藤枝市議会 1996-03-05 平成 8年 2月定例会-03月05日-02号
何をもってサッカーのまちと言うのかという御質問でございますが、「サッカーの街藤枝」については、私が今さら申し上げるまでもなく、今、小柳津議員も一部触れられましたけれども、今から70年前に当時の志太中(藤枝東高等学校の前進)初代校長の錦織兵三郎氏が、「サッカーを校技とする」としたことから始まり、昭和11年ベルリンオリンピックに笹野・松永選手等を輩出した。
何をもってサッカーのまちと言うのかという御質問でございますが、「サッカーの街藤枝」については、私が今さら申し上げるまでもなく、今、小柳津議員も一部触れられましたけれども、今から70年前に当時の志太中(藤枝東高等学校の前進)初代校長の錦織兵三郎氏が、「サッカーを校技とする」としたことから始まり、昭和11年ベルリンオリンピックに笹野・松永選手等を輩出した。
戦前においては第10回ロサンゼルス大会の角田氏は体操競技で出場し、第11回ベルリン大会の遠藤与市氏はボート競技、第16回メルボルン大会の石川行男氏は走り高跳びで出場し、ソウル大会にはテコンドウ競技で塩川寛和氏が出場したことであります。
簡単に世界の流れを考えてみましても、1989年11月、もうきのうのようなことなんですけれども、89年の11月になります、東西を分けたベルリンの壁が崩壊し、12月には米ソの冷戦の終結という大きな世界的な流れがありました。冷たい戦争は終わった。しかし熱い熱い平和を願う、求める戦いは後を絶たないわけです。皆さんも御存じのように、民族問題、宗教、国家の独立、地球上の至るところで戦いが絶えません。
シンガポール、韓国は一番最後ですけれども、さまざまな賠償協定を結んでいくわけですが、それが大半の場合が金銭でなく、生産物や役務、つまり日本政府が日本企業に円を渡し、企業が発電所とかダムとか上水道の建設を相手国に提供する、そういう形で、賠償というものがある種一つの経済復興という形にすりかわってきたということがあり、この日本がアジアの侵略戦争の中で犯したさまざまな損害賠償というものが、そういう枠の中で、今ベルリン
県の環境・文化部は舞台芸術の振興方策を検討し、6月、7月にかけてギリシアのアテネ、ロンドン、ベルリン、パリで舞台芸術の施設状況や運営に関するノーハウを調査し、今後の参考資料とするために視察をしました。 その後、新しい静岡の舞台芸術に関する委員会が、県に舞台芸術の振興方策などに関する中間報告書を提出しております。
こりゃあまあ世界的にもそうなって、今ドイツもそういうふうに、ベルリンにもう一度引っ越すには、もっと大ベルリンだという形にしたいんだと言うふうなことも聞いておりますが、ベルリンが今度首都になるでしょうけども。まあそれなりにはそういう用意をするんだと言うことを聞いてきましたが。まあそういう傾向は世界的にあるんじゃあなかろうかなと。