田辺市議会 2024-03-11 令和 6年第2回定例会(第4号 3月11日)
当時、江戸では大変人気があったようで、この製炭技術は門外不出とされ、梅干しななども紀州藩の貴重な財源となっていたようです。その後も他府県でも土佐備長、それから日向備長など備長の名が使用されたものが出てきましたが、これは、本市の製炭者が山を移り、他府県でその製炭技術を伝えたものと伺います。まさに、本市が備長炭の発祥の地というわけであります。
当時、江戸では大変人気があったようで、この製炭技術は門外不出とされ、梅干しななども紀州藩の貴重な財源となっていたようです。その後も他府県でも土佐備長、それから日向備長など備長の名が使用されたものが出てきましたが、これは、本市の製炭者が山を移り、他府県でその製炭技術を伝えたものと伺います。まさに、本市が備長炭の発祥の地というわけであります。
また、古座では、紀州藩が古座捕鯨を経営いたしました。江戸時代後半、外国の船が日本近海に進出し、乱獲を続けたことから、鯨が減少し、熊野地方の古式捕鯨は明治時代に幕を閉じました。 ◆14番(屋敷満雄君) ですから、僕も、ここにも何人かおるんですけれども、三輪崎郷土芸能保存会、鯨踊、これは、由来は水野の殿さんに、鯨上がったときに献上するための踊りやったと。
東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を魅力発信の好機と捉え、東京2020公認文化オリンピアード「ニッポンたからものプロジェクト」などを通じ、日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」の魅力の発信を続けるほか、令和元年度からは、和歌山城の大名行列や紀州藩に仕えた人々を再現するなどの取組を進めてきました。
明治に入り、旧紀州藩14代藩主徳川茂承(もちつぐ)と旧和歌山藩出身の陸軍将校の発意により、四役で戦没した491名の郷里軍人を祭るため、明治12年9月24日に山頂に記念碑を建て、山全体を公園に整備、それから明治27年--1894年に岡公園として一般に開放されました。
紀州藩が編さんした紀伊の国の地誌「紀伊続風土記」の84巻に、音川に昔橋爪という旧家があり、その家にて誕生すという記載があるものの、橋爪家は既にこの地になく、なぜこの場所にそうした伝承が残ったのか、今となっては確かめるすべもないと熊野川町史には記載されているものの、昭和の時代には鉄道の無賃乗車、きせる乗車として、忠度をもじっての隠語として薩摩守として使われていたようです。
折しも、改元と時同じく、本年は当地域の梅栽培の礎を築いたと言われている紀州藩附家老の安藤直次公が、田辺領に入られてちょうど400年という節目の年でもあります。 こうした中、5月上旬には沖縄・奄美地方が、6月上旬には東海・関東・北陸地方が梅雨入りし、近畿地方も間もなく梅雨入りとなりそうです。
ことしは、徳川頼宣公が紀州藩初代藩主として入国して400年の節目の年です。和歌山城を中心とした「和歌山公園」の名称を「和歌山城公園」に変更するとともに、紀州徳川家19代目に当たる徳川宜子氏を招いたシンポジウムを開催するなど、本市の歴史、文化を市内外に発信します。
元和5年--西暦1619年、徳川家康の十男、頼宣が紀伊に入国し、紀州藩55万5,000石が成立し、元和7年に頼宣は江戸幕府より銀2,000貫を賜り、和歌山城の整備に着手する。砂の丸、南の丸の造成、二の丸の拡張がこのときなされた。現存する国重要文化財である岡口門も、このときに建設されたと考えられると、こういうことであります。
紀州藩新宮城のシンボルでもある新宮城の復元は、先ほど市長が言われたように、広域観光の観点からも必ずや相乗効果が出るものと思います。 新宮城の評価ですけれども、新宮城は和歌山城より小粒だが、完成度の高い城。石垣が国宝級。大阪城を築城した石工、宮大工が二、三年後につくった城で、当時の技術の最高水準を駆使してつくった城ではないかと。
井澤弥惣兵衛は、皆様も御存じのとおり、海南市溝ノ口出身で、紀州藩・徳川光貞、吉宗に仕え、紀ノ川流域の新田開発を行い、60歳で吉宗に請われて江戸にて見沼干拓、多摩川改修などを行った偉人であり、5年前にも川端議員が井澤弥惣兵衛を題材に映画をつくってはとの一般質問をされていますので、彼の細かい功績は略させていただきますが、私たちには亀池をつくった人といったほうがなじみ深いかもしれません。
市長が就任してすぐの平成26年9月定例会の私の代表質問で、児童女性会館の跡地に紀州藩時代の武家屋敷、遺構、長屋門の移設を考えたらどうかという質問に、市長から候補地の一つと考えているとの答弁をいただき、その後、前向きに考えていただいて移設の決定がなされ、3年たってようやく工事の完成が近づいてまいりました。
水野忠央の時代、近隣諸地域は紀州藩によって治められる中、この新宮市とその周辺は新宮藩として独自の文化と経済圏を形成し繁栄した。そのころは官も民も独立の気概を持って生き生きと生活していたのである。今こそ私たちは当時の祖先の心に学ばなければならない。そして、その心を再び現在によみがえらせることが心のよりどころづくりの原点である。 では、その心のよりどころを何に求めてよいのか。
水野忠央の時代、近隣の諸地域は紀州藩によって治められる中、この新宮市とその周辺は新宮藩として独自の文化圏と経済圏を形成し、繁栄した。そのころは、官も民も独立の気概を持って生き生きとして生活していたのである。今こそ、私たちは当時の祖先の心に学ばなければならない。そして、その心を再び現在によみがえらせることが心のよりどころづくりの原点である。
この片方というのは、裏面、表面と言うのがちょっとあれですので、片方という表現でさせていただいております--と刻まれており、もう片方には陸奥宗光は弘化元年--1844年7月7日この地において紀州藩勘定奉行兼寺社奉行伊達宗広の第6子として生まれた 昭和44年3月27日 和歌山市長宇治田省三書と石碑には刻まれているわけです。
馬の背の丘陵地は徳川頼宣の紀州入りから幕末まで紀州藩の鷹狩場で手つかずであったため、この念仏道場の痕跡をとどめているものと見られるということなんですね。そして現在の国道424号は木津交差点から観音堂(福尾寺)までは直線で、そこからわずか西にそれ、法然寺の裾を大きく西に曲がっている。木津交差点から観音堂までの延長線上に法然寺があり、この部分は念仏道場の参道と見られる。
15歳で紀州藩を出て、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、その後、坂本龍馬の海援隊に入隊して、幕末運動に尽力した結果、明治新政府になってからは、岩倉具視の推挙で官僚の道を進むことになりました。 その後、伊藤博文内閣の外務大臣に就任して、欧米列強との間に結ばれていた不平等条約の改正、治外法権の撤廃に成功し、後にその手腕をたたえてカミソリ大臣と呼ばれたそうであります。
和歌山城周辺については、児童女性会館解体後の跡地に江戸時代の紀州藩武家屋敷遺構である長屋門の移築に伴う周辺整備を行うとともに、南別館の歴史資料館と土産品センター周辺ではオープンに合わせた整備を行い、現在の忍者によるおもてなしなどとあわせた新たな魅力創出に取り組みます。また、史跡和歌山城整備計画を見直す中で、扇の芝を整備する手法等の検討を行うとともに、周辺における再開発の意向調査を実施します。
その名残として、和歌山市では紀州藩時代、藩の薬草園であったヤクシバタ、あるいは薬種畑という地名も和歌山市内にあります。こうした薬草を活用して、華岡青洲などの偉人を生み出したことは余りにも有名な史実であります。
和歌山市内に残る紀州藩時代の武家屋敷遺構門長屋--これ堀止東2丁目にありますけども--が取り壊し寸前になっていたのですけれども、和歌山県が急遽9月1日に建物を譲り受けて移築し、保存していくことを正式に発表しました。江戸時代の武家屋敷、城下町の風情を伝える建物が保存されて本当によかったと私は思っています。 そこで、児童女性会館の跡地事業についてお伺いします。
この堤は、今から約300年前、宝永4年の10月4日、宝永大地震--史実に残ってる南海トラフの巨大地震がこれらしいんですけども--の後、町を守るために時の紀州藩藩主、吉宗ですけども、まだ将軍になる前に設営したんではないかと--時期的にはですよ--いうふうに言われています。