板橋区議会 2019-03-01 平成31年第1回定例会−03月01日-02号
高島平少年サッカー場につきましては、これまでのサッカー練習場としての機能に加え、さらに多くの方々に利用していただけるよう、グラウンドを人工芝化し、乳幼児でも安心して遊べる場所にするとともに、スポーツ教育にも活用できる多目的な運動場として再整備してまいります。
高島平少年サッカー場につきましては、これまでのサッカー練習場としての機能に加え、さらに多くの方々に利用していただけるよう、グラウンドを人工芝化し、乳幼児でも安心して遊べる場所にするとともに、スポーツ教育にも活用できる多目的な運動場として再整備してまいります。
前提が野球場であって、サッカー場であって、決して30分ごと、1時間ごとで終わりましょうという野球練習場であるとかサッカー練習場が前提ではないと思うんですね。そうすると、どうしても30分、1時間で夜間照明の使用料というのが終わるということはないと思うんですね。
また、子どもたちのためのサッカーの練習場につきましても、正式なサッカー練習場というのは残念ながらございませんで、委員も申し上げましたとおり、フットサルコートとして小川広場、それから、コミュニティスクールで昌平童夢館、神田さくら館、それから麹町二丁目施設というところのコミュニティスクール、そして、スポーツセンターの主競技場、こういったところで本来的なサッカーでございませんが、フットサルの練習などができる
また、旧南豊ヶ丘小学校跡地を東京ヴェルディのサッカー練習場に特化した事業に関しても、設置予定の夜間照明が近隣住民の住環境に及ぼす影響が危惧されています。 福島第一原発事故により、電力消費の見直しが求められている現状の中、市が電力消費拡大の政策を進めることにつながる夜間照明設備の建設計画の見直しを求めています。 本来良好な住環境の中にサッカー競技場として整備すること自体問題です。
四点目は、豊島地域の青少年野球、サッカー練習場について伺います。 地元からは、豊島地域には少年野球及びサッカー場の練習場が少なく、困っており、今回、豊島北中の跡地が緊急避難施設にもなったため、グラウンドが使用できず、さらに厳しくなったとの声があります。 そこで、豊島五丁目団地前の長期間あいている日本油脂の跡地は現在はどのような状況でしょうか。
そして、埋め戻しから30年以上経過し、周りも市街化区域になり、都市計画道路などの基盤整備もされ、武蔵野等地区市街化調整区域は道路、公園等の公共施設が24.7%、学校、衛生環境施設、特別養護老人施設等公共・公益施設が42.2%、自動車教習所、サッカー練習場等民間施設12.1%と、公共・公益施設や民間施設合計で79%が利用され、残り21%が駐車場や建設資材置場など低未利用地となっております。
また、先ほどお話の中に御披瀝されておりました大沼公園、これは東京ガスのサッカー練習場になっています。これは芝生がきれいに張られております。これは中央公園と同じように約6.64ヘクタールございます。あるいは青梅橋公園、これは薬用植物園です。津田公園、津田塾大学の樹林地でございます。あるいは神明宮、延命寺、寺社の境内、こういうものも私ども現在整備をしていないわけです。
これを言うと元も子もなくなりますが、私なりに考えた場所は日米親善にかこつけて横田基地内のサッカー場とか片倉跡地に東京都立のサッカー練習場建設など、子供たちの夢に一歩でも近づけるように要望したいと思います。 次に、行政改革について、職員人事について。大変詳しい御答弁ありがとうございました。
サッカー練習場につきましては、市民球技場、東原公園球技場、そして永山公園総合運動場の3カ所と市内小中学校の校庭を練習場とし、陸上競技につきましては永山公園総合運動場の陸上競技場を利用いただいておりますが、必ずしも十分とは言えない状況であります。
場所によっては駐車場、駐輪場または区民の健康維持、老化予防のための施設としてパークゴルフ場、遊歩道、テニスコート、子どもたちのサッカー練習場、ゲートボール場など、さまざまな活用を考えられるのではないかと思います。もちろん一度に全面にふたかけは困難にしても、例えば常磐新線に関連するところなど、いま必要な地域から取り組むことは、全く不可能なことではないと考えるものであります。
この中川公園内の一部を、サッカー練習場として使用する案が4月に区から提案されましたが、地元では、区は住民の不満の声をサッカー練習場でかわそうとしているのか、そんなことより区は根本的な早期解決のために、まず住民を無視している下水道局への働きかけをすべきと、区の対応に不信感を持ち始めています。区の意図が不明ですが、住民に不信感を持たれないよう行動をすべきと思いますが、いかがでしょうか。
この馬場窪というのは、小山田緑地の今サッカー練習場になっているところです。それは馬場窪という地名になっております。結局、馬術の練習に使われていたところというふうに考えられます。 また、大泉寺の参道では、昭和十二年ころまで馬駆けという行事が行われていたということです。これは今でも、そのことを知っておられる方が随分おられます。