岩国市議会 2024-06-14 06月14日-02号
まず、(3)景観重要建造物(岩国高校記念館)の改修についてですが、岩国高校記念館につきましては、大正5年に御大典記念武道場として岩国高等学校の前身となる旧制岩国中学校の同窓生によって横山地区に建設されました。
まず、(3)景観重要建造物(岩国高校記念館)の改修についてですが、岩国高校記念館につきましては、大正5年に御大典記念武道場として岩国高等学校の前身となる旧制岩国中学校の同窓生によって横山地区に建設されました。
この景観が大変優れていることから、大正11年に史蹟名勝天然記念物保存法による最初の国の名勝の11件の一つとして、錦帯橋及びその上下流の河川区域が指定されました。昭和18年、さらに上下流の河川区域が追加で指定され、その後、昭和25年の文化財保護法の施行に伴い、改めて名勝に指定され、現在に至っております。
明治以降においては、大正11年に史蹟名勝天然記念物保存法による最初の国の名勝の11件の一つとして、錦帯橋及びその上下流の河川区域各60間(108メートル)が指定され、昭和18年には、上下流の河川区域が追加で指定されています。 その後、昭和25年の文化財保護法の施行に伴い、改めて名勝に指定され、現在に至っているところです。
大正12年、正午頃に起こった関東大震災では、岩国市の全人口である約12万5,000人近くの約10万5,000人もの方が当時亡くなられ、約30万件もの家が消失したとのことで、この9月1日に100年目ということになりました。日本は地震大国で、いつ起こってもおかしくないと言われる南海トラフ地震は怖いが、その備えはと答える方も多いです。
少し練武場の歴史について触れてみたいと思いますけれども、大正3年頃、岩国警察署武道教師長谷川弥次郎師範が友武会を開いておりました。それが元となって、大正3年6月、小学校に剣道部を置くこととなり、以来二十有余年、時代は昭和に入り、学校剣道の隆盛の頃には、岩国小学校の剣道部は中央剣道会にも進出するほどとなっており、友武会を練武会と改称し、現在に至っております。
錦帯橋の独特な構造と周辺の自然に溶け込む景観がすばらしいことから、大正11年に国の名勝に指定され、昭和18年にその区域が拡大されたところであります。
選挙を明るく正しいものにしようという運動は大正14年ぐらいにはもう始まっていたようです。まず、選挙を正しいものにしなければならないという点に着目したもので、今では、選挙管理委員会や公益財団法人明るい選挙推進協会などが連携し、選挙違反のないきれいな選挙、投票参加及び国民の政治意識の向上を図るなどの取組が行われていると思います。
大正11年に国の名勝に指定をされておりますけれども、この名勝というのは、橋梁や庭園等の名勝地で、芸術上または鑑賞上価値が高いものを国が指定するものでございまして、物見の文化としての価値、まさに観光の対象であることに文化財としての価値があると認められたものであると言えます。
これは1923年、大正12年9月1日の関東大震災、あるいは台風の襲来が多い二百十日、あるいは伊勢湾台風の襲来等を起源として定められているというふうに、私もこの場で、今から10年前申し上げました。
本市は、大正時代以降、ものづくりのまちとして発展してまいりましたが、その礎を築いたのが久原房之助翁であります。 人材育成のために久原翁の寄附によって設立された下松工業学校は、下松工業高校へと発展し、同校の長い歴史において多くの技術者を輩出しており、本市産業の発展に大きな役割を担ってまいりました。
拠点施設の波及効果として、民間による新山口駅北地区第一種市街地再開発事業が進んでおり、今後は明治通りや大正通り周辺──いわゆる旧市街地エリアをはじめとした駅北側のさらなる発展を期待しております。そこで、小郡都市核のうち、新山口駅北側に位置する市街地形成ゾーンの目指す姿と取組の方向性についてお伺いいたします。
このように、地籍につきましては明治以降、大正、昭和とあまり調査は進んでいないというように思われます。また、当時は、日本も多くの戦争を経験し、最終的に第二次世界大戦に敗戦したということで、連合国軍司令部──GHQによる占領下においては財閥解体、また、各種の改革が行われました。土地に関しましては、当時、人口の半数は農民だったということでございます。
かすという面では、先ほども申し上げました産業交流拠点施設等の新たな機能の生かし方や巻き込み方、駅前広場や南北自由通路のさらなる活用とその周知、SLや周辺の歴史資源をも生かすことが肝要でありますし、主体性の拡大という面では、学生や若き経済人だけではなく、周辺地域の農業者や特産品開発の事業者、地域おこし協力隊、有志の技術者や研究者など、周辺地域も含む多様な人材を生かした交流の取組づくりを図ることや、明治、大正
どのような計画をしているかということですが、徳山下松港は大正11年2月に徳山港が開港し、その後、下松港、光港が編入され、令和4年2月に開港100周年という大きな節目を迎えます。
大正になり、人口流動化が激しくなり本籍以外に寄留する人口が増え、戸籍とは別に台帳、寄留簿を作る必要があり、それが1914年の寄留法であります。住民を現実の家族、世帯ごとに把握し、寄留簿により世帯主として寄留に関する届出義務が課せられました。民法や戸籍法では、世帯、世帯主という用語は戦前戦後を通じて用いられず、この寄留法解説の世帯主の定義が、法律上の世帯主概念の出発点であります。
大正6年、岡山県における済世顧問制度創設から始まったと聞いております。非常勤の地方公務員として位置づけられているつなぎ役として、全国に今約23万人が活動をしております。民生委員は、活動を通じて把握された地域の課題を集約し、自主的な取組や行政への意見具申、関係機関・団体との連携、協働等を通じて解決につなげる重要な役割を担っております。当市においても現在115人の方々にお世話になっています。
◎教育部長(徳王丸俊昭君) 旧俎礁標は、日本遺産「関門“ノスタルジック”海峡」の構成文化財でもありますが、明治4年7月に、関門海峡の岩礁上に立てられた国内最古の洋式立標で、大正9年に彦島南端部に移築改造され、金ノ弦岬灯台として、関門海峡の航海安全に寄与してまいりました。 平成12年の用途廃止後、本市に譲渡され、旧金ノ弦岬灯台として、平成16年に市指定文化財に指定をされたものです。
昨年80周年記念で矢島専平さんの「秋の夜話」というのを再出版させてもらったんですが、これらにものすごい関心を持たれるわけです、大正6年の頃の話で。下松にもすごく関心を持っておられて、下松の今の発展の大もとになったという、久原房之助さんに非常に関心を持って研究されています。
昨年度は、大正、昭和期の市内の写真等を掲載しました。今年度は、電子図書館ともリンクしましたし、これから、小学生社会科副読本「わたしたちの郷土下松」のデジタル化を図ります。まさに全国に誇れるデジタルアーカイブだと思っております。 また、昨年度は、市制施行80周年記念事業として秋の夜話を発行し、矢島専平や久原房之助にスポットを当て、多方面から反響がありました。
顧みますと、文化財保護法の成り立ち、経緯については御承知のとおりでありますが、1919年(大正8年)史蹟名勝天然紀念物保存法の施行があり、次に、1929年(昭和4年)、国宝保存法施行、次に、1949年(昭和24年)に法隆寺の金堂の壁画が火災で消失し、日本の宝である立派な壁画が失われました。