鳥取県議会 2023-02-01 令和5年2月定例会暫定版(3/2 一般質問) 本文
このハンセン病につきましては、明治40年に、癩予防に関する件という勅令が出されまして、それ以来、我が国挙げて一つの運動を起こしてしまったということがございました。この件につきましては昭和5年になりまして、長島愛生園が誕生し、それからその翌年にこの癩予防法という旧法ができるわけであります。
このハンセン病につきましては、明治40年に、癩予防に関する件という勅令が出されまして、それ以来、我が国挙げて一つの運動を起こしてしまったということがございました。この件につきましては昭和5年になりまして、長島愛生園が誕生し、それからその翌年にこの癩予防法という旧法ができるわけであります。
これは非常に全国でも高い評価を受けており、無癩県運動のことなど、群馬県のハンセン病の歴史を総括するような報告書である。家族訴訟の勝利判決も2019年にある。また楽泉園納骨堂前に、人権の碑が建立された。これは谺 雄二氏が提唱し1,600人を超える寄附が集まってつくられたが、このこともぜひパンフレットに載せてほしい。
ハンセン病に対する最初の立法は、明治40年に制定された癩予防に関する件であり、昭和6年に、癩予防法と名前を変え、国家主義を色濃く反映させました。民族浄化、無らい日本を掲げて、全ての患者を根こそぎ強制収容して、社会から隔離する政策が推進されました。それを象徴するのが官民一体の、無らい県運動で、患者を探し出しては療養所に送り込んだのであります。
明治四十年には、放浪癩、お家やふるさとを捨てて歩いている放浪癩と呼ばれるハンセン病罹病者を癩療養所に入所させる法律がつくられたり、明治四十二年には全国に五カ所の療養所が設置され、ハンセン病にかかった人が入所させられました。一度入所させられると、家族にも会えないし、ふるさとに帰ることも許されなくなりました。
これは明治40年の癩予防に関する件という政府の方針があり、それから昭和6年に癩予防法というのがつくられ、これが戦後にもまた、文字は変わりましたけれども、らい予防法として受け継がれていきました。これは、一つの社会の恐ろしさといいますか、個々の人間と大きな社会との関係性を改めて考えさせるものでありました。
一九九六年にいわゆる癩予防法が廃止され、強制収容は解かれましたが、療養所入所者は結婚しても、断種をされており、子どもがなく、社会復帰を促す身内もなく、社会復帰が進まないのが現実です。国の誤ったハンセン病隔離政策のもとで既に亡くなった人もたくさんあります。ハンセン病療養所入所者は、高齢で減っていくばかりですが、療養所のあり方をうたったハンセン病問題基本法がことしの四月一日から施行されました。
昭和時の内務省は、患者全員を隔離する絶対隔離を主張し、一九三一年に癩予防法を定め、隔離対象を基本的に全患者に広げたのであります。
一九〇九年に初めて癩予防ニ関スル件という法律ができ、その後、法を変え、治外法権的な位置づけとして一九二九年無らい県運動が発令されました。達成県には栄誉を与えて各県を競わせるというような状態だったわけです。これがハンセン病はとても怖いとして、偏見を増長させるということにもなりました。未曽有の人権侵害が国家の名のもとに行われたんです。県もそれに協力をしてこられたんです。
1907年の癩予防ニ関スル件の制定によって始まった強制隔離政策は、1931年の癩予防法、1953年の新らい予防法を経て、1996年の廃止まで続けられました。 軽症患者は、重症患者の看護や、死亡者の火葬などの強制労働と呼ぶ過酷な園内作業を強いられました。さらには、園内結婚と引きかえに、男性には断種手術を強要し、全国で3,000を超える命が中絶手術で奪われました。
明治40年、癩予防に関する件の制定を出発点として、ハンセン病は強い感染力を持ち不治の病であるかのごとく宣伝され、国策として強制隔離政策が進められ、戦前・戦後、強制的に療養所に送り込まれ、数十年に及ぶ隔離された生活を強要され、人間の尊厳を奪い続けてこられたわけであります。
一九〇七年(明治四十年)に癩予防ニ関スル件が制定されて以来、九六年(平成八年)にらい予防法が廃止されるまで九十年続いた隔離政策は、ハンセン病患者を徹底的に隔離し、社会から抹殺するものでしかありませんでした。療養所とは名ばかりの隔離施設では、人間であることさえ否定される厳しいところだったと言われています。
国のハンセン病対策は、一九〇七年の「癩予防に関する件」の法律に始まり、一九九六年のらい予防法の廃止に至るまでの約九十年間に及び、誤った医学的観点から、この間、患者の人権を著しく侵害した強制隔離政策や差別や偏見によって患者自身の「人間らしい生き方」を奪い続ける、まさに非人道的な政策を取り続けてきたのであります。
昭和六年、癩予防法が改正されました。この改正は、全患者を強制隔離の対象とするという内容のものでございます。国立療養所第一号、長島愛生園が開設されております。このときから本籍、氏名を申請しなくても入所可能となってきております。昭和十一年、無らい県運動。この無らい県運動ということは、患者狩りとも言われたものでございます。これが始まっております。
ところがハンセン病、癩患者として入園された方々も今は一〇〇%完治され、地域住民との交流も隔壁なく行われつつある現状であります。ところが入園者の方々も七十一・二歳という平均年齢が示すとおり、かなり高齢となられ、中でも八十歳以上が百二名で、毎年二十名ぐらいの方々が逝去されているというのであります。
〔農林部長(高癩一太郎君)登壇〕 ◎農林部長(高瀬一太郎君) 十の、見沼田圃保全についてお答えいたします。 農業振興地域の農用地区域は、将来とも農業上の利用を確保すべき土地として設定されており、その変更に当たりましては、社会経済情勢の変化等により必要やむを得ない場合に限って行うこととされております。
東村山都市計画道路二、一、三号線等の建設促進に関する請願 一、四七第六七八号 都市計画街路補助一〇九号線葛飾区堀切地区の拡幅に伴う水路の移設等に関する請願 一、四七第六八三号 府中市内の勤労福祉会館建設に関する請願 一、四七第六八四号 府中都市計画街路一・三・一号線の府中市本宿一丁目地域の建設促進関する請願 一、四七第六八九号 環状八号線大田区千烏地域の用地買収補償等に関する請願 一、四七癩六九四号
現在ベツトスクールは癩療養所の新生園、結核療養所の瀬峯療養所、西多賀療養所、山下療養所、拓桃園刈田病院、築館病院等、おもな病院をあげますと、これら病院のベツトスクールの児童生徒数及び教職員数は、新生園が中学三年が一名、教職員男一名、女一名の計二名、瀬峯療養所小学生十一名、中学生が二十名、教員は男二名女二名の四名、西多賀療養所は小学生五十八名、中学生が四十七名、計百五名、教員は男三名、女七名の十名であります
もしこれが癩患者であるといたしましたらどういたしますか。癩患者が大東京都に、昨日加藤君が言うように二十五万人もうめいているとしたらこれはどういたしますか。癩患者というけれども、癩患者よりもさらに恐るべき傳染性を持つているこの結核患者に対しまして、現状のままでよろしいでしようか。私は断々固として承服することができないのであります。
村組合高等学校県移管についての請願一、母子相談所開設に関する請願一、未亡人更生資金貸付制度実施に関する請願一、宮城県水産試験場設備拡充に関する請願一、国宝建造物端巖寺本堂及御成門維持修理費補助金下附に関する請願一、栗原郡大岡村地内迫川堤防の移築工事を至急着工せられたき陳情一、僻地教育振興に関する請願一、小田ダム建設反対に関する陳情一、長谷川合流問題に関する陳情一、鳴瀬川上流改修工事に関する請願一、癩の
水防態勢の充実方の請願十七、食品衛生法施行規則の制定に際し生産地居住者に限り店舗不要に修正方の請願十八、宮城県鉱業開発振興費補助の請願十九、県道粕川松島線外四ケ線の路面修理並びに砂利敷等施行方の請願二十、吉田豊里土地改良区排水事業を昭和二十六年度県営事業として施行並びに調査費県費支弁方の請願二十一、白石町を中心としたる総合都市計画促進に関する請願二十二、白石沖小下倉線道路拡張工事促進に関する請願二十三、癩療養所東北新生園