熊本県議会 2045-06-01 06月11日-02号
この収益の内容を若干説明いたしますが、まず水俣工場におきましては製造部門で十七億五千万円の赤字を出しております。電気部門で十二億八千万円の黒字となっております。差し引き水俣工場におきましては四億七千万円の赤字となっております。それに水島工場の赤字二億四千万円を加えますと、チッソ株式会社の赤字額の合計は七億一千万円と相なるわけでございます。
この収益の内容を若干説明いたしますが、まず水俣工場におきましては製造部門で十七億五千万円の赤字を出しております。電気部門で十二億八千万円の黒字となっております。差し引き水俣工場におきましては四億七千万円の赤字となっております。それに水島工場の赤字二億四千万円を加えますと、チッソ株式会社の赤字額の合計は七億一千万円と相なるわけでございます。
二つ目の問題は、水俣工場の雇用の確保と開銀融資についてであります。 県債発行の前提条件として、チッソ水俣工場の縮小はしない、地域経済に寄与するとの約束がなされたにもかかわらず、この点が事実上ほごにされ、水俣工場の労働者数は年々減少しておるわけでありますが、県はチッソに対し、どのように指導し要請してこられたのか、明らかにしていただきたいと思います。
水俣病発生の原因は、チッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を湾に流し続けたことです。疑いは早くからありましたが、国や県は規制をせずに、施設操業は68年まで続きました。住民の健康よりも経済の論理が優先をされてしまった結果です。 水俣病と認定し、経済的にも補償対象とした患者は、これまで熊本県、鹿児島県合わせて2,000人余にすぎません。
また、熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場による工業廃水の排出が原因となったメチル水銀中毒症、いわゆる水俣病の患者への補償では、認定患者に対しチッソから慰謝料としての一時金が支払われています。しかし、この水俣病については、一時解決後も二次訴訟、三次訴訟と続き、今なお訴訟が続いているものであります。
一九五〇年ごろ、魚の大量死と猫の狂い死にから始まった水俣病は、チッソ水俣工場の廃液に含まれたメチル水銀に汚染された魚介類を地域住民がたくさん食べたことによって引き起こされましたが、チッソが隠し、国と熊本県が放置する中で、深刻な公害病として広がっていきました。
公式確認より約20年以上前、今から85年前の1932年から、チッソ水俣工場の排水は海に流され続けていました。1932年から1958年までは、水俣工場から排水路を経由して百間港に排水が流れ、1958年9月から1959年10月までの間は、排水先が水俣川河口に変更されました。
水俣病は、御案内のとおり、チッソ水俣工場が不知火海に流した排水のメチル水銀が原因で生じた公害病であり、1956年5月1日に患者の多発が保健所に届けられ公式確認されました。 現在の熊本県の水俣病の認定患者は1,789人。一方で、患者認定を求めて認定申請をしている人は、10月末現在で1,231人です。 2009年に成立した水俣病被害者救済特別措置法は、水俣病問題の最終解決をすると定めてあります。
チッソ水俣工場の附属病院長であった細川博士は、水俣病の原因が工場排水の水銀であったことを証明し、つらいことながら、自分の会社の公害を告発することとなりました。退職後、三瓶に戻り、診療と研究を進めながら、新潟の第2水俣病の現地調査や裁判の証人にも立ち、真実の究明に当たられました。 公害との闘いに一生を捧げた細川博士のふるさと三瓶町を公害で汚しては申しわけないです。
公式発見から6カ月後の1956年12月12日に、熊大医学部は、チッソ水俣工場の工場排水中の重金属の食中毒事件と判断して、渡邊良夫厚生大臣に報告しています。しかし、翌日の閣議で、池田勇人通産大臣が、水俣病と水銀とを関連づけるのは時期尚早と判断したため、閣議了承が得られないまま、水俣病と有機水銀、工場排水との関係は不明のままにされたのです。
水俣病といっても委員の中にはどんな病気なのか全く分からない方もいるかと思うが、私が子どものころ、テレビがまだ白黒のころ、猫が狂うように暴れ回って死んでいくとか、それから、いろんな胎児性疾患で非常に重い障害の方がちらっと映ったり、ユージン・スミスさんの衝撃的で有名な写真が全国的に発信されたりといったことがあったわけだが、それがチッソ水俣工場から出ていた廃液による水銀中毒であると認定されたのが、垂れ流しが
1959年の年末までに、水質2法などによりチッソ水俣工場の排水規制をしておけば、水俣病の発生拡大は防げたこと、1960年1月以降、被害拡大を防ぐ義務が生じていたのに、国と県が規制権限の義務を行使しなかったことで、最高裁は、国と熊本県を、チッソとともに共同不法行為者と判決を下したのです。
またこれらの中には保健手帳の申請対象外の地域や、チッソ水俣工場が有害な排出をとめた翌年の一九六九年以降に生まれ、国の救済対象から外されている世代の人たちも受診しています。地域、年代のどちらも実態との矛盾が実証された形となりました。
中央公害対策審議会の答申である、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド生産を中止した1969年以降は、水俣病が発生するレベルの水銀汚染は見られないとの答申がその根拠であるということですが、そのことで、認定申請者を初め患者団体から、反発と県に対する不信感が出されております。 この答申をそのまま受け取れば、1969年以降の出生者は水俣病とは認定されないことになります。
チッソ水俣工場が水俣湾に流したメチル水銀は非常に濃度の低い、安全性に問題のないはずのものでした。しかしながら、水銀は、プランクトン、エビ、小魚、大きな魚と食物連鎖を通して生物学的濃縮を繰り返し、ついには百万倍の濃度になって、猫や人間に水俣病を発症しました。このときの教訓は、どんなに薄めても環境に放出された物質は食物連鎖の頂点に立つ人間がその影響を受けるというものです。
水俣病は、チッソの水俣工場からの排水による水質汚濁を、国、熊本県の行政当局も長年にわたりこれを放置したことにより、被害の拡大をもたらしたという日本の公害史上最も典型的な、かつ反省すべき公害であり、現在でも多くの方々が心身の苦労に耐えておられるところであります。
昭和三十四年十一月、厚生大臣の諮問機関である食品衛生調査会は、水俣病の原因は有機水銀化合物であると答申し、国は、水俣病の原因がある種の有機水銀化合物であること、排出源がチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造施設の可能性が高いことを認識し得る状況にありました。 チッソは、昭和三十三年九月、アセトアルデヒド製造施設の排水路を湾内の百間港から湾外の八幡プールへ変更し、水俣川河口へ放流し始めました。
昨年六月議会で水俣病の教訓について申し上げたときにも触れたことですが、昭和三十一年の水俣病の公式発見の四年前に、漁獲が減った水俣市漁協の要請で現地調査した三好礼治県水産課係長は、漁業被害は水俣工場からの排水と長い年月に堆積した残渣によるものと結論づけ、排水を分析し成分を明確にしておくべきだと報告したのに県は何もしなかった、そしてその責任はだれも問われなかった、これが水俣病の教訓です。
次に、委員から、チッソ水俣工場がダイオキシンで問題になっている、県の対応はどうなっているのかとの質疑があり、執行部から、今年の六月の調査以降、会社側でも焼却炉の停止やいろいろな改善策をとった結果、現在はかなり改善されてきている、会社側には、社会的責任を十分認識して、抜本的な原因究明と早急な措置をとるよう要請しているとの答弁がありました。
その年の十一月三日には、熊大医学部研究班の第一回研究報告会が開かれ、衛生学の入鹿山教授は、患者に漁師が多いことから魚介類を疑い、その汚染源としてチッソ水俣工場の排水に着目しました。
本定例会中の委員会では、十二月定例会後の経過について報告を受けましたが、去る一月二十六日に自由民主党水俣問題小委員会においてチッソ再生計画が説明され、チッソは、事業構造の転換、コスト競争力強化、人員削減、株主責任の明確化などを行うことになっており、経常利益四十億円、金融機関の債務無利子化分を含めると五十三億円を確保する一方、水俣工場は、雇用減を最小限に抑え、むしろ強化される方向が打ち出されている内容