浜松市議会 2012-09-12 09月12日-14号
昭和35年当時、三方原用水事業を本市の最重要事業として推進するために、当時の平山市長は陣頭に立ち、全市民の理解と協力を得るために、広報はままつの紙面を使い、6回にも及ぶ説明を行うとともに、各地で開催された説明会に出席したとの記述がありますが、今回の事業も本市にとっては大事業であり、事業推進に向けた市民への周知はどのように行うのか伺います。
昭和35年当時、三方原用水事業を本市の最重要事業として推進するために、当時の平山市長は陣頭に立ち、全市民の理解と協力を得るために、広報はままつの紙面を使い、6回にも及ぶ説明を行うとともに、各地で開催された説明会に出席したとの記述がありますが、今回の事業も本市にとっては大事業であり、事業推進に向けた市民への周知はどのように行うのか伺います。
浜松市の農業の基盤整備は、三方原用水事業や天竜川下流用水事業、そして浜名湖北部用水事業などの国営事業を初め、県営圃場整備事業や県営畑地帯総合整備事業など、また土地改良区による団体営圃場整備事業や団体営畑地帯総合整備事業など数多くの土地改良事業が実施されたことにより、農業用水の安定供給が図られたことは、すべての関係者の認めるところであります。
三方原用水事業は、昭和25年に国の天竜・東三河特定地域総合開発計画の三方原用水事業として計画され、昭和35年から秋葉ダムの取水口工事を始め、ダムから都田までの全長22キロの導水幹線工事は、三方原、和地、伊佐見、神久呂、入野、篠原、雄踏方面をカバーし、全長16キロの南部幹線工事は、都田、細江、庄内方面をカバーしております。
次に、本市の農業が現在のようにまで発展したのは、三方原用水事業が完成し、水がなくて不毛の地と言われた三方原台地及びその周辺地域の5918ヘクタールに、年間を通して安定したかんがい用水が供給されるようになったからであります。
三方原用水事業は、国の天竜東三河特定地域総合開発計画の一環として、昭和35年から昭和45年までの10年間にわたって、秋葉ダムから市内までの導水施設工事に始まり、上水、農水、工水と各目的別に整備された大事業であります。
本市農業は、戦後の食糧不足と生産性の向上を図るため、早くから農業生産基盤整備に積極的に取り組み、天竜東三河特定地域総合開発計画の一環として三方原用水事業が、農業・工業・上水道用水の共同事業としてスタートしました。
三方原台地は、終戦とともに国営の開拓事業により開発が始まり、昭和29年、天竜東三河特定地域総合開発計画により、農業用水、上水道用水、工業用水を開発する三方原用水事業が昭和36年から実施され、天竜川の水を秋葉ダムから三方原台地に導入する事業の完成によって、管内の圃場整備、畑地かんがい、農道などの各種の農業基盤整備が急速に進展しました。
これらのため池も三方原用水事業の完成により、畑や田んぼに用水管路が完備されたことで、余り利用されなくなっている状態になっております。そこで、これらの谷地田や棚田を再生し、ため池を活用すれば、保水・貯水能力が高まり、下流河川への負荷が減少することにつながると思いますが、その考えはないか、お伺いいたします。
次に、開渠の用水路に係る地元負担金の廃止についてでございますが、本市の農業基盤の整備につきましては三方原用水事業を初め、天竜川下流用水、浜名湖北部用水の三つの国営事業を基幹として、県営事業や団体営事業など国・県の補助事業を活用するとともに、市単独事業など各種土地改良事業を積極的に推進しているところでございます。
戦後は開拓農地となり、昭和45年の三方原用水事業の完成を機に、浜松を代表する広大な農業地帯として現在に至っているものでございます。 また、開拓当初、農林省から配られた苗木を開拓者が、遠州の空っ風から農地を守るために植えつけを行ったのが三方原防風林の発端と承知しております。当時植えつけられました苗木は、現在、およそ20メートル程度にまで成長して、この三方原地区のシンボル的な存在となっております。
こうした農業生産を支えているのは、恵まれた気象条件と蓄積された農業者の技術はもちろんでありますが、三方原用水事業や天竜川下流用水事業が早くから実施されたおかげで、全国的な水不足で農産物に深刻な被害が及ぶような事態が発生する中でも、本市はほとんど影響を受けることがないことが大きな要因であると思います。改めて、先人の功績と市当局の御努力に対して敬意を表するものであります。