安来市議会 2017-03-03 03月03日-02号 温故知新ではどのように分析理解されるのか微妙ではありますが、堀尾吉晴公は関ヶ原の戦いを経て長男忠氏氏と月山富田城に入城、その後直ちに城の移城を決めたと言われ、それは豊臣時代に富田城主であった吉川広家は米子移城を決め、工事を進めていたと言われ、頼りにしていた息子忠氏は28歳で急死、孫の忠晴を助けて松江城を完成し、慶長16年、1611年、松江に城が移り、吉晴公一世一代の普請であったが、忠晴公が元服し、肩