宮城県議会 2005-11-01 12月07日-05号
しかし、時の長岡藩の小林虎三郎は、この百俵の米を藩士に配分せず売却して、その代金を国学や漢学などを教える学校の資金につぎ込んだという、いわゆる米百俵の話は余りにも有名な話ですが、こういう厳しい我が県の状況の中にあっても、将来の宮城を担う人材の育成は、手を緩めることなく進めていかなければなりません。
しかし、時の長岡藩の小林虎三郎は、この百俵の米を藩士に配分せず売却して、その代金を国学や漢学などを教える学校の資金につぎ込んだという、いわゆる米百俵の話は余りにも有名な話ですが、こういう厳しい我が県の状況の中にあっても、将来の宮城を担う人材の育成は、手を緩めることなく進めていかなければなりません。
もう1点、米百俵のお話で、長岡というところの、実は、このときの米百俵をいわゆる国漢学校にしようと、国学や漢学の学校にしようということを言ったのは小林虎三郎という方なんだそうでございます、物の本によれば。ちなみに、佐久間象山の弟子であったということではございますが。
本県では、近代日本の経済社会を築いた渋沢栄一、あるいは江戸時代の国学者で今でも歴史研究に使われております「群書類從」を刊行した塙保己一、また日本の女医第一号の荻野吟子など、大変すばらしい先人が輩出されております。基礎的な学力に立って、その上に個性が磨かれて、先人の偉業を継ぐような人材が続々と輩出するような、そういう教育県になっていただきたい、またそうすべきだと考えております。
ところが、やがて江戸時代になると、国学神道、復古神道とも呼ばれる本居宣長や平田篤胤などのいわゆる国学系の神道が起こったのです。国学というのは、漢意を排し、やまとごころをたっとぶ古事記とか日本書紀に書かれている神代の時代が本来の日本の姿なのだという考えです。この新しい神道は、いわゆる仏教や儒教を排斥し、純粋に日本の神だけを考えていこうという純粋神道思想なのです。
また、渋沢翁のほかにも、荻野吟子女史と、児玉出身で江戸後期の偉大な国学者、塙保己一翁がおりますが、戦後の高度経済成長以前は、県北こそが埼玉の人材の宝庫でありました。 ところが、今の県北は埼玉の田舎として、産業、都市基盤、福祉、医療、教育などあらゆる面で、人口密度と都市施設の集積度が高い県南に相当遅れをとっております。
「敷島の 大和心を人とはば 朝日に匂う山桜花」、これは江戸時代の国学者本居宣長が詠んだ和歌であります。私は学生時代、歴史を勉強してきました。卒業論文の題材は、本居宣長の政治意識であります。江戸時代の一国平和主義的な鎖国の時代からおよそ80年を経て、日本は破滅的な戦争に邁進していきました。80年間のその変わりようは、一体どのような精神構造からなのか。
江戸時代の国学者本居宣長は「玉勝間」の一節の中で師説、「師たるものは自分の説にこだわることなく、弟子がいい説を出したらその説を認めてあげて、そしてその弟子を育て上げなさい。その説こそが今後の学問を育てるものだ」と、そう本居宣長は言っております。
また、駆除対策としてのバス釣り大会については、昨年度は八郎湖で国学館高校の生徒によって、本年度は馬場目川で地元漁業協同組合によって開催されたところであり、今後このような取り組みが全県に広がることを期待しております。ブラックバス等外来魚は、内水面漁業の振興や生態系にも重大な影響を及ぼす害魚として、今後とも漁業協同組合や、ため池を管理する土地改良区等と一体となって駆除に努めてまいりたいと思います。
これまで小鹿野の歌舞伎や鷲宮町の催馬楽神楽、秩父屋台ばやしといった県内各地に伝わる舞踊とか太鼓などを支援してまいりましたのも、また、今年度実施しておりまする児玉町出身の国学者、総検校塙保己一先生の顕彰など、我が郷土埼玉が誇る偉人の顕彰に取り組んでおりますのも、地域の歴史の中で培われた心を広く県民の方々に知ってもらいたいという私の思いでございます。
十八世紀の国学者本居宣長は次のような和歌を残しています。「しきしまの やまと心を人問はば 朝日ににほう 山桜花」。私は高校で、この歌は物の哀れがテーマであり、女性的で平和な心、日本の美しい心を歌ったものであると習った記憶があります。ふるさとの美しい景観は人々の美しい心と重ね合わされるものであります。
国学ももうちょっと勉強しながら、国学を入れた地域づくりもしていきたいと、こんなふうにも思っております。 再質問と要望をさせていただきたいと思います。 知事は、現場主義を掲げ積極的に現場に足を運んでいる、これは大変評価するものであります。そして、県はサービス機関だとも言っております。そのとおりだなと思います。
本県には、荻野吟子女史や渋沢栄一翁のほかにも、津田恭介先生をはじめ、児玉町出身で江戸時代の国学者でございます塙保己一、与野市出身の電気科学者でございます武井武、北川辺町出身で日本の解剖学の父でもあります日本初の医学博士でございます田口和美、桶川市出身で日本初の女性農学博士であり、緑茶中のカテキンを発見いたしました食品化学者でございます辻村みちよなど、今なお私たちの心に深い感銘を与え続ける偉大な多くの
神職であり,国学者でもありましたが,敬業館では四書五経などの漢学を教えました。当時の教育は,常識的で倫理観の強い善良な人物を育成するのが主眼であり,弟子は師の人格と識見に魅せられて,遠くからふとんをかついでやってきたのであります。 また,岡山県が生んだ偉大な教育者といえば,緒方洪庵を忘れることはできないと思います。洪庵は,岡山県吉備郡足守町に生まれました。
江戸時代は朱子学が国学であり、孔子の政治・道徳の実践を説いた儒教をもとにした哲学であります。底辺には思いやりの心、忠恕の精神があります。そして明治時代になり、小学校が寺子屋に負けない数が建設され、教育の体制が確立されました。 私は、当時に建てられ、現在廃校になっておる山間の小学校跡地を見学に行ってまいりました。
県といたしましては、滑走路延長にかかわる空港周辺の道路整備のあり方につきましては、これら要望の趣旨を十分踏まえて、現在、現地で地質調査を実施しながら、市街地へのアクセス、国学三号など既存道路、さらにはJR奥羽本線などとの関係を考慮いたしましたルート比較を現在進めておるところであります。
明治の維新史を論ずる人たちの中には、福沢的思想や岩倉、大久保的な革新的政治家群を文明開化派と呼び、西郷隆盛や増田宋太郎を維新派、国学派と呼ぶ向きもありますが、これは、ある面では、敗戦を境とする現代日本の、流れの中にも見られる思潮とも言えるものでありましょう。さらに言えば、松尾芭蕉の言う不易と流行の精神に通ずる考え方と言えるかもしれません。
この間に手がけた事業は、大型帆船や蒸気船、反射炉、ガラス製造、溶鉱炉、地雷水雷、ガス灯、電信機、写真術、洋式製塩、紡織、漢和洋書籍の印刷、洋式軍制、砲台大砲整備、穀物価格の安定化、留学生の海外派遣計画、国学館、洋学館の創設計画など、驚くほど多岐にわたっている。その多くは、西洋の書物の翻訳に始まり、基礎的な試験研究を積み重ねて、実用化するという経緯をたどっている。
江戸時代に興った国学の中の平田学派が、明治維新の精神的バックボーンで、その系列の明治政府の指導者が神祇官をおいて、廃仏毀釈を全国に指令しました。鹿児島は全国一ひどく、県下のお寺というお寺、千六十数ヵ寺はことごとくたたき壊され、焼かれ、抵抗する僧侶とその家族は弾圧されたと聞きます。
そうしますと、これは彼に言わせますというと、これからの新しいふるさとづくりというのは、これは接着剤、つまり日本精神というものを残さなくちやいかぬのに、つくらなくちやいかぬのでないかと、こういうふうに私は考えるのでございますが、一体日本精神というのは見たことないものですから、どんなものだか、どんな形かつこうをしておるか、見たいのでございますが、これは国学者でもなければ、とても日本精神なんというもののうんのうをきわめた
「大日本史」による水戸光圀の運動、賀茂真淵、本居宣長の国学、尊皇攘夷の思想など天皇を中心とする国家体制が続いた。それを象徴というと思うのであります。(発言する者あり) マッカーサーが天皇制を擁護して、憲法第一条天皇象徴にしたのも、日本歴史を理解した上でのことであると思うのであります。