天童市議会 2021-03-03 03月03日-03号
昭和60年2月に株式会社スポーツクラブ天童の前進の株式会社天童スイミングクラブが第三セクターとして発足いたしました。平成3年4月に株式会社スポーツクラブ天童に称号を変更、翌平成4年3月に天童ターミナルビルが竣工し、同年4月に総合フィットネスクラブ、ビーフリーが開業いたしました。時代はバブル景気が幕を下ろすことになりますが、第47回べにばな国体の開催に合わせるように、華々しくオープンいたしました。
昭和60年2月に株式会社スポーツクラブ天童の前進の株式会社天童スイミングクラブが第三セクターとして発足いたしました。平成3年4月に株式会社スポーツクラブ天童に称号を変更、翌平成4年3月に天童ターミナルビルが竣工し、同年4月に総合フィットネスクラブ、ビーフリーが開業いたしました。時代はバブル景気が幕を下ろすことになりますが、第47回べにばな国体の開催に合わせるように、華々しくオープンいたしました。
地籍調査は、昭和26年から始まり、70年余りの歳月が経過しました。天童市は平成26年でしたね。現状で52%ですから、恐らく、50年以上は費やすのではないかと想定されます。市では、このままいけば100年以上かかるんではないかなということですね。
とりわけ議員定数に関しては、昭和62年には30人から26人に、平成19年には26人から22人へとそれぞれ4名削減することを決定し、また平成24年から26年までの設置の議会改革特別委員会においては、議員定数を含めた全16項目にわたる課題について、そのあるべき姿について議論を深めてきたところであります。
今回の豪雨災害において、最上川の蔵増水位観測所での最高水位が、昭和42年に発生した羽越水害よりも1メートル強高かったにもかかわらず、奇跡的に被害を抑えることができました。
歴史的には、昭和30年代初頭から母親の就労の増加に伴って、放課後に保護者が不在となる子どもたちの豊かで安全・安心な生活保障が社会問題として取り上げられるようになり、いわゆる学童保育としてそれぞれの地域実情に応じた多様な運営によって展開され、全国に広がったとされております。
昭和38年4月1日付厚生省社会局長通知の生活保護法による保護の実施要領では、受信料免除申請書については、日本放送協会において用紙を印刷し、各放送局に配付することとされているので、最寄りの放送局と連絡の上、これを受領し、あらかじめ福祉事務所に備えておくこととされております。 そこで質問です。
学校プールは、1955年、昭和30年に起きた小学生100人を含む168人が溺死した紫雲丸事故と同じ年に、海で水泳授業中に生徒36人が溺死した橋北中学校水難事件という二つの事故が大きなきっかけとなり、児童・生徒に命を守るための水泳を安全に習得させるために、各校に設置が急速に進んだものとされております。
JR乱川駅は、昭和29年に開設されて以来、市民に親しまれ、日常の交通手段として貴重な都市機能の一つとなっております。 乱川駅周辺については、これまで市として、トイレや駐輪場、停車帯の整備を行い、利用者の利便性向上に努めてまいりました。また、平成17年にはJRの施工により、老朽化した駅舎の改築が行われ、現在の駅舎となっています。
昭和初期ごろまで、お祭りやお祝い事の際、唄や踊りなどを披露される郷土芸能は、古い時代から生活の一部として、地域づくりやコミュニケーションを図る上で重要な役割を果たしてきました。 しかしながら、時代とともにその役割や意義が薄れてきて今に至っているように思います。
昭和45年に、国で交通安全対策基本法が制定され、それに基づき本市は、交通安全計画をこれまで第十次にわたって策定し、関係機関、団体が一丸となり、交通安全対策を実施しております。現在、その第十次の天童市交通安全計画を実施しており、来年が最終年度となっております。
天童市は、昭和33年の市制施行以来、今年で61周年を迎えました。昨年は、60周年記念事業の一環として、将棋のまちならではの二千局盤来と銘打って、将棋の同時対局数でギネス世界記録を達成するなど、天童市の名を世界にアピールすることができたことは、市民の一人として喜びを共有しているところであります。
国語の授業時数については、小学校高学年でこそ減少傾向にあるものの、低学年では週当たり9時間と昭和22年学習指導要領ができてから現在が最も多くなっております。また、令和2年度実施の新学習指導要領では、国語科において我が国の言語文化に関する指導の改善、充実が強調されています。
兵庫県多可郡野間谷村で、1947年、昭和22年9月15日に村主催の敬老会を開催したのが、敬老の日の始まりとされているそうです。これは、当時の村長さんが老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村づくりをしようという趣旨から始めたもので、農閑期に当たり、気候もよい9月中旬ということで決められたそうです。昭和22年当時は戦後の混乱期に当たり、子どもを戦場へ送った親たちも多く、精神的に疲労の極みあったと。
厚生労働省の人口動態統計の概要によりますと、昭和60年の出生総数143万1,577人だったのが、平成28年にはついに100万人を割り込み、97万6,978人となり、そして平成29年にはさらに減っており、94万6,065人となりました。今後さらに減っていき、内閣府の将来推計人口で見る50年後の日本には、出生数が50万人を割り込み、48万人になると推計されております。
なおかつブランド力をつけて海外まで販売をする、こういった長期的な見通しの中で、やはり計画的にやっていかないと、遊休農地が増えて農地が荒れてしまう、こういうふうに大変危惧されるところでございますので、昭和42年代には農業従事者が、大体20代から30代の方がたくさんおりました。このときには、その人たちの意見を集約して、ブドウ団地あるいは野菜団地、そういったところをたくさん造成しました。
天童市は、昭和32年、1957年になりますが、中央土地区画整理事業に着手して以来、切れ目なく区画整理事業に取り組んでまいりました。2020年、芳賀土地区画整理事業が完了すれば、694.07ヘクタールの区画整理が完了することになります。 新しい道路ができ、街路樹や植栽も増えてまいりました。
消防団の定数でございますが、歴史的な背景といたしまして、昭和29年に1町6村の合併によりまして、7分団1,013名で天童町消防団が発足いたしました。 また、昭和37年には、豊栄村が編入合併いたしまして10分団1,427名となりまして、昭和40年に消防団再編成を行いまして、18分団1,335名となりました。 昭和48年には、18分団から10分団に再編いたしまして1,063名となりました。
市立高原の里交流施設ぽんぽこは、昭和53年度に建設した旧田麦野小学校を改修して、平成18年10月に開館したものです。田麦野地域の豊かな自然を生かした体験学習や交流の場、地域の生涯学習、文化及び防災などの拠点として、年間延べ約1万人に利用されております。
なぜここまで人工林が増えたかを調べたところ、第1次ベビーブームがありました昭和20年半ばに、高度経済成長の中、政府による拡大造林政策により、成長が早く経済的価値も見込めることから、杉やヒノキといった針葉樹の一大植林ブームが全国各地で起こり、本市においても、市街地にある舞鶴山をはじめ多くの土地に植林されたとのことです。
本市では、差別解消の取り組みとして、昭和48年から40年以上にわたって手話教室を実施しております。その成果として、多くの市民に手話技術を普及するとともに、聴覚障がい者に対する理解を深めることができたと考えております。 また、12月1日号の市報に、障害者差別解消法とほじょ犬の特集記事を掲載しました。今後も、さまざまな機会や情報媒体を活用し、広報啓発に努めてまいります。