタンは、中国、インド、ベトナムに次ぐ世界第4位の養蚕国、生糸生産国であります。マルゲラン市は、ウズベキスタンでも養蚕の最も盛んな地域の中心地であり、同市にある製糸工場は養蚕から製糸、織物製造、販売に至るまでの川上から川下までの一連の作業を1つの工場の敷地内で行うという理想的な形で稼働しております。
アーツ前橋関連では、花燃ゆ特別展や地域アートプロジェクトなどが計上されており、文化施設管理運営では朔太郎生家の移築に向けた調査を行い、文学館の1階店舗の改修工事、近代文化・歴史調査事業では生糸のまち前橋発掘事業としてシルクサミット開催に向けた調査が盛り込まれております。本市は、歴史的に文化の薫り高いまちとしての性格がございます。こうした点を十分に生かしていただきたいと考え、お願いをしておきます。
◆21番(田中伸一議員) 上州の生糸生産の一翼を担った歴史ある碓氷社本社事務所をどう活用していかれるのか、この点についてお伺いしたいと思います。 ○議長(柳沢吉保議員) 産業部長。 ◎産業部長(竹内克美) 旧碓氷社本社事務所につきましては、養蚕のまち安中のシンボルとして大変貴重な建造物と認識をしておりますが、活用するためには駐車場用地の確保や、所有者である民間企業の意向等もございます。
市内小・中学校において「ふるさと富岡の学習」を推進し、富岡製糸場の見学や繭と生糸のふれあい体験等を通して、富岡製糸場と養蚕や絹産業との関連について学びます。あわせて、地域の人や文化、自然及び富岡製糸場の教材化の視点から社会科副読本「わたしたちの富岡」を再編集して、郷土に関する理解を深めるとともに、郷土への誇りと愛情を育んでまいります。
また、希望される市民に飼育していただくことは、蚕が糸を吐き、繭をつくるまでの様子を目にすることで、養蚕への理解をより深めていただき、その繭を原料に生糸を生産した富岡製糸場とのかかわり合いを理解していただく上でも意義のあることと考えております。
非常にフランスとの親交が、生糸の輸出も含め、またロッシュ、ベルニー、ブリューナ、バスチャンと、こういったすばらしい方々が横浜製鉄所、横須賀製鉄所、そして群馬県、日本の宝であります富岡製糸場というふうにつながっております。
さらに、群馬で根づいていた生糸産業を基礎に県の政策として位置づけ、前橋産業発展の礎を築いた。また、当時県庁所在地を前橋にするか、高崎にするかでもめていたときに、楫取素彦が前橋を県都と定める決め手となったのが前橋に生糸業の盛んな動きがあったからだと言われております。
戦前は県内の農家のほとんどが養蚕を行っておりましたが、養蚕農家戸数は昭和33年に全国で8万4,470戸、これをピークにいたしまして、高齢化また安い生糸、絹製品の輸入により減少傾向が続いておりまして、現在ではピーク時の約500分の1まで減少しております。
蚕糸・絹業提携システムの結果につきましては、この蚕糸・絹業提携グループでございますけれども、養蚕農家、製糸から機織り、染色加工などの関係者が連携いたしまして、国産、群馬県産の繭や生糸による高品質な製品や商品づくりに取り組まれました結果、新たな需要が生まれ、また国産生糸の認知度の向上等に大きな役割を担った取り組みであると感じております。
本市も県都前橋生糸のまちに代表されるように、明治時代には藩営前橋製糸所の器械製糸技術が全国的に普及の原点となり、前橋の製糸業は富岡製糸場とともに日本の近代化に貢献してまいりました。残念ながら今回の世界遺産登録に前橋市内の物件は対象にはなりませんでしたが、絹産業の発展に大きな役割を果たしてきた本市であり、市内の絹産業の保全と活用を進めていくことが重要と考えます。
さらに、放送後の観光振興も見据えた際には、現存するれんが倉庫、前橋製糸所跡、生糸改所跡など、歴史的な背景をひもときながら、生糸のまち前橋を観光客に実感していただき、前橋市民にも自信を持って発信していただけるようなストーリー性をつくり上げたいと考えております。
群馬県の生糸の歴史は、県都前橋糸のまち、繭と生糸は日本一、日本で最初の富岡製糸など上毛かるたで読まれており、さらに銘仙織り出す伊勢崎市、桐生は日本の機どころなど、歴史を物語るものも多くあります。 前橋は、江戸時代より繭、生糸の集散地であり、製糸のまちとして発展してきました。
明治5年、1872年の富岡に官営製糸場が操業を開始し、明治の殖産興業を支えた生糸、その7割は群馬県産で、倉賀野の河岸から水路で東京、横浜港を経由して世界へと国の命運も乗せて運ばれていきました。明治17年、上野・高崎間に鉄道が敷設、さらに明治30年に上信電鉄が開通し、物流が水路から鉄路に変わったことで、さらに高崎の流通機能や都市機能が高まっていきました。
1点目の小学生に座繰り体験やお蚕を育てさせる構想についてですが、座繰りは機械製糸が導入されるまで、この地域における生糸生産の中心的な技術であり、繭から生糸をとれる貴重な体験ができるものでございます。富岡製糸場におきましては、昨年度まで市内の学校を中心とした世界遺産学習において座繰りを体験する機会を設けておりましたが、本年度からは各学校においてこれを実施しております。