熊本県議会 2045-06-01 06月14日-04号
〔林田幸治君登壇〕(拍手) ◆(林田幸治君) 日本社会党の林田でございます。通告に従いまして、日本社会党を代表して一般質問を申し上げさせていただきます。 第一は、農政の諸問題ということにおきまして、自給飼料対策、そして養豚対策についてお伺いをしてまいりたいと思います。
〔林田幸治君登壇〕(拍手) ◆(林田幸治君) 日本社会党の林田でございます。通告に従いまして、日本社会党を代表して一般質問を申し上げさせていただきます。 第一は、農政の諸問題ということにおきまして、自給飼料対策、そして養豚対策についてお伺いをしてまいりたいと思います。
日本社会党代表中村晋君。 〔中村晋君登壇〕 ◆(中村晋君) 日本社会党を代表いたしまして、それぞれ県政の重要課題につきまして、特に今回はすべて知事にお伺いしたいと思います。 昨日は、来年の知事選挙を想定されまして、沢田知事の後援会が盛大に発足したという新聞報道を見させていただきました。
市会議員当時、私は日本社会党に属しており、護憲を一枚看板として、その柱を非武装中立政策としておりました。その中で、防衛費のGNP1%枠、武器輸出禁止、海外派兵反対など、政府に迫ってきました。他方、警察予備隊から発足し、防衛庁、自衛隊と位置づけられ、1956年、昭和29年、独立国が当然に保有する自衛権を憲法は否定しないと政府の統一見解が出るに至りました。
翻って、一九六七年(昭和四十二年)二月議会で、当時の日本社会党議員十名が──何と十名もいたんですね、日本社会党議員十名が、選挙公報条例の制定について議員提案、続く一九七〇年(昭和四十五年)、そして一九八二年(昭和五十七年)、日本社会党と各党が提案するも、三度とも否決されています。 いずれも自民党は提出者になっていませんので、なぜ否決されたのか、おわかりいただけると思います。
昭和21年に発布される前に、日本共産党の国会議員、護憲派と言われている日本社会党の国会議員も、今の憲法に関しては疑義ありと国会の場で発言しております。野坂参三代議士、それから日本社会党原代議士であります。 ですから、私は、教育長にお願いしたいのは、憲法の論議というものを冷静に判断する目を子供たちに養わせていただきたい。
自由民主党の知事、日本社会党の政令市長、日本共産党の知事さん、職務に従事されたのを記憶しております。 私は、知事選挙に臨むに当たり、みずからの意思で自民党籍を離れ、県民党という立場で知事の職責を担わせていただくということを県民の皆様に訴え、知事に選任していただいたところであります。
私自身は、1985年7月15日から、県議会に身を置くことになったわけでありますが、当時は日本社会党会派ということで所属をしておりましたが、その後、1987年に社会党・革新連合、そして1999年には県民クラブというように、名前は変わりましたけれども、しかしその内容については変わることはございませんでした。
この方は、第一回、第二回の市長選は、当時の日本社会党と共産党のみの推薦で当選され、政令都市名古屋に革新市政誕生と大騒ぎをされました。 しかし、この本山市長の人品骨柄、行政手腕が各党各派の共感を呼び、三回目の市長選は、社会、共産はもとより、自民、民社、公明の各党も推薦、立派な戦績で当選されたのであります。
菅新総理は、村山総理以来16年ぶりの非世襲の総理大臣でありますが、日本社会党という大政党をたたき上げてきた村山総理と違い、まさに地盤、看板、かばん、すべてがないところから政治家としての歩みを始めた珍しい政治家であります。
このように、北朝鮮本国の命により拉致を実行してきた朝鮮総連、またそれと強いつながりを持ち続けた日教組、あるいは日本社会党、そしてこの流れを一部受け継ぐ民主党のぞくっとするようなある種の危険性、例えば外国人参政権、夫婦別姓などに見られるように、その危険な体質を持ち続けている民主党政権に果たして拉致問題の解決に真正面から向き合えるのか。
1度目が89年、土井たか子日本社会党委員長時代、そして2度目が99年の菅直人民主党代表の時代でありました。このときはいずれも第一党は自民党であり、連立を利用してピンチを切り抜け、政権維持を図ってこられたのであります。しかし、今回は前回と違って民主党が第一党となり、野党で過半数を占め、議長、議運委員長はこれまでの慣例により第一党から選出されるなど、過去とは全く違う国会構造になったのであります。
以上でありますが、私が若かったとき、当時の日本社会党委員長鈴木茂三郎先生の、「青年よ銃をとるな」、「教師よ教え子を再び戦場に送るな」、この呼びかけに私は共鳴しながら、基本的人権の尊重、戦争の放棄などを規定した日本国憲法が生き生きと生かされる山形県政、教育行政をと要望してきたのであります。 今、戦後の我が国の民主主義を守り発展させてきた教育基本法が改正されてしまいました。
〔知事田中康夫君登壇〕 ◎知事(田中康夫 君)大変僣越ですが、お聞きしていると、日本共産党やかつての日本社会党も言わないほどのおねだりをなさっている感じがして、私の目に、コンタクトを入れていると1.5でございますが、間違いがなければ、議員の会派の方からもいささか失笑が漏れていると。
臨海型工業団地であることから内陸型の団地とし、技術先端型、研究開発型や高付加価値型の企業を優先しながら、集積のメリットを生かせる団地とし、かつ、緑地や利便施設の整備をも配慮した良質な工業団地を考え、さらにはその工業団地を含めた都市形成を図られるような開発を進めたいとの方針を述べています。 当時の会議録では、議会の中には工業団地造成に強い反対の意見はなかったようでありますが、建設公安委員会の中で、当時の日本社会党
また、初めて選挙活動に携わりましたのは大学時代、書生として身を置いておりました一九七四年、当時日本社会党の故松本英一参議院議員の全国区の選挙でありました。多くの書生や仲間たちと関東ブロックを担当し、連日連夜を問わず三カ月余り、東奔西走しておったような状況でございました。時を同じくして、徳島選挙区では、三角代理戦争とも、阿波戦争とも言われ、県内を二分する激烈な選挙戦が繰り広げられていたのであります。
かつての日本社会党の坂本勝兵庫県知事は,神様なんですよ。それから,共産党の京都の虎さん,ああいう教育改革をどんどんやってくれると,私学は教育改革と違うこと,違うことをやれば発展するという歴史も含めて全部ある。日本の歴史を見ると,農業問題と教育の問題は,触れば触るほどだめになっていくんです。そういう歴史があるんです。
その多くは日本社会党や労働組合の努力の結果であった」以上2カ所についてお尋ねいたします。 立候補されるとき、当然この新宣言はお読みになっておられたと思いますが、知事はこの新宣言に、これまた当然賛同して立候補したと理解してよろしいか。 第2点として、社会主義運動の先輩たちが残した遺産とは何を指していると考えておられたのか。
御高承のとおり、昭和35年、第35回臨時国会において、自由民主党、日本社会党および民主社会党が、人権尊重の建前から超党派的に連携して同和対策審議会設置法案を共同提案し、国会は全会一致をもってその法案を可決いたしました。
そんな時代に、金日成北朝鮮の独裁政治を批判した宮本顕治さんの日本共産党と亀裂を生じたということで、朝鮮労働党は日本社会党と友党関係を結んで、その後、日朝間の橋渡しとなった。 昭和五十二年、わずか十三歳中学一年生の横田めぐみさんが新潟市で拉致。以来二十六年たったことしの春、幾らかけ合っても外務省、各政党、日本ではらちが明かないと、思い余って救う会ともどもに横田さんの御両親が、御夫妻が訪米した。
15年前の昭和63年7月4日、私の初めての日本社会党鳥取県議会議員団を代表しての質問の際、教育の中立性が最も大切にされなければならないにもかかわらず、教育委員会に多数党が圧力をかけ云々と表現したため、今は亡き角田勇一先生に、多数党といえば自民党しかない、自民党が圧力をかけた覚えはない、暫時休憩だ、取り消しだと発言され、直ちに休憩に入り、決着を図るために3時間以上を要したのであります。