194件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧

和歌山市議会 1997-06-13 06月13日-03号

人口12万7,300人の愛知瀬戸市、焼き物で有名な都市でございますが、12万7,300人の瀬戸市は2005年の万国博覧会開催地予定地にと、大変な努力をして頑張っておるわけでございます。 先ほどの市長や部長の御答弁の内容の具体的事業促進努力、これに加えて、私はさらに本市発展のためにも観光の向上策を考えなければいけない。

和歌山市議会 1997-03-10 03月10日-06号

現在、染色、化学業界等で生じている産業廃棄物のスラッジ、ほとんどが汚泥ですが、先ほど部長答弁の中にも、産廃の45%が汚泥ということでございまして、かなり汚泥の問題は大きい問題を含んでおるようでございますが、現在、隣の県の業者に処理を請け負わせて、例えば、岐阜県の御嵩町でも問題になったのは、その80%は隣の愛知県から来るものであったということも住民の疑問を抱かせた大きな部分であったと言われております。

田辺市議会 1996-03-14 平成 8年 3月定例会(第5号 3月14日)

私は、先日、愛知県碧南市、滋賀県湖東町、滋賀県八日市市の図書館へ視察に行って参りましたが、それぞれ大変すばらしい施設で、近代図書館の機能を十分に果たしておりながら、市民のみなさんに大変活用していただいておるところを視察して参りました。しかし、そのサービスは、これといった特別なことを行っているのではありませんでした。

田辺市議会 1995-06-21 平成 7年 6月定例会(第3号 6月21日)

昨年の11月の愛知西尾市の大河内清輝君のですね、いじめ原因として自らの命を絶つという痛ましい事件の後、ことしになっても多くの子どもたち自殺が続いています。また、いじめ問題は、どこの学校でも起こり得る、極めて広範な現象だというふうになってきています。文部省は1985年、これをピークにしてと。このときに言われたのが、「15万5,000件」というふうに言われたんですね。

田辺市議会 1995-03-13 平成 7年 3月定例会(第4号 3月13日)

今の申した中に、まず、いじめの問題でありますけれども、昨年の11月に愛知西尾市の中学生が、いじめ原因にですね、自らの命を絶ったと。その後も痛ましい事件が相次いでいます。この間、教師、父母、子ども、あるいは政府、文部省、マスコミなどですね、間でさまざま議論が交わされてきました。その議論は、いじめがあることを前提とした対策が主なものであります。

和歌山市議会 1994-12-07 12月07日-03号

そして今日持って行くお金がどうしても見つからなかったし、これから生きていても……だから」、愛知西尾市立東部中学校2年生、大河内君の遺書の書き出しであります。13歳の命と引きかえに清輝君が懸命に訴えたものは、いじめというよりも、恐喝が原因であることを告げています。遺書がなければ死の理由もあいまいになり、肉親の悲しみとともに葬られたであろうと思われます。

和歌山市議会 1993-12-09 12月09日-05号

一方、県外への就職では、平成4年の高卒では第12位で38.4%、行く先は大阪68.3%、東京 7.9、愛知 4.9、奈良 4.5、京都 3.5、兵庫 3.1%となっています。大学生の就職は、データはございませんので、恐らく県内にUターンできる若者はほとんどないのではないかと考えられるのであります。 

和歌山市議会 1993-03-10 03月10日-07号

愛知瑞穂大学西教授という方が、「老人保健福祉計画の課題」という論文の中で、このニーズの把握に関して、ニーズとは、科学的に決定される健康に関する不足である。その不足は、予防し、治療し、最終的には制御または撲滅する必要があるという世界保健機関の定義を挙げて、続けて、このニーズを把握するには、専門知識前提としなければならないことから、簡単なアンケート調査では不十分なことは明らかである。

和歌山市議会 1993-03-09 03月09日-06号

例えば、市町村の規模といいますか、サイズは大小さまざまで、町村で一番小さい村は愛知県の富山村で、人口が202 人、反対に人口が5万人を超え、いつでも市を名のれる町は、最近まで7町ありましたんですが、埼玉県の鶴ヶ島町など7つほどありましたんですが、今新しい、一番新しい資料では、広島県の府中町など2町が5万を超えているだけで、あとは市の方に、市に昇格されたわけです。 

和歌山市議会 1990-07-12 07月12日-03号

概要を簡単に申し上げますと、第2国土軸愛知渥美半島から紀伊半島を抜けて和歌山市に至り、さらに四国と連絡し、豊後水道を経て長崎に至る第2東西道路でございます。これを受けた形で昭和44年の新全総では、第2国土軸東海南海連絡道として位置づける、またその後、昭和48年には、大阪から四国を抜け大分に至る四国新幹線が位置づけされてまいったところでございます。