鳥取市議会 2006-09-01 平成18年 9月定例会(第6号) 本文
60年国体までに建設しようと検討されたり、坂野参議院議員が当選の折、建築するとのこともありましたが、実現に至らなかったのは事実であります。
60年国体までに建設しようと検討されたり、坂野参議院議員が当選の折、建築するとのこともありましたが、実現に至らなかったのは事実であります。
SC鳥取は1983年、鳥取教員団チームとしてこの米子市に生まれ、そして1986年、山梨国体にて優勝の後、1989年、SC鳥取と名称を変更、2001年よりJFL日本フットボールリーグに加盟、そしてその後も米子を活動拠点として本年JFL参戦6年目を迎えているところでございます。そしてまたサポートスタッフ、関係者の大部分は米子市民でございます。
この4中時代の体育館は前校長先生が若かりしころ、38年前の話で恐縮ですが、バスケットボールを見ておられ、中国大会や、卒業生が高校・大学でも活躍、国体に出るなど優秀な選手が数多く育った歴史ある体育館です。さて、その後藤ヶ丘中学校の旧体育館についてですが、生徒数は758人です、平成17年5月1日現在。1点目は、23学級での体育実技の保障が確保されなければなりません。
往々にして、国体といいますと1カ所に集めてそれぞれの何十種目という種目をするというのがこれまでの文部科学省の考え方でございました。そういうことをして本当でいいのかという考えもあるようでございまして、今度は発祥地大会的なそのような方法を考えていきたいというのがこの地域スポーツ拠点づくりの推進事業だと聞いておるところでございます。
昭和60年国体のとき及び平成6年にも県・市で検討委員会ができたものの、計画に至らず、長年にわたって鳥取城の復元と周辺整備を待ち望んでいた20万市民にとりましてはまさに歴史的な第1歩であり、平成の鳥取城の復元が始まるとのことで大変喜んでいる1人であります。
そのほかにも、国体道路周辺とか、いろいろございますが、今後さらに大きな郊外型の集積が、どういうふうな動向になってくるかは別としまして、都市計画のマスタープランの、現在の案の中でも、市街化調整区域内においては都市的な土地利用を避けて、都市部の拡大を極力抑制するといったことも示しておるわけでございまして、これはまだ策定中のものではありますけれども、大規模な商業的な開発が、さらにどんどん進むということが、
60年国体をやったときにああした設備がないのは困るということでやったもんでございます。そのときの書き物に必要経費差し引き3分の1はその町が払うという、それに固執しとるわけでございます。今の未来中心も同じことでございますが、そのような中でございまして、今度湯梨浜町になりまして大変な問題もあるわけでございますが、引き続いて私は県にこれは当然に県で持っていただきたい。
また、水上スポーツの振興として国体を初めとするそうした生活環境に潤いを与えてくれる水は、四季の変化を楽しめる景観ともなっております。 水質浄化に取り組んできた具体的な対策は、主なものから申し上げますと、集落排水事業を初めとする下水道接続工事による生活排水対策をまず手がけております。そして、上部における不法投棄物の撤去。東郷湖漁業組合や自治会でのクリーン作戦の展開。
それから、その当時の金田市長時代には、昭和60年の鳥取国体、わかとり国体までに復元をというような運動がありまして、しかし、最終的に間に合わなかったという経過があるようです。
いろいろこれ調査をした結果、昭和60年といいますから今から20年ほど前ですか、わかとり国体の受け入れ会場として農業者トレーニングセンターが昭和58年に、また総合体育館が昭和59年に建設された折に体育館の使用料が設定されたのがどうも始まりのようでございます。
ただ、鳥取・青谷の緊急性からはとても10年は待てないという思いが強くいたしますし、その間にインターとか、ハーフインターと呼んでおります、乗る方は乗れる、おりる方はこっちからはおりられないみたいな、そういうインターも含めて、吉岡付近、あるいは気高町内、そういったところ、一番鳥取インターに近いところは、国体道路につながるためのインターも含めていろいろ検討しておるわけで、部分的な供用開始ということも含めてできるところから
我が鳥取県も、昭和60年のわかとり国体に向けて、選手強化策や、各競技の底辺拡大策によって大きな成果を上げたわけですが、時の流れとともに今の状況には寂しさを感じます。 オリンピックで優勝した選手の在住地や出身地の盛り上がり、また、道産子選手ばかりで戦い抜き、日本一の栄冠を手にした苫小牧市や北海道の喜びの様子を見るにつけ、鳥取市ではと考え込んだのは私一人でしょうか。
19年前の昭和60年というのは、わかとり国体もあったし、愛する阪神タイガースが優勝した年でもありますけれども、「さようなら倉吉線」と書いたプレートを張った最終列車、別れの最終列車、これに乗ろうということで哀惜のマニアたちとともに増井部長も最終列車に乗られたということを聞いておりますけれども、当時の心情をちょっとお聞かせ願いたいと思います。
関係スポーツ団体の関係者は、10年前のわかとり国体のように、多くの住民参加のもとに一人一役運動を展開し、全国の多くの選手や関係者の皆さんを迎える対策を講じられるよう期待しております。これを機会に、市政の重要課題としておられます、本市が進めておられます市民総スポーツ運動の普及で、スポーツを通じて健康で明るいまちづくりの機運を一層高める機会と思います。
その中で、59年といいますと国体の前年、それから「水と緑と文化のまちづくりの協議会」が発足するというような、まちに財政的には元気のある時代だったと思います。
鳥取クレー射撃場は、わかとり国体前々年の昭和58年1月末完成、4月にオープンされ、昭和60年のわかとり国体では射撃の会場になり、多くの選手の練習、試合にと利用されました。その後、鳥取市クレー射撃協会を中心に大会などが開催されています。最近10年間の利用状況を見ますと、年間平均1,130名であります。
7時半から8時ごろ、鳥取市内に向けてあの道路を通りますと、青島の辺から桂見の国体道路に接続する辺まで毎日のように渋滞しておりますね。一番渋滞しておるところが、これからまだ全く未解決で、手がつかない箇所になるわけですので、この辺も早いこと、あと2.5キロですか、頑張ってもらうように、綾木部長、県の方に、市長も含めて、ねじを巻いていただきたいと、このように思いますので。
ことし1月に開催された第58回国体冬季競技大会のスケート・アイスホッケー競技において鳥取県は天皇杯21位、皇后杯22位という立派な成績でした。しかも、成年男子フィギュアスケートの部において、鳥取市のスケート場で育った岩本選手が優勝、須嵜選手が14位という輝かしい成績をおさめています。
国体であれば、開催県が1位となり、次の年からまたもとの定位置に戻るというぐあいになるわけですが、国民文化祭では順位をつけませんので、もとに戻ったかどうか、はっきりとはわかりません。せっかく盛り上がった気持ちを、まちづくりにに生かさない手はないと思います。活気あるまちづくり、特色あるまちづくりとしても、ぜひ活発に活動を続けてもらうべきではないでしょうか。
鳥取国体が開催されました昭和60年7月から東京便に小型ジェット機が就航以来、平成2年、2,000メートル滑走路供用開始、同年12月、東京便3便化など、利便性が充実してきており、利用者も大変喜んでいるところでございますけれども、近年の空港利用者状況はどのような状況であるのか伺いたいと思います。