福岡市議会 2008-09-16 平成20年第4回定例会(第2日) 本文 開催日:2008-09-16
34 ◯教育長(山田裕嗣) 本丸御殿、武具櫓の資料収集についてのお尋ねでございますが、復元に必要な要件のうち、指図、絵図、文献史料、古写真については残っておりますが、これに加えて、記録どおりに礎石などの遺構が残っているかどうか、発掘調査によって確認する必要がございます。
34 ◯教育長(山田裕嗣) 本丸御殿、武具櫓の資料収集についてのお尋ねでございますが、復元に必要な要件のうち、指図、絵図、文献史料、古写真については残っておりますが、これに加えて、記録どおりに礎石などの遺構が残っているかどうか、発掘調査によって確認する必要がございます。
私たちの2人の発言が、この自治基本条例をよりよい条例にしていくものとして、その糧なり礎石になっていくことを願いながら、発言をしていきたいと思うんです。 やはり特別委員会は、特別歴史的に重要な任務を負っているのではないかというふうに思います。それは新しい熊本の自治をつくり上げていくという意味で、特別な意味があると思います。この間に、特別委員会が17年3月に設置されました。
私たちの2人の発言が、この自治基本条例をよりよい条例にしていくものとして、その糧なり礎石になっていくことを願いながら、発言をしていきたいと思うんです。 やはり特別委員会は、特別歴史的に重要な任務を負っているのではないかというふうに思います。それは新しい熊本の自治をつくり上げていくという意味で、特別な意味があると思います。この間に、特別委員会が17年3月に設置されました。
19: ◯文化財課長 今現在もう既に整備されている部分でございますが、柱門の部分、回廊の部分、それから七重の塔の部分とか、具体的な全体の整備調査が終わったという数字はここではございませんが、相当部分については調査を終わりまして、その部分については一応の礎石配置とか、そういうところの整備は終わってございます。 20: ◯木村勝好委員 半分以上はもう終わってるでしょう。
124: ◯文化財課長 本年度におきましても、本丸大広間跡北側の発掘調査で礎石、建物跡が発見されました。建物の位置は江戸時代の絵図でも能舞台が描かれている位置に近く、能舞台にかかわる建物である可能性はありましたが、検出いたしました礎石4個の配置が能舞台に特徴的なものを示すものではなくて、能舞台であるとの確証は得られませんでした。
国分尼寺跡は、昭和43年に金堂推定地の礎石遺構表示などを行っています。また、国分寺・尼寺跡ともに除草剪定、清掃など日常的な環境整備を行っております。 利用状況ですが、史跡地内には薬師堂などの歴史的建造物や芭蕉ゆかりの句碑など歴史的資源が存在し、指定文化財になっているなど観光資源としても価値の高いものがあり、多くの方々が訪れております。
せんだってのアスタ5番館でしたかな,あそこで,助役さんがおっしゃったんですか,前の神戸デパートの礎石に書いている言葉「人が協力することは難しい。しかし協力したことの結果はすばらしい。」そういった思いが,やはり行政の皆さんの努力というのはこの10年間,本当に大変な努力をなさったと思います。
なお,祈念館の地上部に,敷地内から出土した礎石や被爆がわらなどを敷き詰め,この地が被爆で焦土となった面影がしのばれるようにしております。 次に,住基ネットについてでございますが,御質問の内容は,横浜市など五つの自治体はなぜネットワークに接続しないのか。広島市が接続することとした理由は何か。
本丸大広間発掘で判明した礎石の位置に合わせて、1枚の図に重ね合わせてみたものがこの図面であります。現存の石垣と木写之略図の石垣の位置は、ごらんのように大きくずれております。
必ず大きい──専門用語では根石、いわゆる普通の言葉でいえば礎石、もととなる石があって初めてそこから石を積んでいくはずです。その石垣が48度の傾斜であると。まずこういう石垣だったら私は戦争のとき簡単に登っていくんじゃないかと、そう思うわけですよ。まあ第II期は、50度から70度とされています。そして第III期は70度というふうにされています。
また先ごろ,川崎市の友好都市である韓国富川市を訪れた友好市民訪問団に対して元恵栄富川市長から,エミレの鐘が川崎市に寄贈された場合には,礎石の寄贈を検討したいという提案があったと伺っております。こうした提案をぜひ設計に生かしていただきたいと思いますが,見解を伺っておきます。
このことに関連して元恵栄市長は,来年の友好都市提携5周年に向け,現在進んでいる国宝エミレの鐘のレプリカ贈呈に際し,鐘楼の礎石を提供したい旨,表明されました。ぜひ友好のあかしとして今回の提案を前向きにとらえるべきと思いますが,市長の見解を伺っておきます。──済みません,総務局長じゃありませんでした。市長にでした。 次に,介護保険制度について伺います。
このまちづくり委員会、研究会は、基本構想に掲げる市民主体のまちづくりを進めていく先導的役割を果たすことはもとより、自治会の活性化や新しい時代に向けた住民自治の礎石づくりにつながるものであります。 現在、三十八校区にまちづくり委員会、研究会が発足しておりますが、そのうち補助が終わったところが十カ所あります。
このまちづくり委員会、研究会は、基本構想に掲げる市民主体のまちづくりを進めていく先導的役割を果たすことはもとより、自治会の活性化や新しい時代に向けた住民自治の礎石づくりにつながるものであります。 現在、三十八校区にまちづくり委員会、研究会が発足しておりますが、そのうち補助が終わったところが十カ所あります。
例えば、アエルでもこんなりっぱなビルをこれだけの金をかけてやったんだと、やったぞというような、そのときのチームはだれとだれとだれというぐらいのことを残す、いわゆる礎石にその人のプランというのは残すべきで、特に設計者の名前、市長だけではなくて。そして将来、その方々が永久に永遠に市民から感謝をされ、そして褒めたたえられるような、そんな思いを込めてプランをつくっていただきたいと思います。
この御茶屋御殿跡は,施設の内容や規模などを記した絵図などの史料がないため,発掘された建築跡がどのような機能を持ったものか一切不明であり,復元が可能であるかが議論の中心でありましたが,他の御殿跡の史料を検証し,千葉御茶屋御殿建物の配置を考察し,発掘された礎石建物や掘立柱建物群などの復元は可能であるとの報告を得たところでございます。
築城期,第1次拡張期の主要な遺構は,自然の石でつくっております野面積みの高石垣でありまして,第2次拡張期の遺構は廃城直前の表書院殿舎の礎石や地盤地形や池泉──まあこの泉水ですね,であります。主な出土物は,かわらやくぎとおわんや皿などの日常の陶器類でありまして,かわらのうちには築城期の金箔がわらが数点含まれております。大半が第2次拡張期以降のかわらであります。
平成6年,昨年の8月19日,町内会長ほか地元代表2名と岡山市,地権者などの関係者によって立会が行われましたが,礎石の確認をしたままで,その後明確な境界設定をしていないと,こういうふうに思わざるを得ません。したがって,同所の市道面での境界設定がその後されたかどうか,当局の御見解を伺います。
乙子の古老にお聞きしますと,乙子山の上には丸い花崗岩がたくさんあり,中には少したたいて一面を平らにしたものもあり,とりでの柱の礎石にしていたのではないかとの説であり,私も見せていただきました。山上の石は,それぞれに引きずり落として庭石などに使われているとのことでありますが,土塁の一部は残っているようであります。
さらに、今回の発掘調査で、広大な領域を持った寺院の本堂跡と見られる礎石群や膨大な量の石積み群が出土をいたしております。これらの遺構の中には精巧な石組みや玉砂利、そしてまた九州では太宰府にしかないと言われるせんを備えておるところでございまして、平安時代の山岳密教寺院の遺構がほぼ完全な形で残る全国でも例の少ない遺跡でございます。