140件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧

田辺市議会 1996-12-11 平成 8年12月定例会(第3号12月11日)

以前に、設備投資をして、いちばん不効率なところはということで、ちょうど清水部長水道事業所課長であった時分だと思うんですが、どっかの大学の講師先生の話を聞かせていただいたときに、とにかく「電力設備は50パーセントしか使ってない」と、それが「いちばん設備投資した中で、使っていない会社や」と、こういうふうなことを聞いたわけでございます。  

田辺市議会 1996-12-03 平成 8年12月定例会(第1号12月 3日)

しかし、やがて快復の幸いを得てからは、君自身が、「あの時分は、いろいろのことが重なって、食事も不規則やった。脂っこいものや偏った食事で注意が足らなかったんや」と言っておられたし、つい一、二年前にも、君が「この頃、僕、健康に気をつけやるんや、それで血、きれいにするため、こんなもん飲みやるんや」と枸櫞酸を見せてくれたことがありました。

田辺市議会 1996-09-18 平成 8年 9月定例会(第3号 9月18日)

二週間ぐらいして、仕分けてだんだんかかってる人が多くなってきて、だんだんかかってない人が少なくなってきた時分に、運良く私たちは、陸へ上がれたわけです。残った人をどうするかというと、もう一回、葫蘆島まで帰って、陸へ上げて隔離をして、病原菌なくなるまで船に乗せないと。こういう状態を私、思い出して、伝染病とか食中毒というのは怖いなと。  

田辺市議会 1996-06-24 平成 8年 6月定例会(第2号 6月24日)

こういう歌の一例でありますが、私も、今、二十一世紀を迎えるに当たって、みなさんも同じようなことを考えているんじゃないかと思うんですが、おそらく二十一世紀を迎える時分には、今の矛盾や不合理や、今のモラルやあるいはまた、価値観というのが様変わりして、一定の方向へピシッと決まりそうなのが、大体いつも十五年ぐらいかかりますが、二十一世紀の初めには、そのような時代が来るであろう。

田辺市議会 1996-03-13 平成 8年 3月定例会(第4号 3月13日)

しかし、それとても、私たち青年時分には、地域のほとんどの地域には、青年団という単純ですが、そういう昔は、そこしかなかった、遊ぶとこもなかったし、社会的なお互いの場というものが少なかった。当然だというその青年団も、時代とともに二年ほど前にもうほとんど姿が、社会教育という分野では、姿を消さざるを得ない。  

和歌山市議会 1996-03-08 03月08日-07号

そして、市長県会時分の当時から、実は私もそのような全国大会をこの和歌山市で開催できたらいいなと思ってらっしゃったということを今初めてお聞きしまして、今、昨年の市長選挙で尾崎さんを支援させていただいてよかったなと、今さらながらに、御答弁をお聞きして、感じさせていただいたわけであります。 そこで、先週の金曜日でありますが、今回のこの議会の質問内容のことについて、ちょっと財政部長と話をやりました。 

田辺市議会 1995-12-13 平成 7年12月定例会(第3号12月13日)

私が小学校、確か四、五年生時分でありました。その時分に紀勢線が田辺まで来て、田辺駅が開通したと、こういったことでございます。昭和7年10月に、国際連盟理事会から派遣されたリットン調査団リットン卿を中心にした調査団が、満州での実地調査結論報告書を公表しました。報告書は、満州事変日本の侵略と断定いたしましたが、満州における日本の権益を認めると、大変半ばした妥協的な結論であったと思います。  

田辺市議会 1995-06-21 平成 7年 6月定例会(第3号 6月21日)

50年したら、のど元過ぎれば何とかで、その苦しみや悲しみや、僕ら保育所の当時、文里へ焼夷弾が落ちて、真っ赤になったあの時分のことを思ったときに、隣の家で一年に一遍か二遍、すき焼きするその臭いかいで、「おかあちゃん、食べたいよ」と言うたこと何遍もある。「正月来たらすき焼きしたげるさかいのう」、年寄りが昔を思い起こして、お涙頂戴の話をしてるんではないです。

田辺市議会 1995-03-14 平成 7年 3月定例会(第5号 3月14日)

第一小学校は、もう講堂は、私たち小学校へ通っていた時分講堂ですので、もう四十年近くなりますか、そういうような大変年数を経ておりますし、ここであまりくどく申し上げたらいけないと思うんですけれども、学校の場合でも、例えば、明洋中学校は鉄筋で「耐用年数60年」、こう言われておりましたけれども、一応、二十数年で国の耐力検査を受ければ十分耐力が弱っているということで、建て替えという形が出ております。  

和歌山市議会 1994-03-14 03月14日-09号

かつて、今の天皇陛下が皇太子の時分本市に行啓されたとき、吉宗は何代目の藩主であったのかと聞かれ、知事、市長以下、随行した人たちだれも知らず、顔を見合わせてもじもじ、冷や汗をかいたという話を聞いたことがあります。かつて歴史の教師をしていた私も、このことを聞いて、早速家に帰って本を調べて確かめたようなわけです。事ほどさように知られていません。

和歌山市議会 1992-12-07 12月07日-03号

あの時分は、御存じのとおり、中国の春秋--戦国時代でございましたので、戦争というのは、これは国を維持していくためにはどうしても避けられないもんであると。その時期においても、やっぱり戦争をするということは、非常な大事件です、生きるか死ぬかの分かれ目になるんだから。よくよく考えなくちゃならんということを、あの戦術、戦法を書いた孫子自身がそう言うてるわけです。

和歌山市議会 1989-07-12 07月12日-07号

私も既にもう年は66歳、若い時分は非常に気短かった。これはもう市長、ここの壇上に駆け上がってくること何遍やったかわからんほど私は闘志を燃やして今日までやってきました。マイクらとってもたこと何回でもあります。しかし少なくとも年がいったら、もう少し人間伸びてこなけりゃいかんだろうと、背伸びはできんけれども少しでも角をとりたいと思ってやってきた。

和歌山市議会 1989-03-10 03月10日-06号

あの今から4年前ですか、躍虎祭り、これにはこの時分職員が本当に燃えて、和歌山市をよくしようということで、私自身は躍虎祭りには反対だった。けれども職員が一致協力してやった。その職員は今皆ばらばら。そこで助役さんにお願いしたいのは、ひとつ職員の幹部を集めて、いつも14階でやっている、あんたから、これは旅田市長言うたらだめですよ。あんた言うても何ら効き目ない。