熊本市議会 2009-03-09 平成21年第 1回定例会−03月09日-04号
国である熊本に帰った横井小楠は大政奉還後の新政府に招かれましたが、後に京都で暗殺され一生を終えます。ペリーの来航やイギリスなどからの条約締結の要求、尊王攘夷運動の広がりの中で、世界的な状況の中でとらえ直そうとした横井小楠は、残念なことに肥後藩では危険視されたのか重用されませんでした。
国である熊本に帰った横井小楠は大政奉還後の新政府に招かれましたが、後に京都で暗殺され一生を終えます。ペリーの来航やイギリスなどからの条約締結の要求、尊王攘夷運動の広がりの中で、世界的な状況の中でとらえ直そうとした横井小楠は、残念なことに肥後藩では危険視されたのか重用されませんでした。
武家風書院づくりの双璧である京都二条城二の丸御殿は、260年に及ぶ江戸時代に終わりを告げる大政奉還が行われた、文字どおり歴史の舞台であったわけですが、名古屋城本丸御殿も、昭和5年に宮内省から下賜された後、直ちに城郭建築として国宝第1号に指定されるなど、大変貴重な財産であったわけであります。
例えば大政奉還をしてからちょうど140年、つまり1867年に大政奉還をして、時の殿様であった徳川慶喜、これは大変なる決断をされたなあと、そして今日のまさにこの日本の国の夜明けをそこから切り開いてくれたなあと、こんなふうに思っておるわけであります。自来、今ここ140年。明治天皇の教育勅語、私は思想とか信条、そういうことを何もどうこう申し上げるつもりはありません。
奉還町商店街は,明治初期に池田藩の武士が大政奉還により手にした奉還金を元手に店を興したのが始まりで,奉還町で最初に店を出したのは,奉還金にちなんで奉還もちというもちを売り出したもち屋だそうであります。その後も,奉還金を手にしたリストラ武士たちが次々と移住し,武士が出店したということで,物珍しさも手伝って繁盛していたそうでございます。
歴史は繰り返すと言われますが、徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年から徳川慶喜が大政奉還する1867年までの264年間に何度も改革が行われ、特に八代将軍徳川吉宗公の時代に享保の改革が行われ、倹約令が出され、支出の抑制が図られ、吉宗公自身も公私ともに費用の節約に努められたとあり、幸山市長の交際費の削減と同様かと思われます。
歴史は繰り返すと言われますが、徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年から徳川慶喜が大政奉還する1867年までの264年間に何度も改革が行われ、特に八代将軍徳川吉宗公の時代に享保の改革が行われ、倹約令が出され、支出の抑制が図られ、吉宗公自身も公私ともに費用の節約に努められたとあり、幸山市長の交際費の削減と同様かと思われます。
私が思うのは、今この機ですね、この機も、盛衰興亡というか、国はどの国も衰えたり盛んになったりということが長い歴史の中であることは言うまでもないわけでありますけれども、今そんなところに少しあるのかなという思いで、私たちも、一議員として、何というか、申しわけないなという思いもいたしているわけでありますけれども、今、私こうして振り返ってみて、ちょうどことしの10月14日をもって明治136年、1867年大政奉還
23: ◯佐藤正昭委員 1867年ですかね、大政奉還。廃藩置県から130年以上も経過しましたけれども……。 基本的な市町村の枠組みというものがあります。それが昔は、そのころというのは一番早い乗り物というのは馬だったのかなと、そして飛脚が走っていたり徒歩で移動していた。しかし、今は車であり、飛行機であり、新幹線であるという、こういう時代になったわけであります。
ひょっとして、というのは1867年、まさに無血の大政奉還、267年続いた徳川幕府第15代将軍慶喜公が本当に、さらにはさかのぼれば鎌倉時代からすると700年という幕府の政権が続いたわけでありますから、それを無血で奉還をしたという中から135年、ここに至ってきて、その中で、坂本竜馬というまさに桂浜のあの海岸に堂々とその威風、銅像が立っておりますが、非常に海にこだわった、こういう経緯があります。
次に歴史の検証ですけれども、来年はNHKの大河ドラマが徳川慶喜公、最後の15代将軍徳川慶喜公ということで、この徳川慶喜公というのが私は全然かかわりはないんですけれども、先般図書館で慶喜公のひ孫さんですか、講演を聞いて、もちろん15代将軍というのは最後は大政奉還して駿府に蟄居したわけですから、お隣の静岡を中心にということで、それじゃ静岡だから余り、ますます自分には縁がないのかなと思って、いろいろ調べてみましたら
この徳川慶喜を主人公としたNHK大河ドラマが来年放映されますが、このドラマでは徳川 300年の崩壊と大政奉還という大きな時代の変革の中で、慶喜がこうした時代と格闘した青年期における人間像を描くものであり、残念ながら静岡市での隠居生活は描かれないと聞いております。
明治維新は1867年の大政奉還,王政復古の大号令発令とほぼ同時期にされたとされております。だが,このころ名は明治と変わったものの,国内外は混乱の中にあった。そうした中で,新政府は中央と各藩という政治の二重構造を刷新するため廃藩置県を実施し,藩をなくし,藩主にかわって新しく知事を置く。しかし,これには抵抗があった。新政府と,官僚といっても,もとは武士である,恩も義理もある。
さて,今から150年前に,それまで300年にわたって続いた徳川幕府が15代将軍徳川慶喜の時代に終わり,大政奉還が行われたわけであります。すなわち大政が幕府から天皇に返されたわけです。その後明治4年に廃藩置県が行われ,全国の藩がなくなり,地方行政上の県が置かれたわけであります。 この際に,藩の祿高の高い殿様に応じて公候子爵男爵となり貴族院議員ができ上がりました。
御承知かとも思いますが,奉還町は明治維新の大政奉還,廃藩置県の断行により明治4年武士が奉還金を元手に集団移住,商売を始めたのが起こりであります。思えば岡山師団,10連隊,48部隊と続く軍国時代の繁栄,戦災を免れ,岡山県庁が今の県立工業高校の地へ移され,岡山西銀座と呼ばれた戦後10年間の全盛時代はあったものの,県庁移転,国体道路建設で地盤沈下が始まり,今や全く近代化のおくれた奉還町であります。