海南市議会 2018-02-27 02月27日-02号
この和歌は、僕の頭の中に入っておるんですが、豊臣秀吉を初め、松尾芭蕉や夏目漱石、南方熊楠、中国の革命家の孫文まで訪れたというふうに聞いています。本当に「絶景の宝庫 和歌の浦」を大切にしていくということは、大事なことだというふうに思います。 中項目1に行きます。区域の文化財の保存や整備の現状について。
この和歌は、僕の頭の中に入っておるんですが、豊臣秀吉を初め、松尾芭蕉や夏目漱石、南方熊楠、中国の革命家の孫文まで訪れたというふうに聞いています。本当に「絶景の宝庫 和歌の浦」を大切にしていくということは、大事なことだというふうに思います。 中項目1に行きます。区域の文化財の保存や整備の現状について。
夏目漱石の草枕にあるように、智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。私は、個人的には義理人情に厚いほうですが、政治、行政へ義理人情を持ち込むな。ですから、義理人情は言っていない。私の言っている仁義は、政治の世界、行政へ義理人情を持ち込むと、これは公平な行政運営の妨げになるんで、公共では義理人情、市長は義理人情を持ち込んだらだめですよと。
福沢諭吉、森鴎外、夏目漱石なども素読を行っていたそうです。日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹さんも、幼いころから祖父からの指導を受けて素読をやっており、後に、意味もわからずやっていた素読だが、文字に対する抵抗感がなく、漢字の難しい本も抵抗なく読めた、素読は決して無駄ではなかったと語っておられます。
和歌山市出身の南方熊楠が孫文と和歌山市で再会した話や、夏目漱石が和歌山に来た話等もほとんど知られていません。夏目漱石は日露戦争後に和歌山市を訪れ、県議会の議事堂で講演をしています。また、江戸時代には日本三景とも称されたこともある和歌浦の大浦湾の奠供山に日本最初の昇降式エレベーターがあり、大阪の湯川胃腸病院に入院していた際、それを見に来た話もあります。
当時は、1897年から1900年という、そういう期間でありまして、当時、熊楠が帰国して、前後して夏目漱石もロンドンに行かれたという、そういう歴史的な事実を引き合いに出して、だれか和歌山市のこういう孫文と熊楠の対談などを小説にしてくれたらいいのになという思いを市長にも披瀝させていただきました。
また、明治の文豪、夏目漱石の来訪、南方熊楠と孫文の再会の地という歴史的、文化的な場面が大変多くあるところであります。このような和歌浦に残る貴重な歴史文化遺産を含めた観光資源を有効に活用し、関係機関とも連携を図りながらその魅力をアピールすることは重要であると考えております。 次に、記念碑の建立について、関係部局にどのような指示をしたのかという御質問であります。
1900年9月に夏目漱石がロンドンへ行っているそうなんですね。だから熊楠と漱石はロンドンで1カ月一緒になっているので、そのとき会っていなかったんでしょうかね。 熊楠も10月に和歌山市に帰りまして、やがて愛宕山の円珠院、現在でもこのお寺はありますけれども、円珠院に住んで、孫文の横浜滞在を知らされて文通を始めたそうです。
それでまた、ここは夏目漱石が森の都と称したので、こういうことになったそうですが、「新世紀漱石の森づくり」ということで、市民・事業者・行政が一体となり2001年度から緑の3倍増計画を進めている。家庭・町・事業所での森づくりについて、ケースごとに50%を助成、森の都のイメージをさらに高めていこうということで、熊本市は一生懸命取り組んでいるわけなんです。先進地ですよ。
明治43年には、奠供山にエレベーターが設置され、夏目漱石が「所にも似ず無風流な装置」と嘆きながら、気になって仕方がなかったということなども、今では和歌浦にまつわる文化的側面としての魅力の一つだと思います。 そして、新和歌浦の開発を手がけた森田庄兵衛、和歌川の河口域であった紀三井寺、三葛では製塩が盛んであったことなど、今後においても伝承していかなければならない文化遺産であります。
そういうことで、私も乏しい知識ですけれども、夏目漱石の小説の「行人」の中で、和歌浦に1泊して本町で--結局泊まったんは本町ですけども、和歌浦のシーンを引用なさってる小説もございます。
片や、夏目漱石も見物したというパリ万国博、実存主義の先駆者ニーチェ、精神分析のフロイトの登場など、まさに政治、経済、社会、文化、あらゆる面で大変にぎやかな時代と言えます。