山形市議会 2017-03-01 平成29年 3月定例会(第3号 3月 1日)
職人や商人もそのまま居続けたようです。そのため、鳥居忠政が城主となると、よそ者と思われ悪評ばかりが伝えられたのかもしれません。 鳥居忠政は、62歳でこの山形の地で他界しましたが、その晩年のわずか6年余りで先ほど話したとおりの山形の大改造を行い、390年たった今でもその足跡が残っています。笹谷街道の物流整備などは、今の仙山交流の先駆けとも言えます。
職人や商人もそのまま居続けたようです。そのため、鳥居忠政が城主となると、よそ者と思われ悪評ばかりが伝えられたのかもしれません。 鳥居忠政は、62歳でこの山形の地で他界しましたが、その晩年のわずか6年余りで先ほど話したとおりの山形の大改造を行い、390年たった今でもその足跡が残っています。笹谷街道の物流整備などは、今の仙山交流の先駆けとも言えます。
その交易を介して紅花商人たちから伝えられた上方文化や羽州街道沿いに入ってくる江戸文化の影響を受け、山形の文化は大きな発展を遂げてきた。 さらに、明治時代に入り、山形県の県庁所在都市となった本市は、山形県の政治・経済の中心地として発展する中で、山形の文化を一層華やかなものに育て上げてきた。
山形の城下町を支えてきた近江商人は三方よしの精神で商売をしたそうですけれども、この取り組みは市民、電力会社、市、商店街の四方よしであります。市長、興味ないですか。 (議場のディスプレーに画像を映す) そこで、「節電が 商品券に 化けるかも みんながいいね 対策参加」、「節電が 商品券に 化けるかも みんながいいね 対策参加」。(短冊の実物を示す) 次、実行計画に戻ります。
出羽最上はそのうち、1万3,280貫を出荷していたとのことで、特に1800年前後からは、100年くらいは最上川の舟運を通して、近江商人と山形商人が活躍し、最上3万2,000貫と言われるまでに発展したのであります。 最盛期の幕末の文久のころには、舟運の中継地であった現在の大石田町に集まった紅花は、4万9,600貫とも記録されております。
山形には最上義光公からの商人文化が残っている。これを生かしたまちづくりをして、結果として全国から人が来るということが描けるのであれば、その1つの文化ジャンルとして映画もわかる。しかし、それがなくては我々の理解を得るには足りないのではないか。文化の街をつくる、映画の都とまで言ったのだから、市長という政治家が発信する必要がある。
また,最上藩改易後の江戸時代には,紅花商人として財をなした商家を中心に,独自の紅花文化が開花し地域文化の推進に寄与してまいりました。その後,大正9年4月には,旧制山形高等学校が開校,全国各地から向学心に燃えた優秀な青年が集まり,教授陣も有名な学者,名物教授が次々と来形し,山形文化の揺藍期を形成してきたのです。
今回の「山形まるごと館紅の蔵」の事業は,紅花商人長谷川家の自宅と蔵を利用して中心市街地の活性化と,街なかにぎわいの創出を目的とした事業で,その後農産物の直売所が農林予算で建てることとなりました。このことはうまいタイミングでの農商工連携がなされたというふうに思っております。 連携の重要性について。
1769年,江戸・明和年間,俳諧に秀でて博学と賞された,現埼玉県川越の僧侶海寿が,その見聞風土記として書いた「山形棚佐賀志」という書物の中に,山形の印象を「中平らかにして風無く,四神相応の地に似たり」と評し,「諸国の商人集まること,庄内,米沢,新庄,秋田に勝れり」と記しております。
紅花の産地は山形であるという紅花商人の心意気を示すような通りにしてみたりするのはいかがでしょうか。また,井上ひさしさんたちが呼びかけているびっくり箱のような劇場建設の構想も,こういった空間の中にあってこそ,成功するのではないかと思いますが,いかがでしょうか。
また最上氏関係では,近世城下町としてわが国を代表する山形城があり,更に秋元,水野時代の史跡も残っており,そして,紅花商人らによる商人文化と県都文化として結合した近代明治文化の残影が,大正期,昭和期の建築物として,街中に数多く残されております。それらは旧済生館本館であり,文翔館等であり,現在の市民にとって,心のよりどころや,誇りにもなっております。
査定総額の中で道路整備事業をはじめとして都市計画の街路事業に相当の予算がとられておりますが,昨日も中心市街地の商人クラブが臨時総会を開きまして,またグランドホテルにおきまして日本経済流通新聞の編集長を中心にしました街づくりセミナーが行われ,市の方からも12名ほど参加されておりました。
それが一歩街に入ると,土ほこり,人と動物の排泄物の臭い,大人と子供の物ごい,へび使い,牛のフンで燃料を作る人々,声高な商人達,めまぐるしく走る自転車や人力車。そのけたたましいラッパの音,負けじと警笛を鳴らしながら通る自動車,そんな喧噪な中にあって日がな一日,道ばたに,土と同化したように地面に横たわる人々,トイレでタオルを差し出し,チップを要求する人,それさえ出来ない,させてもらえない不可触民。
併せて,展示品不足ぎみの「最上義光歴史館」を最上氏の資料の他に,山形商人の歴史資料・銅町鋳物を中心とする工人の資料をも展示し,最上氏以来13氏の大名変遷資料等も陳列し,奥行きがあり,一貫性のある,山形市の歴史が俯瞰できる歴史資料館へ発展させていただきたいものと思います。
城下には仙台,白石,越後,近江の方面からの商人が出入りし,酒田から最上川を経た舟荷は,大半は船町と寺津で陸揚げされ,山形へと運ばれました。 「延文元年(1356年)期波兼頼は山形入部の際,山形城の西北2里の須川岸に船町を開き,大石田以下の連絡の便を図った」と古文書に見え,船町に船着場が開かれ,今年で丁度640年をむかえるわけでございます。
ぶりと,あるいはTBSのもしかしたら坂本弁護士一家殺人事件にも加担していると思わせるようなその状況を見るにつきましても,マスコミの商業主義というものは,非常に本来のマスコミの持っている批判精神とか,社会の木鐸としての使命が失われつつあるんではないかと,今後,やはり日本はその衰退ではなく,また,発展していくためには,第3の権力といわれるマスコミも,本来もっているそういう使命を決して忘れずに,いわゆる御用商人的