和歌山市議会 1996-03-05 03月05日-04号
国土の均衡ある発展と、国民一人ひとりがゆとり、豊かさを実感できる魅力ある地域社会の実現のため、明治維新以来の中央集権的行政の転換を図る地方分権の推進は、政治の最重要課題の一つとして、これまでの行財政制度のあり方を根本的に改め、国と地方の役割分担の見直しと明確化、権限移譲、事務及び財源の再配分と、地方の自主性強化が進められる中で、住民にとって具体的効果を伴わなければならないことは申すまでもありません。
国土の均衡ある発展と、国民一人ひとりがゆとり、豊かさを実感できる魅力ある地域社会の実現のため、明治維新以来の中央集権的行政の転換を図る地方分権の推進は、政治の最重要課題の一つとして、これまでの行財政制度のあり方を根本的に改め、国と地方の役割分担の見直しと明確化、権限移譲、事務及び財源の再配分と、地方の自主性強化が進められる中で、住民にとって具体的効果を伴わなければならないことは申すまでもありません。
1874年、明治で言うたら、明治の7年です。これ自由民権運動とか、ああいう象徴的な出来事のとき、これは徴兵制とともに地租改正、税が悪かったと、重税やったと、こういうことです。少しだけ言いますけれども、1948年、昭和で言うたら23年、戦後、芦田内閣のときの取引税、これもアメリカのための駐留費を欲しかったと、必要だったと。
自由には、しかし当然として責任がついてきますが、自由気ままとか、いわゆる自由放縦とか、流れている、そういったことは危惧するわけでございますが、戦後教育について、一応お聞きしたいんですが、戦前は、いわゆる明治23年に発布された教育勅語があって、道徳の規範あるいは教育のバックボーンになっていたと思いますが、今の道徳教育についてお聞きしたい。 最近、いじめによる子どもの自殺が、また頻発しております。
それで、広域合併についてでございますけれども、少し歴史をさかのぼって考えてみますと、わが国の市町村合併の歴史は、「第一次のブーム」と言われますか、それは明治22年に、当時、7万1,314という町村があったものが、1万5,859市町村に統合されました。
次に、植芝盛平翁のルーツというんですか、生い立ちというんですか、少したどってみますと、翁は明治16年12月14日、現在で言いますと、田辺市元町で生まれ、小さい頃は体が弱かったため、母は餅をやわらかく煮て、「力餅だよ」と言って食べさせたそうです。また、盛平翁は、大の読書好きで、英雄伝説から数学、物理までむさぼり読んだそうです。
明治維新から戦争終結までの日本の歴史も、私たちは様ざまに違った見方、考え方をこの何十年か教えられてきたと思います。この田辺市の美術館の名誉館長にご就任いただきました、京都市立芸術大学の学長の上山春平先生の本も何冊か読ませていただいたんですが、その本によりますとですね。
これは明治時代の水道法というのが、コレラとか赤痢とか法定伝染病をなくすためにですね、全部水を塩素滅菌し、さらに浄化槽はじめすべての水は塩素滅菌して流すと、これが良しとされてるのやけれども、私は、これが逆に現代日本人はじめ文明人というものが、新たな免疫能力を失うようになってきた原因の一つであるかもわからない。特にそう思うわけでございます。
本市では、5月上旬から平均気温が平年より4度近くも高い上、明治12年観測以来初めて75日間連続して30度を超えた猛暑の真夏日が続いたとのことで、降水量も5月は平年の半分、6月は3分の1、7月はわずか数ミリだったために、プールを初め各方面の被害の拡大につながったわけでございます。
ノー・スモーキング 333日作戦とは具体的にどのようなことかという御質問ですが、未成年者喫煙防止法が制定されたのは明治33年3月7日で、制定後、約 100年が経過しようとしております。未成年者の喫煙問題を21世紀に持ち越さないためにも、同法の制定日、明治33年3月を記念いたしまして、県民総ぐるみによる未成年者の喫煙防止運動を展開することです。
しかし、明治以来の中央集権体制が余りにも根強く、三割自治などと言われておりますように、戦後50年近くたった今日でも、地方自治とは名ばかりで、例えば国と地方の仕事をはっきりと分けにくいものもありますが、都道府県の事務の約8割、市町村の事務の約4割が、機関委任事務という名のもとに、国の事務の肩がわり、ないしは下請をさせられているといわれております。
また、この岩橋千塚古墳群の調査は明治の終わりごろから始まったようですが、古墳群全体の現状調査は1962年から1966年にかけて和歌山市によって行われています。この調査によって、岩橋千塚古墳群は岩橋前山地区だけではなく、花山や井辺、寺内など7つの支群からなる巨大な古墳群であることがわかったそうです。
だから、明治以来の枠組みを変えようというわけですから大変なことだと思うんですね。 一方、世界的にどのように、この子供の教育という問題が考えられているのかということで、私は暉峻淑子さんという人の、埼玉大学の教授ですが、「豊かさとは何か」という岩波新書の本があります。きょうはちょっと持ってくるのを忘れたんですが、西ドイツでの話が書かれてありました。
また、甲府市は和歌山市と同じように市制施行明治22年7月1日より現在に至っており、人口は本市の半数の約20万人で、観光都市であります。年間の観光客は昨年で1,200 万 8,900人訪れております。駅前には信玄公の銅像があり、カシの木の並木通り等美しい町並みが開けております。
驚くべきことに明治政府を先取りした小さな明治政府が、明治政府とは何のかかわりもなくこの和歌山にできたんです。そして、それが近代日本のスタートだったのであります。明治維新は薩長によって行われましたが、新時代のグランドデザインを示したのは、私たちの愛する和歌山であります。 戦後45年有余たった今、日本の行政システムはどうでしょうか。私は何ら変わらない状態であると思っております。
このように歴史にはぐくまれてきた郷土であるがゆえに、本年1月に経済企画庁が発表した国民生活白書でも、ともかく住みやすさでは近畿で和歌山が一番という認知もなされたのではないかと思われますが、明治、大正、昭和、そして平成の時代へと 100年以上の年月に及ぶ市民の並み並みならぬ日々の着実な努力が今日の発展をなし遂げてきたのだと思います。
私は、県の洋風建築研究会や近代建築研究会、明治建築研究会の3団体が保全活用要望のあった辰野金吾氏設計の三和銀行の和歌山支店の建物が既に取り壊されているのを見て、まことに残念に思いました。
あるいはゴルフ場開発をとってみても、19世紀ですね、日本で言えば江戸時代か明治の初めにイギリスでゴルフが起こったと言われているんですけども、ゴルフなんてやっぱり雨の少ないイギリスで盛んになった。だから高温多雨の日本でそれをまねすることは、やっぱり間違ってると思うんですね。
本建築は、和歌山県洋風建築研究会、近代建築研究会、明治建築研究会の専門家集団の3団体から保存方の強い要望が出されております。本建築物は戦災に遭い、現状保存の困難さや幾つかの問題点が指摘をされておりますが、その中でも保存方の強い要望があるわけです。
ところで、景観という問題について1つ例を申し上げますが、幕末の志士であり、明治の元勲でありました大久保利通が、毎日奔走の間に1日、京都の洛北の嵐山に遊んだことがございます。
その後、議会にも和歌山県洋風建築研究会や、あるいは近代建築研究会、明治建築研究会の方々から、この三和銀行和歌山支店の建物の保全、活用に関する要望書も出されております。それで、その中では、こういうすぐれた、都市景観上大変重要な近代建築物を後世に残していくような措置をお願いしたいと、こう書かれているわけです。