長浜市議会 2020-03-11 03月11日-02号
再問ですが、長浜病院は130年前、明治10年から、名前も変わりましたけども、ずっと続いております。今は600床からなりまして、我々市民の誇りであります。市立病院として景観も設備も立派なものです。 ところが、日赤は北海道から沖縄まで90以上の病院を持っている公立病院です。それだけの組織も持っております。
再問ですが、長浜病院は130年前、明治10年から、名前も変わりましたけども、ずっと続いております。今は600床からなりまして、我々市民の誇りであります。市立病院として景観も設備も立派なものです。 ところが、日赤は北海道から沖縄まで90以上の病院を持っている公立病院です。それだけの組織も持っております。
そういう意味でいくと、今の日本の民法の基本は、明治31年にできてから既に120年以上たっています。当時の家制度のもとで、子育ても高齢者の介護もされてきました。その時代から比べると、今は本当に都市化が進み就労形態も多様化し、核家族化しています。明治時代の民法は、各所で現代社会にそぐわないものになっています。 甲賀市は、子育て世代の応援を積極的に進めていただいております。
戦前の大規模な洪水被害についてでございますが、野洲川が改修される前は「暴れ川」と呼ばれたそうで、明治29年や大正2年などに被害もあったようですが、そのほとんどは野洲川下流の野洲市や守山市地先の事象でありました。本市におきましては、そうした記述がわかる資料等も見当たりませず、また、高齢者の方にお尋ねしても大規模な洪水被害が本市であったかどうかの確認はできませんでした。 以上、答弁といたします。
3点目に、安土小学校は明治34年に現敷地内に3つの学校の統合により開校し、100年以上にわたり安土駅前という一等地に所在します。この土地は地元の有志により寄附されたと聞き及んでおります。以来100年以上にわたり、安土小学校の児童は地域の宝として守られ、育まれた文化が脈々と息づいています。また、安土っ子フェスティバル等、小学校を中心としたまちづくりも続いていることは周知の事実であります。
最大で、明治15年には、240畳もの巨大な大凧が揚げられました。昭和33年には、滋賀県無形文化財に、平成5年には、国の無形文化財に選択され、まさに八日市に根づく文化の最たるものであると考えます。 去年の4月の定例記者会見において、小椋市長は「大凧まつりは東近江を代表する歴史と伝統あるまつりで、一日も早い復活を望む。ただし、危機管理体制を構築した上で。
そもそも近江鉄道線は、明治の時代に沿線の篤志家等の寄附による敷設を起源とし、今日まで創業120年を超える伝統を持つ全国でも最古級の民間鉄道でありまして、定時に大量の人員輸送が可能な近江鉄道線が存在することで、県東部地域に発展がもたらされたものと言えます。 さらに、当地域は、御承知のとおり、西武グループ創業者の出身地で、極めて本市とはゆかりの深い地域でもございます。
過去、我が国におきましては、明治時代におきまして富国強兵を推し進め、戦後は産業の強化に注力してまいったという歴史がございます。滋賀県におきましても昭和30年代に高速交通網の整備により工場立地等が急速に進み、産業構造も大きく変わるとともに、全国有数の内陸型工業県となっているところであります。
子どもの出生数は、明治32年の統計開始以来最低であった平成30年の91万8,000人をさらに下回り、86万4,000人と過去最少を更新したとの非常にショッキングな報道でありました。あわせて、出生数が90万人を割り込むのは、社人研が当初試算していますように、減少ペースでは2年早いということで、これも非常に大きなニュースでありました。
それが井伊直弼さんは、遊郭的なものを好まなかったので、明治になってから袋町に移転したと言われていますし、そして、船着き場が大洞弁財天の前に、そして、清涼寺の前にとあります。 そういう場所が琵琶湖の周りの内湖にしっかりあるので、どうぞ佐和山のふもとに対することをしっかり入れ込んでいっていただきたいと思います。 これで私の質問を終わらせていただきます。
守山は、古くからゲンジボタルの群生地として知られ、明治35年から天皇陛下への献上が始まり、大正13年には第1号の国の天然記念物の指定になるなどゲンジボタルが飛び交っていましたが、戦後、工場排水や家庭排水、農薬などによる河川の水質悪化や水源の減少などが原因となり、ゲンジボタルはほぼ全滅し、昭和35年には天然記念物の指定解除となりました。
守山は、古くからゲンジボタルの群生地として知られ、明治35年から天皇陛下への献上が始まり、大正13年には第1号の国の天然記念物の指定になるなどゲンジボタルが飛び交っていましたが、戦後、工場排水や家庭排水、農薬などによる河川の水質悪化や水源の減少などが原因となり、ゲンジボタルはほぼ全滅し、昭和35年には天然記念物の指定解除となりました。
この一揆の指導者たちが命をかけて起こした行動は天保義民としてたたえられ、この義民の勲を長くとどめるため、明治31年5月20日に三雲の伝芳山に天保義民の碑が建立されました。以後、毎年10月15日に追善法要として天保義民祭が営まれてまいりました。ことしは178年祭でありました。また、以前はこの日に奉納相撲が行われていたことを思い出しますし、私も小学校1年生のときに出場したのを覚えています。
2015年、明治大学の学長さんはこのように話しています。一部紹介します。「漫画やアニメ、ゲームは専ら子どもや若者向けの新しいメディアだと捉えられる節がありました。しかし、実態は、国内の幅広い世代に支持されつつ、既に歴史的な厚みを築いてきています。その多様性と相まって、その時々の日本の社会や世相を鮮やかに映す鏡としても機能してきました。
我が国の人口の推移といいますと、例えば明治元年ですと、3,330万人と言われておりまして、それが2019年には1億2,600万、つまり130年間で3.8倍の人口増があったということでありますが、今度は逆に2100年には中位計画でいきますと、人口が4,770万人まで減ってしまうという、いわゆる130年間で3.8倍にふえたものが、約これから80年間で37.8%ぐらい減少してしまうという。
10月4日から27日まで東京の明治大学博物館において、「今、甦る!琵琶湖に君臨した王 雪野山古墳」と題した、約1700年前の宝器である国重要文化財の雪野山古墳の出土品を一堂に展示する雪野山古墳発掘30周年記念展示会を開催しました。
しばらく続きを読む中で、選挙権は今でこそ18歳になれば男女とも平等に手にすることができますが、昔はごく限られた人にしか与えられていなく、日本で国政選挙が行われたのは明治23年、1890年で、そのときに選挙権を持っていたのは25歳以上の男性で、しかも高額の国税を納めていた者に限られており、全人口の1.13%にすぎませんでしたとありました。
しかし、1872年、明治政府によって武力による琉球処分が行われて以来、その民族の自由と主体性を本土政府によって奪われ続け、さらにアジア・太平洋戦争においては日本本土における唯一の地上戦の舞台となって、10万人を超える島民の犠牲者を出しました。その上、戦後は今日に至るまで、米軍基地の重圧のもとに痛めつけられています。
この義民の勲功を長くとどめるために、明治31年に三雲連峰山上に天保義民碑が建立され、以前は甲賀郡町村会、今は甲賀市、湖南市分立後はJAこうかが祭主となり、毎年10月15日に祭典が執り行われています。ちなみに、ことしは178年祭であります。このように、この地域は民のために命を投げ出した先人たちがおられたので、今日まで緑豊かな郷土が受け継がれてきたと感謝したいと思います。
それから、明治時代の浪曲、浪花節です。各地の民謡、現代の演歌の節回しに至ります。 そこで、今の前出の祭文が江州音頭の源流になります。 祭文とは、本来は祝詞のように、神仏を祭る際に告げ戻す神聖な文章のことです。平安期には、既にこれをもじった娯楽的な祭文が生じて、室町時代には、歌祭文となり、山伏ら修験道の人らが芸能化して、大道芸の一種となっていきます。ここで、宗教色がどんどん薄まってまいります。
日本最古と言われる神田上水は天正18年、1590年に整備されたと言われていますが、既に明治34年には廃止され、八幡上水はまさに現存する施設としては最古のものであるとの資料もあります。それも町民の自主的管理により水道施設が生まれていることは、その後の八幡における独自の町民自治につながるものと言えます。