湯梨浜町議会 2019-06-11 令和元年第 5回定例会(第 5日 6月11日)
2番目に、文芸の里は、栗原女史、明治31年生まれの橋津出身で近代短歌史でもすぐれた歌人として高く評価されております。ふるさとが生んだ偉大な女史、歌人であります。旧羽合町時代に、展望台も含め、実行委員会が設置され、整備されましたが、同時に偉大な女史、女流歌人を記念して、文芸の里が計画されました。それぞれ自分の歌を石に刻み、周辺に建てられています。5月の段階では石碑は雑草で覆われ、無残な状態でした。
2番目に、文芸の里は、栗原女史、明治31年生まれの橋津出身で近代短歌史でもすぐれた歌人として高く評価されております。ふるさとが生んだ偉大な女史、歌人であります。旧羽合町時代に、展望台も含め、実行委員会が設置され、整備されましたが、同時に偉大な女史、女流歌人を記念して、文芸の里が計画されました。それぞれ自分の歌を石に刻み、周辺に建てられています。5月の段階では石碑は雑草で覆われ、無残な状態でした。
因幡の地と縁のある万葉歌人大伴家持が、本年、生誕1,300年を迎えることから、これを記念しその魅力や功績を伝える演劇を来年3月上旬に梨花ホールで開催するとともに、大伴家持を題材に執筆している著名な漫画家の里中満智子さんの作品展を開催します。本市としても、事業実施主体である実行委員会と連携しながら全国に万葉のふるさと鳥取市をアピールします。
日本の平安中期の女性歌人和泉式部の胞衣塚。昭和39年に吉田璋也によって建設された青島、津生島、団子島を阿弥陀三尊として一望できる湖山池阿弥陀堂。全国に湖山池しかない漁法の石がま漁。平成26年10月から運行されている遊覧船など、数多くの魅力ある日本一の湖山池を観光産業としてどう生かしていくのか問われています。
大高野の分につきましては、これは斎尾廃寺跡との一体的なものもありますし、法隆寺式の伽藍ということもありますし、ちょうどあのころは倉吉にも国府がありまして、山上憶良か、万葉集の歌人でありますけども、あれが結局今の県知事と同じように中央のほうから来ておったところと大体重なってまいります。
716年、伯耆守に命じられた万葉歌人の山上億良が倉吉に赴任して、ことし2016年、平成28年が1300年であります。国司を命じられ、首皇子、後の聖武天皇の学問講義役となるまでの5年間を倉吉で過ごしたとされております。
それから、ちょうど日本の代表的な戦後の歌人でございますけれども、土屋文明氏という方がいらっしゃいます。これはアララギ派を主催しておられたところでございます。それから、万葉集の研究家でもあります。明治大学の教授をしておられた方ですが、この方は非常に万葉集の研究ということもありまして、山上憶良を非常に尊敬していらっしゃいます。
中部地区のいわゆる短歌歌人会の中で応募してくださる方が大体そのくらいの数かなということを考えてみますと、中部地区は大体応募してくださったんではないかと思っています。あとは東部、西部のほうにどうやっていくかということであるかと思います。 ちなみに先日、東部と西部の各市町村の教育委員会、それから高等学校にちょっと足を運びまして、こういったものを実は倉吉は計画していますということを説明申し上げました。
それから、万葉集を取り入れた展示等はどうかということでございますけれども、伯耆の国の長官に任じられた万葉歌人で有名な山上憶良がいます。伯耆の国で詠んだとされる歌は知られてないわけでございますが、各国に中央から派遣された国守の多くは万葉歌人でもあります。隣の因幡の国には万葉集を編さんした大伴家持が国守として赴任していることもございます。
因幡の家持、伯耆の憶良、いずれも万葉を代表する歌人が鳥取の国主として2人おりますので、そうしたことをキャッチフレーズにしながら今、議員がおっしゃいましたような全国に展開するというようなことも考えていきたいなと思っておるとこでございます。 ○19番(山口博敬君) 教育長、遠慮しならでもどんどんやらないけませんよ、初めから。
それから、両方とも万葉歌人でもありますし、お隣の島根県の石見の国は柿本人麻呂がいたところでございますので、石見の人麻呂も合わせて、あるいは国庁サミットぐらいでも開いてみるような考え方もあるのかもしれませんけれども、夢は様々広がりますけれども、こうしたことについて取り組んでいくことを研究してみたいなと思います。
○議員(14番 阪本 和俊君) この3月に平成22年度の事業の提案理由の説明の中で松本町長は、万葉歌人であります山上憶良の歌を引用されました。金も銀もどうどうと。
そして山上憶良でございますが、万葉の歌人として余りにも有名な人物でございますが、霊亀2年、西暦の716年に伯耆の守、国司として任命され、5年ほどこの地に赴任していたようでございます。その後中央に帰り、その後また福岡の筑紫の守に任じられたということでございます。しかしながら、この伯耆の守時代に歌われた歌というのは現在伝わってはおりません。
歴史的に見ても、あれは在原行平、それから大伴家持、それから山上憶良、もう歴史的にも有名な名立たるする歌人が通ったと言いますし、天下とりした豊臣の秀吉さん、この人も通ったということを文献で見ます。やっぱり本当に歴史を感じるものが残っとるということでございますけども、せんだって国の史跡にも指定されましたし、改めてこの文化的な歴史的な価値が見出されて当然その活用に取り組んどると思うております。
しかも、その池の姿たるや、平安の歌人和泉式部をして「霞の里」と歌わしめた明媚な池と聞けば、歴史と伝説に引かれる観光客は最大の魅力と感ずることでありましょう。 この観点から、あえて私の愚見を申し上げ、御批判を仰ぎたいと存じます。
ごみのことも先ほど申し上げましたけれども、枝野登代秋という歌人がございます。松江生まれで鳥取で育ち、鳥取で短歌を広めたという形でございます。そこに砂丘清掃の海岸部の大型ごみが、一時的にせよ山となっておりました。あの時期ですから観光客はたくさん来るわけですね。こどもの国あたりにも来るということ。その枝野登代秋さんの場所に大型ごみが山と積まれておるということですね。びっくりしました。
倉吉の歴史ゆかりの万葉歌人山上憶良の「子等を思ふ歌」、皆さん御存じのように、「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」に象徴されるように、子に対する親の愛は、いつの時代も変わらぬものであります。青少年の健やかな成長は、時代や世代を超えてすべての人々の共通した願いでもあります。
鳥取県にもゆかりがありまして、伯耆の国の国司ということもやっておりました万葉の歌人山上憶良さんが歌われた歌の中に、「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」というのがございまして、古来、日本人は子供を大切に思う気持ちをたくさんに持ちながらこの日本の国というものがつくられてきたというふうにも感じておりまして、現代において子供を大切にしなければならないということは、これは歴史的に見ても当然改めて認識
参考までに、霞の里の由来は、平安時代の歌人和泉式部が故郷の湖山をしのんで詠んだ「春くれば花の都を見てもなお霞の里に心をぞやる」という歌だそうであります。 さて、現実問題として、最近、県から地元の関係者に天神山の現地案内の要請があったと仄聞しておりますが、この天神山城の整備計画の検討状況はどのようになっているのか、霞の里構想のような前向きな答弁を、市長並びに教育長にお伺いいたします。
私の近隣に住む篤農家の歌人・石原正さんがその歌集『田園』の中で、供出と減反強いし割り当てに農一代の屈辱を知る、農一代の屈辱を知ると歌っておりますが、これは水田農業にかける篤農家の紛れもない戦後史を示すものであり、今日の農業を支える同世代共通の思いであります。農政はこうした方々の努力にこたえ、報いていただきたい。