静岡市議会 2022-09-03 令和4年9月定例会(第3日目) 本文
昭和44年に、安倍郡6か村が静岡市に吸収合併されましたが、明治、大正、昭和へと時代変遷する中で、それぞれの地域の氏神様の祭事など、お神楽などもその1つですが、どれをとっても特有の山村文化が伝承されております。井川の田代町内では、諏訪神社のヤマメ祭りの伝承に努めておりますが、少子高齢化どころか子供がいない高齢化社会で、神社の氏子たちが努力しております。私もその1人です。
昭和44年に、安倍郡6か村が静岡市に吸収合併されましたが、明治、大正、昭和へと時代変遷する中で、それぞれの地域の氏神様の祭事など、お神楽などもその1つですが、どれをとっても特有の山村文化が伝承されております。井川の田代町内では、諏訪神社のヤマメ祭りの伝承に努めておりますが、少子高齢化どころか子供がいない高齢化社会で、神社の氏子たちが努力しております。私もその1人です。
現在、法務局にある地図は、明治時代に地租改正によってつくられた図面を基に作成されたもので、土地の位置や形状の概略を記載したものにすぎず、土地の境界も不明確であります。地籍調査を実施することで土地の境界を座標化し、地籍簿や地籍図が法務局に登記されます。正確な土地の情報が整備されることで、社会資本整備や土地の取引を円滑に進めることができます。
まず、安倍川橋の歴史を振り返りますと、初代は安水橋という名前で明治7年に木造の橋で架けられました。2代目が明治35年に木と鉄との混合の橋として架けられ、3代目が現在の安倍川橋として大正12年に鋼鉄製で架けられております。初代安水橋ができる前は、東海道府中宿の玄関口として旅人を背負って川を渡る徒歩渡しがありました。
その具体的な企業でありますけれども、明治安田生命、大塚製薬、天神屋、これら企業などを考えておりまして、現在調整中でございます。また、それ以外にも市のイベント事業に貢献していただいている企業など、そういったところも今、調整中でございます。
また、本市には、鎌倉時代、聖一国師が宋から持ち帰った茶の実をまき、江戸時代に家康公が駿府城で茶の湯を楽しみ、明治時代には今や日本茶の代表種となった、やぶきた茶の発見というお茶の歴史があります。これら本市のお茶が持つストーリーを独自性と考え、PRを強化してまいります。 まず、来年開館する静岡市歴史博物館では、本市におけるこれまでの茶産業の発展の歴史を紹介する展示を常設します。
ハワードの田園都市構想が明治の終わりに日本で紹介されて、渋沢栄一らによって、東急電鉄の前身の田園都市株式会社というのが設立されたのが1918年、今から103年前です。当時は生物多様性という言葉はなかったかもしれませんけれども、渋沢栄一が自然と都市の両方の長所を併せ持つ理想のまちを夢見ていたのは間違いありません。 一方の静岡市、市街地のすぐ近い場所まで広大な緑があります。
この企画は、明治安田生命に応援をいただきましたが、明治安田生命は全国道の駅連絡会の特定賛助会員で、全国の道の駅で健康増進をテーマとした活動を行っており、本企画もその一環となっております。当日は120名の参加があり、駿府ウエイブの案内で、旧東海道宇津ノ谷の集落や蔦の細道等を歩きながら歴史や文化を学んでもらいました。
親権という言葉自体に、親が子を思いどおりにする権利というニュアンスがあり、これが戦前の明治民法下で、戸主が家族を支配していた時代の名残として現在まだ残っているという状況があります。戦後、この民法改正という点で、そのまま残ってしまったということでありますけれども、この親権という用語自体についても、その定義や用語の見直しが必要だという点で多くの研究者も提起をしているところであります。
これは、戦前の明治民法下での戸主が家族を支配していた時代の名残と。結局、この条文について、戦後、民法の改正ということがあったときに、これがそのまま残ってしまったという経緯があるわけであります。 子供の人権を全面的に保障している国連の児童権利条約、先ほども出ておりますけれども、この精神にも、結局この818条というのは相反するというふうに言えるわけであります。
また、次世代に向けて本市の歴史を正しく伝えるため、近現代の戦争も含め、明治から昭和にかけての今の暮らしに直接結びつく資料の収集、保存も継続して行っていきます。この施設を通して歴史を学び、訪れる人が平和に思いをめぐらせる機会を創出してまいります。
その後、東海道の宿場町として栄え、明治、大正、昭和初期には皇族、政財界、文化人の保養地、別荘地として名をはせました。 どんなに歴史が変化しようとも、そこには変わらず清見潟という磯や浜が住民の暮らしとともにありました。
明治維新後に江戸から駿府に移住してきた旧幕臣たちが生計を立てるため竹細工を始めてから、産業としての基礎を固め、輸出品として多くの注文を受けたようで、明治6年には日本の特産品として鳥籠や菓子器などがウィーンの国際大博覧会に出品。以降、日本を代表する輸出品として海外の脚光を浴び、随時その発展を重ねてきている伝統工芸品であります。
また、6月には包括連携協定の締結をしております明治安田生命が主催をする1,000人規模の健康に関するイベントにも出向きまして、PRを行う予定でございます。
それで、駿府ウエイブの皆さんがいろんな形で、観光案内で幾つかテリトリーをつくってやっているんですけれども、例えば、その伝統産業というか地場産業の職人のところもその案内の対象にしてつくったりしているという現状と、それから、NPO助け合いネット静岡という市民団体が、今川、家康、慶喜というこの3つの軸で行くんだけれど、静岡市がその江戸時代の職人、浅間神社も含め、そういう職人の流れが明治維新以降に、漆器の問題
また、景品等につきましても、明治の文明開化をイメージするような形の何か、牛鍋とかそんなようなものを考えたりして、今、構築しようとしているところでございます。
51 ◯増田戸籍管理課長 沓谷霊園ですけれども、設置が大正ではなくて明治34年、124年前です。ですので、区画も墓石も大きさがバラバラです。なおかつ、谷津山の斜面を造成して造ったところなので、非常に園内も歩きにくい、そんな霊園になっています。
本市の名誉市民であられる芹沢けい介氏は、1895年、明治28年に葵区本通で生まれ、1956年、昭和31年、型絵染で重要無形文化財保持者、人間国宝となり、また文化功労者であるとともにフランスの芸術文化勲章も授与されています。本市の名誉市民には昭和42年になられました。そして、昭和56年に芹沢けい介美術館が開館となりました。
御存じのように、明治維新があって、それから、日本中で5つの開港場が開かれました。でも、そのときに清水は外されたんですよね。それで、明治30年代になってようやく清水が重要港湾になって、それで初めてそこからお茶の輸出が始まると。
徳川宗家、徳川記念財団の資料には、徳川家康の資料はもうほとんどなくて、幕末から明治、徳川慶喜公から家達公に引き継がれた、その宗家の資料が主になっています。静岡藩に係るもの、それから明治維新後の資料等となっています。 ですので、歴史文化施設における展示の場所は、近代、現代の部分になります。
渋沢栄一翁は武蔵国の農家に生まれ、徳川慶喜公の幕臣として仕え、諸外国に渡航し学び、明治政府の行政官として執務し、そして、野に下って数多くの企業・団体を創業した偉人です。