宮古市議会 1999-09-21 09月21日-03号
昭和30年代から40年代、我が国は世界に例を見ない高度経済成長を遂げ、国民の生活水準は一段と向上し、昭和43年には、国民経済の規模はアメリカの次にまで拡大され、1人当たりの国民所得も西欧先進国の水準に達するところへ急成長しました。
昭和30年代から40年代、我が国は世界に例を見ない高度経済成長を遂げ、国民の生活水準は一段と向上し、昭和43年には、国民経済の規模はアメリカの次にまで拡大され、1人当たりの国民所得も西欧先進国の水準に達するところへ急成長しました。
釜石市のし尿処理場は昭和37年に松倉衛生処理場として建設され、昭和48年から釜石大槌地区行政事務組合の業務に、し尿処理施設の設置と維持管理事務が加わり、釜石市及び大槌町の環境衛生の向上に大きな成果を上げてまいりました。
また、昭和38年以来改正がなかったことから、字句の修正等所要の整備をするものでございます。 それでは、改正条文に沿ってご説明申し上げます。 目次の改正は、新たに第7条として1条が加わることから改正するものでございます。 第1条関係でございますが、地方税法第 431条が第 436条に繰り下げになったために改正するとともに、目的規定を趣旨規定に改めるなど、所要の整備をするものでございます。
次に、村の花ヤマユリの保護育成策並びに活用策についてでございますが、村の花ヤマユリは、村の木ベニヤマザクラ、村の鳥カッコウとともに村の花鳥木として昭和50年11月15日に制定しております。選定の理由は、夏の岩手山をめぐる山野にひっそりと白い花を開くその姿は野趣を帯び、しかも潔白な村民性にふさわしいということから選定されております。
昭和40年代までは、岩手郡下7町村の中でも最も人口の少なかった本村ですが、ご承知のとおりここ20数年ほどの間に全村的に宅地造成が進み、いわゆる振興住宅地が各地に形成され、本村の人口増加の主因となってまいりました。かく申す私もその間に移り住んでまいった1人でございます。
また、人口の変化を見ますと、昭和55年から平成11年に比較しますと約2倍に達しております。次に、平成9年の調査で、ゼロ歳から5歳の子供地区別人口では、元村地区が最も多く1,048人、全体の33.6%、次に川前地区995人、31.9%、そして鵜飼地区528人、16.9%の順となっております。
その内訳は、東校舎でございますが、昭和31年の建設でございまして、地下1階、地上5階、床面積は1,774平米、西校舎、昭和37年建設分でございまして、地下1階、地上4階、面積は1,185平米でございます。合計いたしまして2,959平米の2棟の建物解体事業費でございます。あわせて外周へのフェンス工事160万を含めまして6,670万円の補正でございます。
それから、今まで農業の経営基盤を支えてきました昭和一けた生まれの方々もそろそろ退陣の時期に来ていると。あと5年もしますと、そういう方々がリタイアに入ってくると。この豊作によって、緊急対策の2年間が今年で終わって、約束したように、また減反を戻して7%の緩和になるだろうというのも新聞紙上ではこれもカットされて、2年間続き、3年目、これからも33.2%ぐらいの減反で進むだろうと。
北上川の昭和橋から展勝地レストハウスまで、年に何回か川の中から両岸の景色を眺める機会がありますが、そのたびに自然の豊かさ、美しさに、そしてまた、四季折々の移ろいに感動いたしております。しかし、その行程の途中に、一部にはクマザサが生い茂ったりカヤが繁茂し、その上に増水したとき運ばれたと思われる泥がそれらをなぎ倒し、非常に醜い状況をさらけ出している場所も何カ所かあります。
花巻南インターチェンジは市街地に最も近接する本市の陳情インターチェンジとして昭和61年に開設して以来、最近では年間出入り台数おおむね120万台と、利用状況も順調な推移をたどっております。それに応じこの十数年来、本市の新たな発展上、この周辺の立地条件を生かした高度な土地利用計画の具体的推進が期待されておりましたけれども、残念ながらその花巻西地域の課題が進展されずに今日に至っております。
当市におけるソフトテニスは、昭和45年に開催された岩手国体の教員男子優勝に続きインターハイでも男子団体が全国優勝を果たし、北上市をソフトテニスのまちとして全国に印象づけてくれましたが、大会開催年だけの一過性の活躍、出来事であっては寂し過ぎるのであります。
当工業団地につきましては、昭和55年に精密機械関連企業10社で組織されました協同組合の行う工場等集団化事業に基づき、約5ヘクタールの工業用地を取得したものであり、その後、平成2年、平成6年の2度にわたる拡張を経まして、現在は約9ヘクタールの用地に12社が操業しております。
花巻東バイパス建設につきましては、昭和62年に事業着手されて以来、国道283号から西宮野目までのいわゆる北ルートにつきましては、土盛り工事や(仮称)花巻北大橋の上部工工事などが順調に推移しており、平成14年度の開通を目指していると伺っております。一方、南ルートの事業着手につきましては、去る7月下旬に建設省岩手工事事務所長から平成11年度内に、路線測量に入ることが示されたところであります。
平田地区、特に下平田地区等につきまして、今の運動公園付近から下の商業高校付近につながる道路をつくりたいというような計画が前建設部長の時代にあり、それがいつの間にやら引っ込められておりますけれども、あの平田地区の住民の皆さんも、昭和53年度からたしか都市計画税を納めているはずです。
花巻空港は昭和39年2月15日、第3種空港として1,200メートルの滑走路で使用開始され、昭和58年3月1日から2,000メートル滑走路使用開始とともに、ジェット機DC9-41型機が就航されました。その後、平成7年4月25日からは滑走路の嵩上げ工事の完了と同時に、中型ジェット機A300型機が就航いたしたことは、議員の皆様方もご存じのとおりであります。
これは昭和48年5月にこの清風園を設置いたしまして、それからはや30年程度になるわけでございますが、そのような形で老朽化が進んでおると。 もう1点につきましては、大部屋の解消を図ることができると。
御承知のとおり釜石では、昭和27年9月9日に日鉄鉱業が磁鉄鉱の鉱脈を探査するための炭鉱坑道を掘って、500メートル進んだところで鉱脈はない、当たらないという結論が出たにもかかわらず、さらに2000メートルプラスして掘り進み、それを岩手県に寄附というか提供し、そして昭和31年に隧道工事に入り、昭和34年に日本でも最も長距離で、最も困難な、手前、自前の横断道トンネルを実現したのは釜石であります。
あそこは昭和57年に建設されて17年になるわけですか。これからの崩壊を防ぐといいますか、市の貴重な財産ですので、まだまだずっと塀は40メートル以上、恐らく北側から西側にかけてずっと急勾配地でしたので、延べにしますと150から200、もっとあるかもしれません、メーターにすれば。
さて、小野市長を知ることのできたのは、昭和42年でございます。当時、栗沢市政の誕生に相まって、私もこの伝統のある釜石議会に席を与えていただきました。当時は市長を初め前野田市長も議員としてこの議事堂でともに議員活動をした仲であります。当時の市長の人柄は、極めて財政に明るい議員さんだなという印象が今でも鮮明に私の頭に浮かんでまいります。
まず、児童手当についてでありますが、昭和47年1月にスタートいたしました児童手当制度は、2つの目的があると言われております。1つは、社会保障、所得保障の観点から、家庭における生活の安定であります。もう一つは、児童福祉の観点から、児童の健全な育成と資質の向上であります。