足利市議会 2021-06-18 06月18日-一般質問-04号
まずは早川市長に、南小学校のOBとして、市長就任のお祝いを申し上げます。恐らく初の南小学校出身の市長でいらっしゃると思います。南小学校の1期生として、これはすごく誇らしいことだなと思っていますので、これからもよろしくお願いいたします。同窓生だけれども、私のほうが随分年配です。 すみません。質問に移ります。初めに、防災対策の今後の方針についてお尋ねいたします。まず初めに、西宮林野火災についてです。
まずは早川市長に、南小学校のOBとして、市長就任のお祝いを申し上げます。恐らく初の南小学校出身の市長でいらっしゃると思います。南小学校の1期生として、これはすごく誇らしいことだなと思っていますので、これからもよろしくお願いいたします。同窓生だけれども、私のほうが随分年配です。 すみません。質問に移ります。初めに、防災対策の今後の方針についてお尋ねいたします。まず初めに、西宮林野火災についてです。
また、この年に市長になられた早川市長においては、100年の大きな流れの中で親子2代で市長職に就かれたことは、誠に記念すべきことであります。 私も22年前、初当選をした当時、御尊父の早川一夫市長には、大変御指導していただいたことを思い起こします。改めて早川市長の就任は、足利市の新しい100年に向けた大きな原動力になることを御期待申し上げます。
初めに、早川市長、御当選おめでとうございました。まさに足利市制100周年の記念すべき年、次の100年に向けた新しい年をニューリーダーと進むことに対し、感激をしながら、真摯に取り組んでまいります。 また、塚原新副市長、就任おめでとうございます。
故人となられましたお二方ですが、当時の早川市長、真剣に私の質問に対し取り組んでいただきました。そして、教育次長を務めていただきました中村教育次長、答弁用紙を3回も書き直したと私に話されました。これは違っているから、もう一回書き直せと、もうちょっと深く答弁したいから書き直しなさいと3回書き直されたと、そんなことを私に申されておりました。
この提案を当時の早川市長に行いました。通信大学は、添削事業と称して、生徒は月に1度来場しなくてはなりません。その提案を機として試行錯誤された結果、足利学校アカデミーの開設に至ったわけであります。第1回開催が平成9年8月23日、以来令和元年で23講座を行ったと聞いております。1講座に複数回行うため、延べ135講座を行った。受講者は通算9,571人の実績となっているようであります。
早川市長時代から定期公演となり、21回講演しているNHK交響楽団定期公演、吉谷市長の熱心な誘致活動により実現し、12回公演している佐渡裕氏とシエナ・ウインド・オーケストラやトーンキュンストラー管弦楽団の公演、その他小中学生対象の各種芸術教室等がありますが、これらの事業はどういった形で実施しようとするのかお聞かせいただきたいと思います。 ○議長(柳収一郎) 邉見教育次長。
その結果、今、市民大学、放送大学というようなことで、当時の早川市長が、中村教育次長が答弁書を持ってくると、これでは短い、これでは短いと2回ぐらい直されたと。それだけ熱を入れていただいた結果、その後に及んで、平成13年、市民大学あしかが学校が開校した。こんなこともございました。
当時の早川市長の答弁は、市制施行記念事業の一環として、市民の方々の意見を伺いながら検討していきたいと、こういう答弁でありました。これから足利市、2021年に市制100周年を迎えます。足利市制施行100周年を記念して、ぜひ市の鳥を制定したらいかがかと思いますが、いかがでしょうか。 ○議長(渡辺悟) 平山総務部長。
しかし、当時の足利市、当時は早川市長だったと思いますが、その覚悟に応えたいという地元保全協議会の覚悟があり、15年間にわたり足利市民が出したごみの灰を足利市で処理をする。当たり前のことではありますが、これが成り立ってきたわけであります。 そして、埋め立て延長もそうであります。和泉市長の思いに応えたい。応えてくれた保全協議会があったから、新たな公害防止協定ができた。
このほかにも、歴代市長は文化芸術活動に対し造詣が深く、早川市長時代にはNHK交響楽団を誘致、吉谷市長時代には小澤征爾氏や佐渡裕氏らとの交流によるコンサートの実現、和泉市長になってからは映像のまち構想などがあったことも受賞の要因になっているのではないでしょうか。
(10番 荻原久雄議員登壇) ◆10番議員(荻原久雄) 早川市長のときに公共下水道が整備され、そして吉谷市長はかなり緊縮財政で予算を削減いたしました。そして、いわゆる借金が減ってきたのですけれども、ここでふやすということはどのようなものかなと。そして、民間でいえば投資がないと会社の経営は成り立たなくなり、継続もできなくなります。
私は、長い政治経験の中から、今まで歴代の町田市長、早川市長、そして吉谷市長、大豆生田市長、この4代に仕えてまいりましたけれども、一緒にやらせていただきましたけれども、この間、歴代の市長とも緊張感のある中での是々非々の立場で今日までやってまいりまして、政治理念に照らしいいものは応援をし、見直しを要すると思えば積極的に御助言を申し上げたいと思っております。
ぜひこの辺を進めていただきたいと思いますけれども、ちょうど今から12年前、平成12年、私はまだ早川市長の当時、片側2車線の一般質問をさせていただきました。そのとき、足利市には1.98キロ、平成12年のとき。何とその名前は疎開道路、昭和通りなのですね。それが1.9キロで12年たちました。
1期当時の町田市長を初め早川市長、吉谷市長、そして現大豆生田市長、4代の市長とともに市勢の発展に尽力してまいったつもりであります。 この間、副議長、また議長を初めといたしまして、各委員会の正副委員長であるとかいろいろな役職をつけていただきまして、その中でも平成11年の11月に栃木県下市議会議長会会長に就任をさせていただきました。
かなりの回数やったかと思うのですけれども、3期目ですから早川市長のときだったと思いますけれども、そうした中で西中の新築を単年度でやるというような話が出てきまして、その中で5億円以上の予算がかかると、しかし子供たちのことだからということで、当時の市長が大決断をして上程するということになったわけですけれども、私は、そのときにちょっと迷ったのですね。
当時町田市長、早川市長、そして吉谷各市長に要望をもってお願いしている事項でございます。袋川に架橋された木製の橋、「油」と「藤」と書きまして油藤橋、現在の猿田町と山川橋本町を結ぶ位置にあったそうですが、油屋さんに油を買いに行き来したということからこの油藤橋という名前がついたようであります。
10周年記念のときも早川市長が同行して、それで栃木県の代表として天皇の即位10周年、即位20周年、2回ばかり行かせていただきました。本当に名誉なことだと私は思っております。 そこで、私も4代の市長にかかわってきました。最初に町田市長でございます。町田市長のときに、昭和62年9月市議会定例会のときに八木節の振興という題目で質問をいたしました。
この歌手でございますけれども、御本人も当時の早川市長から渡良瀬橋のたもとで感謝状をいただいたというよい思い出を持っているとのことでございます。そして、この曲は森高千里さんの代表作の一つとされておりますけれども、森高ファンは今も歌の中に出てくる渡良瀬橋の夕日や、また床屋さん、公衆電話、八雲神社、そういったものを見ることで市内に訪れているということも聞いております。
当時の早川市長が大変な苦慮をしながら、志半ばで急逝されたのは御案内のとおりでございます。 その結果、急遽、吉谷氏が県議会議長または議員会長の経歴をひっ提げて、第11代の市長に当選し、まず最初にやった仕事は、この競馬事業の廃止であったのであります。当時40億円かかるだろうと言われていた競馬事業運営協力金が、県との協議の中で14億5,800万円で廃止に踏み切れたのであります。
この事業者の社会貢献に対しましては、十数年前には当時の早川市長から感謝状が贈られたとも伺っております。まさに現在において、市民と行政のかかわりのテーマともなっております協働による事業の推進が既に足利市では30年前から行われていたという事実でありまして、むしろ本市の誇れる事業の一つであると考えているところであります。