下松市議会 2015-12-09 12月09日-04号
しかし、下松は過去2回にわたる財政再建団体があったんです。そして、合併協議会を退席した男でありますから、自主自立でこの下松を立て直していこうと、議会の皆さんにも相当な御協力をいただきました。 特に、渡辺さんにも協力いただきましたこと、一応、申し上げておきます、ここで。 しかしながら、ただ口先だけで市民主役を言ったわけではありません。職員の意識改革はやります。
しかし、下松は過去2回にわたる財政再建団体があったんです。そして、合併協議会を退席した男でありますから、自主自立でこの下松を立て直していこうと、議会の皆さんにも相当な御協力をいただきました。 特に、渡辺さんにも協力いただきましたこと、一応、申し上げておきます、ここで。 しかしながら、ただ口先だけで市民主役を言ったわけではありません。職員の意識改革はやります。
下松市は2回にわたる財政再建団体に落ちて、大変苦しんだ経験もありますからね、基本的にはソフト面で下松をまず、ソフト面から市民に協力してもらおうというのが、「21世紀は心の時代」、「笑い・花・童謡」を三本の柱に、人情あふれる心豊かなまちに取り組んできて、そして一方は、やはり「財源なくして政策なし」ということを私はよく言います。お金のないのに、なんぼ計画したといって何もできませんね。
2回も財政再建団体として、もう下松市は倒産をいたしました。1回目の昭和30年は私は経験がありませんが、私が49年に市議会へ出て、そして51年に日本が世界に誇れる第2経済大国というその年に、下松は財政再建団体で倒産しました。そのときの惨めさを私は経験をいたしております。
私はこの下松が過去2回にわたる財政再建団体に陥りました。 当時、昭和51年の財政再建団体、この体で覚えております。先頭に立ちまして、議会で私たちも何とかしてこの下松を立ち上げなきゃいけないという決心で、自治省あたりにもまた県内から出ておられた国会議員の皆さんにも陳情に行きました。それも全部自腹で行きました。
確かに下松市も財政再建団体に2回なりました。1回目の昭和30年代は全般的に財政再建が多く出た30年代でありますが、下松が昭和51年に23億3,000万円の借金でつぶれました。これは、夕張市とも金額が違うだけで同じかもわかりませんが、これは、御承知のように、私が常に言っています。経済は生き物という、どうしても経済というのは先がはっきりしませんね。
だから二度と財政再建団体に陥るような政策を立ててやっていこうとは思っておりませんので、渡辺さん御心配かもわかりませんが、それは安心してください。同じ昭和49年に市議会を出た同士でありますから一番よくわかっていると。私も渡辺さんの腹は十分わかってます。家内の腹はわからなくても、いつも言いますが、渡辺さんの腹は、私、決して憎んでも腹も立ててもおりません、渡辺さんが言われることは。
そして、また、下松市を振り返ってみますと、過去2回の財政再建団体を経験していますね。その経験をしているんですよ、私は。経験からものを言いながら、合併協議会を退席しました。退席して、もうこれは、私は市長リコールを覚悟したわけですが、結局はリコールがなかったから単独市政で、こうきております。 その中で、市民が私を信頼された以上は、市民からリコールがなかったんですからね。
戦後、下松市は二度も財政再建団体に転落した経験を持っています。このつらい経験から、市長がかわっても、市役所全体に財政再建団体を三度経験してはならないという気風があります。下松市財政は、山口県下、人口比で貯金はトップで、借金は最低という実績を保っています。 光市では、光地域広域水道企業団の中核市となり、総工費131億円で中山川ダムを建設し、光市は35億円の負担増をかぶりました。
戦後、下松市は二度も財政再建団体に転落した経験を持っています。このつらい経験から、市長がかわっても、市役所全体に財政再建団体を三度経験してはならないという気風があります。下松市財政は、山口県下、人口比で貯金はトップで、借金は最低という実績を保っています。 光市では、光地域広域水道企業団の中核市となり、総工費131億円で中山川ダムを建設し、光市は35億円の負担増をかぶりました。
おかげで、財政再建団体に陥ることなく、現在の市政を継続できていますのは、白井市政の努力のたまものであると理解しております。お疲れさまです。 また、協力された職員の皆さんも大変御苦労さまだと思います。 しかし合併後、10年を経過したときにも同じやり方では行政には進歩は生まれてこないと危惧するものです。やはり継続性に重点をおいた行政の展開が望まれるのではないでしょうか。
人口24万人の呉市は65歳以上の人口比率が約31%、同規模人口の都市では高齢化率が全国第1位となって2008年には1人当たりの年間医療費は約60万円で、全国平均より4割高くなり、このままでは財政再建団体になってしまうという、そういう危機感を持って医療費適正化への本格的な乗り出しを行ったということでございます。
せっかくこういう多くの皆さんが傍聴席におられますので申し上げますが、下松の過去には財政再建団体に2回もなっております。私がまさか市長なろうとは思いませんでしたが、市長になって、今言うソフト面では、21世紀は心の時代として、「笑い・花・童謡」を出しました。
財政再建団体2回もやっておりますので、そういうことがないようにということでできる限りこの分譲住宅もこの金利負担であえぐことのないように、こういうふうなことで今までやってきたつもりでありますが、いろんな形である土地を活用する。こういったようなこともできるかと思います。
それから、下松市は過去に昭和51年、財政再建団体になった、あの苦しみは、渡辺さんと僕は一番よくわかってると思うんですね。そういう意味で、財源なくして政策なしというのは、私はそれを言ってるんです。それは全国的に見て、下松市の財政がそれじゃ一番悪いかといったら、そうじゃありませんね。これは認められるでしょう。 だけど、その厳しい中にも市民主役のサービスはしていかにゃいけんのです。
今のままで行けば、恐らく財政再建団体になるのは、火を見るよりも明らかです。そういったことがないように、やはりこの私どもは広域的な運用なり、いろんな合理化、努力もしていかざるを得ない。そういったことが私どもに課せられた大きな課題であります。 しかしそのときに、今、宮内議員から御指摘がありましたように、それぞれの地区の皆さんにとって、いろんな意味で不便が増していくということは出来るだけ少なくなります。
というのは、我々も、昭和51年に、下松市が財政再建団体になりまして、23億3,000万円でつぶれました。その後、いろいろな問題が生じました。その中をくぐって、下松市としては70億円をためておりました、合併当時でありますが。しかし、どうあるべきかと。各市の状況を把握してみると、大変な財政的な問題が多く出ておりました。 そのときに、本当に覚えています。
しかし、私の信念は過去の下松の財政再建団体、これが非常に大きな教訓となっておりましたので、もう単独市制を敷く以上は、自主自立、そしてなんといっても職員の意識改革がなくして、この下松が立ち上がることはできないということで、行財政改革の中に職員の意識改革、制度の改革、財政の改革、この3つの柱を建てて、今日まで職員と一体になって、しかも当初は私が、具体的に申し上げますと、職員がそんなことができるかと心の中
下松市は貧乏して51年に財政再建団体に23億3,000万円でつぶれました。たかが、23億3,000万円ですからね、本当に市政というのは恐ろしいもんだなということを痛感し、私は議会におる中で議会の建て直しのために51年の23億3,000万円の財政再建団体の委員として、私も働きました。それが素晴らしくいい勉強になっておりましたので、やっぱり、お金がなければ何の政策もできないなあと。
過去に下松は残念ながら2回の財政再建団体にあっております。決して財政再建団体なってはいけませんが、その数値が今申し上げましたゼロから18の間で単独でいけば8ですが、先般、企画財政部長も申し上げました、実質公債費比率がこの事業をやっても7%前後で行けるんです。これもみな真剣に庁内で検討して、これだけのものを出してきたんです。 そして、行財政改革は3期目も進めていくと。
2008年には、1人当たりの年間医療費は約60万円で、全国平均より4割高くなり、このままでは財政再建団体になってしまうとの危機感を持って医療費適正化へ本格的に乗り出したということです。 そこで、市が着手したのは、国民健康保険者のレセプトのデータベース化を行いました。