下松市議会 2021-12-07 12月07日-02号
私は、財政再建団体に陥った苦い経験、反省を忘れず、身の丈に合った安定的な財政運営に努めることが最も重要であると認識しております。そのために、現在、歳入に見合った歳出構造への転換を目指して、財政構造の見直し指針を作成し、持続可能な住民サービスを行うための行財政基盤の確立に努めているところであります。 以上でございます。 ○議長(中村隆征君) 近藤康夫議員。
私は、財政再建団体に陥った苦い経験、反省を忘れず、身の丈に合った安定的な財政運営に努めることが最も重要であると認識しております。そのために、現在、歳入に見合った歳出構造への転換を目指して、財政構造の見直し指針を作成し、持続可能な住民サービスを行うための行財政基盤の確立に努めているところであります。 以上でございます。 ○議長(中村隆征君) 近藤康夫議員。
さかのぼって昭和51年、下松市は、財政再建団体という憂き目に遭って以来、堅実な財政運営を続けてきた結果、まれに見る健全財政を誇ってきたわけであります。そのことを背景にして、大きくまちづくりも進められ、道路整備、商業施設や医療、福祉、教育施設、さらには観光開発等、まさに安全安心、魅力ある、バランスのとれた住みよい町として高い評価を受けているところであります。
例えば、市長さん、昭和51年に我がまちは財政再建団体になりましたが、そのときに下松と一緒に並んで財政再建団体だったまちに、大分県の竹田市というのが財政再建団体に仲良くなっとったんですよ。
このような観点からいたしますと、先ほど同僚議員が述べられました昭和51年からの財政再建団体の歴史は下松市にとって大きな歴史ではございますが、この議場にいる人間全てはその歴史を心に十分に刻み、市民のために行財政運営をすべきという共通認識で一致をしているものと信じていますし、そうでなければならないと考えております。
いろいろ私も調べている中で、このヤマモモという木の花言葉が「教訓」というのがあるそうで、昭和51年以降だったら、もう財政再建団体に入らないぞという意味で決められたのかなと思いましたけど、それより1年前ということでございまして、今、経緯を聞いて、すっきりいたしました。ありがとうございました。 次に、問題点への対応状況、考え方について具体的にお聞きをしてみたいと思います。
1977年、私は大学の1年生か2年生、1977年、78年、80年のころに集中して行われたようですが、この1977年といえば、先般亡くなられた西城秀樹さんとか、野口五郎さんとか郷ひろみさん、女性でいえば山口百恵さん、森昌子さん、桜田淳子さんといった中学生トリオが、非常に歌謡界が盛り上がった時代で、我がまちはどうかというと、財政再建団体に入って、非常に厳しい7年間を過ごしていたころです。
ザ・モール周南なんかできる前、住みよさランキングで上位に位置づけられたり、県下で唯一人口がふえているというこういう状況でない財政再建団体明けのころならわかりますよ。まあ、そういうことでこの認知度、知名度向上策はどういうものを考えているかという点についてお知らせください。 最後の(2)ですが、市制施行80周年に当たっての下松市初の長編映画制作の手順についてお尋ねをいたします。
昭和51年下松市は23億3,156万7,000円の赤字が発覚をして、財政再建団体に転落をしたわけです。なぜ、ここでこんな話を持ち出すのかといえば、財政再建策として、固定資産税の税率を標準税率の100分の1.4から1.7に引き上げる、超過課税の導入を行ったわけです。その結果、固定資産税の超過課税の増収は、6年間で26億5,000万円に上ったというふうに言われております。
国のほうから財政再建団体に指定をされて、起債をすることも非常に制限を受けた、そういうふうなことにならないようにということで、県のほうはいつも助言、勧告をされますよね。
昭和47年にわかばができたのかな、それから花岡、以下あおばというふうな、財政再建団体に転落をする前ですよ、わかば、あおば、この中央保育園も。私が議員になる前でした。卒園者は数千人に上るんじゃないのかな、いうふうに思います。
御案内のように、下松市は過去2度の財政再建団体に転落するという苦い経験を味わっております。特に、昭和51年に23億3,156万7,000円もの赤字が露呈をし、東の米沢、山形県でありますが、西の下松と、当時注目をされたとマスコミが報道をしております。
下松は、昭和51年、そして、過去に昭和30年、2度にわたって財政再建団体を経験しました。財政再建団体というのはどういうことかというと、市が潰れたわけですね。そうすれば、それが誰が払っていくか、ここでも何回か申し上げましたが、財政再建団体になりますと、銀行もどこもお金を一銭も貸しません。そうすると、もう下松市そのもので生きていかなきゃならないんですね。
しかし、下松は過去2回にわたる財政再建団体があったんです。そして、合併協議会を退席した男でありますから、自主自立でこの下松を立て直していこうと、議会の皆さんにも相当な御協力をいただきました。 特に、渡辺さんにも協力いただきましたこと、一応、申し上げておきます、ここで。 しかしながら、ただ口先だけで市民主役を言ったわけではありません。職員の意識改革はやります。
下松市は2回にわたる財政再建団体に落ちて、大変苦しんだ経験もありますからね、基本的にはソフト面で下松をまず、ソフト面から市民に協力してもらおうというのが、「21世紀は心の時代」、「笑い・花・童謡」を三本の柱に、人情あふれる心豊かなまちに取り組んできて、そして一方は、やはり「財源なくして政策なし」ということを私はよく言います。お金のないのに、なんぼ計画したといって何もできませんね。
2回も財政再建団体として、もう下松市は倒産をいたしました。1回目の昭和30年は私は経験がありませんが、私が49年に市議会へ出て、そして51年に日本が世界に誇れる第2経済大国というその年に、下松は財政再建団体で倒産しました。そのときの惨めさを私は経験をいたしております。
私はこの下松が過去2回にわたる財政再建団体に陥りました。 当時、昭和51年の財政再建団体、この体で覚えております。先頭に立ちまして、議会で私たちも何とかしてこの下松を立ち上げなきゃいけないという決心で、自治省あたりにもまた県内から出ておられた国会議員の皆さんにも陳情に行きました。それも全部自腹で行きました。
確かに下松市も財政再建団体に2回なりました。1回目の昭和30年代は全般的に財政再建が多く出た30年代でありますが、下松が昭和51年に23億3,000万円の借金でつぶれました。これは、夕張市とも金額が違うだけで同じかもわかりませんが、これは、御承知のように、私が常に言っています。経済は生き物という、どうしても経済というのは先がはっきりしませんね。
だから二度と財政再建団体に陥るような政策を立ててやっていこうとは思っておりませんので、渡辺さん御心配かもわかりませんが、それは安心してください。同じ昭和49年に市議会を出た同士でありますから一番よくわかっていると。私も渡辺さんの腹は十分わかってます。家内の腹はわからなくても、いつも言いますが、渡辺さんの腹は、私、決して憎んでも腹も立ててもおりません、渡辺さんが言われることは。
そして、また、下松市を振り返ってみますと、過去2回の財政再建団体を経験していますね。その経験をしているんですよ、私は。経験からものを言いながら、合併協議会を退席しました。退席して、もうこれは、私は市長リコールを覚悟したわけですが、結局はリコールがなかったから単独市政で、こうきております。 その中で、市民が私を信頼された以上は、市民からリコールがなかったんですからね。
せっかくこういう多くの皆さんが傍聴席におられますので申し上げますが、下松の過去には財政再建団体に2回もなっております。私がまさか市長なろうとは思いませんでしたが、市長になって、今言うソフト面では、21世紀は心の時代として、「笑い・花・童謡」を出しました。