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平成28年冬季五輪招致・スポーツ振興調査特別委員会−06月20日-記録

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  1. 札幌市議会 2016-06-20
    平成28年冬季五輪招致・スポーツ振興調査特別委員会−06月20日-記録


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    平成28年冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会−06月20日-記録平成28年冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会  札幌市議会冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会記録            平成28年6月20日(月曜日)       ────────────────────────       開 会 午後4時     ―――――――――――――― ○長谷川衛 委員長  ただいまから、冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会を開会いたします。  報告事項は、特にございません。  それでは、議事に入ります。  なお、本日は、当初の招集案件に加えまして、参考人出席要請についてもお諮りいたしますので、よろしくお願いいたします。  最初に、冬季オリンピックパラリンピック招致についてを議題といたします。  本日は、日本パラリンピアンズ協会の永瀬 充理事、パラノルディックスキーチーム日本代表荒井秀樹監督参考人としてお招きしております。  本日の委員会の進め方としては、最初に永瀬氏と荒井氏にお話しいただいた後、各委員から質問を受けたいと思いますので、よろしくお願いいたします。  委員会を開催するに当たりまして、一言、ご挨拶を申し上げます。  参考人のご両名におかれましては、大変ご多忙な中、本委員会への出席にご快諾いただきまして、まことにありがとうございます。心よりお礼を申し上げます。  本日の議題であります冬季オリンピックパラリンピックの招致につきまして、本市は、2026年大会の招致に向けて、本年4月に開催概要計画案を策定し、現在、市民からの意見募集を行いながら国やJOCへの提出に向けた準備を進めております。また、本市議会におきましても、招致に関する報告を受けての議論や、道外のオリンピック関連施設、障がい者スポーツに係る取り組みなどの調査を行ってきたところでございます。  本日は、選手や監督としてパラリンピックに出場されたご経験を踏まえたお話を伺いたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。  それでは、ご両名にお話をいただきますが、私から、改めて参考人のご紹介をしたいと思います。  最初に、永瀬 充さんですが、15歳のときに、神経の難病を患い、歩行が困難となるも、旭川での入院生活中にアイススレッジホッケーと出会い、長野大会を含め、4度のパラリンピックに出場し、バンクーバー大会では銀メダルを獲得されております。現在は、日本パラリンピアンズ協会理事として、障がい者スポーツの普及に取り組まれております。  次に、荒井秀樹さんですが、パラノルディックスキーチーム日本代表監督として選手の強化に取り組まれ、長野大会以降、5大会連続メダリストを輩出されております。現在も、監督として選手の指導・育成に取り組まれております。
     それでは、参考人からお話を伺いますが、ご説明の際には着席していただいたままで結構でございます。  最初に、永瀬参考人から、よろしくお願いいたします。 ◎永瀬充 参考人  皆さん、こんにちは。  ただいまご紹介していただきました永瀬 充です。  私は、今、旭川に住んでおり、この北海道で育ってきました。そういった中で、札幌が2026年招致に向けて動き出したということで、私自身もすごくうれしく思っております。  きょうは、市議会特別委員会参考人という形で呼んでいただきまして、本当にありがとうございます。私自身は、呼んでいただいたから来たというよりは、いろいろなことを伝えたいという思いで来ました。ただ、限られた時間なので、ポイントは大分絞られてくるかと思いますが、私自身にとっても、この北海道でパラリンピックができるというのは夢でもあります。その夢が現実になるかどうか、そういう強い思いでずっと考えてきました。  きょうは、幾つか映像を見ながらお話ししたいと思っております。その中で、私自身のいろいろな経験を踏まえ、パラリンピックとはどういうものなのか、今、レガシーという言葉が出ておりますが、私が考えるレガシーとは何なのか、そして、札幌でやるということはどういうことなのか、そんなお話をしていきたいと思います。  まず最初に、2010年のバンクーバーパラリンピックのときの試合の映像を見ていただきたいと思います。  日本チームは、それまでの3大会、ずっと予選で負けてベスト4に行けなかったのですが、この大会で初めて行けました。準決勝の相手は、地元のカナダです。カナダは、アイスホッケー王国で、オリンピックでは男子も女子も金メダルをとっていて、完全アウエーで開催された試合です。  日本は、16年間、カナダ相手に試合をして、2002年のソルトレーク大会のたった1回しか勝ったことがありません。試合前に、監督から、ずっと負けてきて、前回も負けたけれども、この1試合だけは絶対に勝とう、勝ってメダルをとって帰ろうとロッカールームで話しながら試合に臨みました。  では、試合の映像をお願いします。 〔 映像上映 〕  日本チームは白のユニフォームになります。私のポジションはゴールキーパーで、背番号は39番です。  細かいですが、ベンチも氷になっています。  このゴールキーパーが私です。  ルールは、スレッジと呼ばれる特殊なそりとスティックを両手に持っている以外は、基本的にアイスホッケーと同じです。  カナダのホームなので、点が入ったときの盛り上がりが物すごいです。  アイススレッジホッケーは、15分掛ける三つのピリオド、トータル45分で試合をします。  私のお気に入りのヘルメットです。アイスホッケーは、ゴールキーパーだけは好きな絵を描けるという特権があります。  ちょうど試合の中盤です。当時キャプテンの遠藤選手、彼は生まれつき両足がない状態でした。彼は、この数年前に、両手だけで1人で富士山に登りました。  この試合、最大のピンチです。ヘルメットではじきました。立っていると腰の位置ですが、僕らは座っているので、頭がゴールの真ん中になります。  これは、最後の第3ピリオド、左上に出ていますが、残り1分半です。  ただ、まだ1分13秒あります。ホッケーは数秒で点が入ってしまうので、我々当事者はまだまだという心理状態です。  正直、練習でこんなシュートは見たことがありませんでした。  残り30秒を切りました。  カナダチームは、ゴールキーパーをベンチに下げて、フォワードを前に入れています。  カナダは、最後は捨て身の6人攻撃をしてきました。ただ、それが自殺点になってしまったので、あの瞬間、会場中が凍りついていました。今、カメラなのでアップですが、会場の人はオウンゴールとわかっています。  日本アイススレッジホッケーにとって初のメダルですが、日本のパラリンピック団体競技としても初の銀メダルです。  きょうは、今、映っていた銀メダルを持ってきましたので、ぜひ、見てください。  この後、レジュメを見ながら説明したいと思います。  これは、2010年のバンクーバー大会です。今までもう一つのオリンピックと言われていたものが、オリンピックパラリンピックで一つという考え方になりました。  その顕著なものとしては、このメダルです。初めて同じデザイナーがメダルをつくりました。オリンピックは丸く、パラリンピックは四角と若干の違いはありますが、見た感じがほとんど同じになりました。しかし、それ以前の大会は、何の大会か全くわからないようなメダルでした。  裏面を見ていただきたいのですが、点字が入っています。オリンピックは入っておりませんが、パラリンピックは、視覚障がいの選手もいるので、点字が入っています。  そういった中で、今までは別々だったオリンピックパラリンピックがいろいろなところで同じ方向に行って、同じようなメダル、同じようなセレモニーにしていきましょうということで進化してきました。  冬の大会の社会的インパクトとしてはそこが大きかったのですが、その後の2012年のロンドン大会では、スーパーヒューマン、超人という言葉がロンドンまちじゅう、イギリスの国中を駆け回って、パラリンピックに出るアスリートはスターとなって子どもたちやいろいろな観客が応援してくれました。  そして、ソチ大会です。字を見ていただくと、impossibleとありますが、iとmの間にスペースをあけると「アイムポッシブル」になります。こういったところで、不可能を可能にしようということがソチ大会の大きなキャッチフレーズになりました。これは閉会式で出てきましたが、impossibleという大きな文字が出てきて、動いてポツが入った瞬間に、私は可能だ、そういうことを社会に訴えかけるというのがパラリンピックであります。  そして、今、東京に向けては、Be The Heroということで、アニメの作家の方などと協力しながら、格好いいイメージを伝えていこうということで、いろいろな映像がインターネットで公開されています。そういった中で、札幌ではどういう社会的インパクトを与えるのかということも我々が考える大事なところだと思います。  次に、私が考えるレガシーです。  車椅子や障がいのある子どもたちは、普通に公園で遊んだりできているのか、学校の体育の授業はどうしているのかと考えたことがあるでしょうかというところを皆さんに大きく問いかけたいと思います。  私は、高校1年生のときに病気になりました。CIDPという珍しい難病です。足の筋肉が落ちるのですが、見てわかるとおり、今でも手の震えがあって、手の筋肉も落ちたり、感覚も全身が鈍くなる進行性の病気です。私は、スポーツが大好きで、中学、高校とバスケ部に所属していて、高校時代はバスケで青春を送るぞという思いで入学しましたが、1年生の夏休みが終わったころから徐々に足に異変を感じて、いろいろな病院に行った結果、難病でした。入院していろいろな治療をしたのですが、最終的に治らず、主治医から、永瀬君の病気はもう治らないと言われました。すごくショックでした。スポーツがすごく好きでしたし、バスケがしたかった、それがもうできないという中で、自分はそこからの4年間を空白の4年間と呼んでいますが、感情的に記憶がないのがその時代でした。  子どもというところでぜひ伝えたいのは、体育の授業やスキー授業です。私は、体育の授業やスキー授業ができませんでした。普通の高校だったので、マラソン大会体育大会は見学しなければいけませんでした。スキーも、子どものころから好きで、それなりに自信がありました。でも、スキー授業は、朝からバスに乗ってみんなで山に行くのですが、楽しくみんなが滑っている間、私はロッジでひとりで待ってレポートを書いていなければいけません。お昼休みには、みんなわいわいと戻ってきます。楽しそうだなと、ずっとそれを見ているしかありませんでした。  そういった思いをしている子どもたちが北海道にもたくさんいるのではないかと思いますが、それを変えていくのがパラリンピックレガシーだと私は思っています。逆に、パラリンピックができなくても、そういった子どもたちスポーツをできるようになるだけでも物すごい影響があると思います。  ただ、障がいのある子どもたちスポーツをしたいと思ってもなかなか難しいと思いますし、皆さん方も応えるのが難しいと思います。札幌でパラリンピックをやったとき、車椅子子どもたちが、私も、僕もパラリンピックに出たいんだ、お父さん、おじさん、出たいんですと言われたときに、大人は何と答えられるかなと。パラリンピックを見に行った子どもたちが僕もやりたいと言ったときに、周りの大人が何と言えるか。お父さん札幌ドームに障がいのない子どもを連れて見に行って、その子どもが僕も野球がしたいと言ったら、じゃ、帰りにグローブとボールを買ってキャッチボールをしようかとなると思います。しかし、障がいのある子どもだったらどうなるか。それが障がいのある人たちスポーツの現実だと思っています。もちろん、日本はまだまだ進んでいないと思いますが、それをやっていくのがパラリンピックの機会だと思います。  そこで、二つほど映像を見ていただきたいと思います。カナダアイススレッジホッケーの現状です。 〔 映像上映 〕  これはトリノのときの特集です。このときは10代の選手が3人いました。彼らはいつから始めたのかというと、突然始めたのではなくて、幼稚園や小学校低学年からです。小さい子どもたちホッケーの大会です。この子は、小学校に入るか入らないかぐらいです。こういう子どもたちがたくさんいて、何チームもあって試合をしています。手前のお子さんは、障がいが重度なので、ベビーカーのように後ろで押せるようなサポートをして、みんなで楽しめる機会を提供しています。その結果、金メダルがとれます。  しかし、日本は、すぐにできる人を探してきて代表チームに入れる、選手がいなくなったらまたすぐにできる人を探して代表チームに入れる、そういう中で、今、選手がほとんどいなくなってしまいました。  もう一つ、スキーの映像を見てください。 〔 映像上映 〕  これは有名なニュース番組ですが、20年以上前のアメリカスキーの状況です。スキー場がどうなっているか、スキー場のスタッフとか、スキーを提供できるプログラムがあります。20年以上前にスキー場バリアフリーになっています。  乗っている子どもは、障がいが重いので、補助輪のような補助スキーがあったり、後ろからロープを引っ張ることでスピードをコントロールしています。もし私が高校生のときにこれがあったら、できたのかなと思います。  これは、補助スキーがなくなったので、ちょっと腕力を使います。  アメリカカナダでは、こういった状況の中でスポーツを楽しんで、世界を目指しています。一方、正直、日本はまだまだついていけていない状況があるので、我々、先輩である選手としてもやらなければいけないだろうと思っています。  次に、レジュメの3番、4番、5番、特にバリアフリーという部分に関してお話をしたいと思います。  日本の中でバリアフリーについていろいろなことを考えるということで、私はいろいろな会議に呼ばれますが、基本計画ができてから呼ばれるのです。そうすると、その基本計画をやり直してくれと言うわけにはなかなかいきません。車椅子トイレをつくるのに、この柱をとってくださいと言うことはできないのです。そういうときに何をするかというと、絵や字を変えるぐらいしかできないのが今までの日本のバリアフリーで、どうしても後づけになってしまいます。  そういった中で、建物や大会のプログラムを設計するときに、最初から車椅子の視点だったらどうなのかなと考えていくことがバリアフリーには大事だと思います。特に、パラリンピックに関しては、IPCの基準があります。日本にはバリアフリー法があるではないかと思うかもしれませんが、それよりもはるかに厳しいです。  ちなみに、観客席の1%以上が車椅子席でなければなりません。しかし、札幌ドームは4万人ぐらい入りますが、車椅子席は100ちょっとです。少なくとも400以上は必要で、かつ同伴者の席が必要、かつ目線が普通に見えなければいけません。前の人が立ち上がったときに目線がかぶってしまってはいけないということで、少し段が高いです。そう考えたときに、札幌ドーム自体も物すごい改修が必要になってくると思います。改修どうこうというより、早い段階からそういう視点を入れて考えていくことが大事だと思います。  実は、東京のパラリンピックに関しては、そこが不十分でした。国立競技場基本計画には全くそこがなく、後になってから気づいて、今、IPCのアクセシビリティーガイドラインを必死に勉強しています。ですから、札幌はその辺の前例を見ながら設計していくといいものができると思います。IPCは、量だけではなく、質も求めてきます。  そして、先ほどお話ししましたが、スレッジホッケーの会場はベンチも氷になっています。これはパラリンピックだけですが、そこは、選手でないとわかりません。表から見てもなかなかわかりません。先にアイスリンクをつくって、後でパラリンピック仕様に変えようと思っても、そもそもベンチが凍る設計にしていないとできないという問題もあります。  そして、選手村に関しては、普通のアパートやマンションになるかと思いますが、そこはバリアフリー法の適用外です。ですから、普通の一般的なユニットバスやトイレになると、海外の大きな選手の車椅子は入れません。特に、日本のドアの幅は、日本人用でどうしても狭いため、そういったところをどうするということも出てきます。また、選手は、期間中、自由にまちに遊びに行きます。では、雪が降る札幌で選手村からひとりで自由に行けるかということもあります。せっかく札幌に来たので、選手たちにもまちを楽しんでもらうことができればいいと思います。  それから、6番の歴史的に見るパラリンピックと障がい者福祉施策については、別紙を見ていただきたいのですが、長野パラリンピックのときにバリアフリーが大きく言われました。長野パラリンピックの数年前に、バリアフリー法、旧ハートビル法ができました。そこで、日本の建物が大きく変わりました。今、東京大会に向けては、国際条約差別解消法ということで、合理的配慮をどうしようとソフト面がうたわれています。また、10年後には、時代の流れで、社会の中のいろいろなところで福祉施策パラリンピックが関連してくると思います。  最後に、7ですが、パラリンピック認知度調査がされました。それによると、今の日本では98%以上の人がパラリンピックのことを知っていますが、実際に見たことがある人は、5%以下です。きょう、たくさんの議員の方々がいらっしゃいますが、ぜひ実際にパラリンピックを見ていただきたいです。実際に見て、どういう大会にしようかを考えるのが大事だと思います。認知度ということでは、これまでパラリンピックに出場した選手が札幌に何人いらっしゃるか、何名のメダリストがいるか、そのメダリストがどういう対応を受けてきたのかなど、批判するわけではありませんが、これまでの札幌がどう取り組んできたのかというところをしっかり見直してほしいと思います。  これから、リオに出る札幌の選手もいます。今、東京では、オリンピックパラリンピックの後にパレードを一緒にするという話も出ています。その中で、札幌はどうするのかというところは、北海道も含めて大事だと思います。  名称とありますが、2016年に東京が立候補したときに、最初は、組織委員会オリンピックという文言しか入っておらず、「・パラリンピック」という文言がなかったのです。実は、途中から潜り込みました。進めていく途中で、誰かが、入れなきゃと言って後づけで入れました。そういったことが原因ではないと思いますが、2016年のときには東京は負けました。そういう反省を踏まえて、2020年の立候補のときには、パラリンピックの選手をどんどん中心に入れて進めていったということが東京大会であります。  下には、報奨金の違い、仕事の違いが書いてあります。社会におけるパラリンピアン、オリンピアンの違いはまだまだあります。全く同じにはならないと思いますが、それぞれの選手がどういう現状でトレーニングをしているのか。特に、パラリンピック報奨金が出たのは、冬はバンクーバーからです。ホッケーメダルをとれるかどうかが微妙でしたが、銀メダルをとった15人分の予算がふえたのでちょっと大変だったかなと思います。ただ、その前の北京大会は、実は募金です。金メダルをとった車椅子テニス国枝選手みずからが街頭に立って報奨金の募金をしていました。オリンピックにはいろいろな予算がついて、選手を粗末にしないですよね。錦織選手が募金に立つということはないと思います。パラリンピックオリンピックにはそこまでの違いがあります。そういったことを踏まえながら準備をしていけばいいと思います。  私の思いが強く、厳しいこともお伝えしたと思いますが、私の夢でもあるので、一緒になってオリンピックパラリンピックを実現したいと思います。パラリンピックを知っている方は少ないので、どんどん私を使っていただきたいと思います。  最後は、ソチのときのハイライトを見ていただいて楽しい雰囲気で終わろうと思います。夢ではなくて、これを札幌で実現したい、実現しましょうというところです。 〔 映像上映 〕  以上です。どうもありがとうございました。(拍手) ○長谷川衛 委員長  永瀬参考人、どうもありがとうございました。  続きまして、荒井参考人、よろしくお願いいたします。 ◎荒井秀樹 参考人  皆さん、こんにちは。  監督をしている荒井です。  今、永瀬さんからは、選手の立場で見たパラリンピックへの思いを伝えていただきましたが、僕からは、パラリンピアンをどのように発掘して、育成して、強化してパラリンピックメダルをとらせていくのかという強化の立場、いわゆるスポーツをする側からのお話を最初にします。それから、選手たちを支える人たちがいますので、支えるということについても少しお話をして、最後に、パラリンピックを見る側はどのような視点が必要なのかということをご説明したいと思います。  パワーポイントで説明していきたいと思います。  これは、岡山県の新田佳浩選手です。バンクーバーで二つの金メダルをとりました。なぜ、彼を最初に紹介するかをお話しします。実は、私がパラリンピックのコーチを引き受けたのは1996年です。98年が長野パラリンピックでした。その2年前に、コーチとして長野パラリンピックの選手の強化をしてもらえないかという依頼がありました。私はジュニアの指導をしていましたが、いいですよ、障がいのある方たちも一緒に見ましょうと返事をしました。ところが、当時の厚生省の長野準備室の方が、実は、荒井さん、長野のパラリンピックに出る選手がまだいないのですと言うのです。僕は、そのときに、えっと驚きました。オリンピックは、94年のノルウェーのリレハンメルで、ノルディックコンバインドやノルディックジャンプとかで活躍して、次は長野だと日本中のスキー関係者が盛り上がっていたときに、98年の長野のパラリンピックには、当時、まだ選手がいませんでした。  永瀬君も一緒だったと思います。厚生省が、パラリンピックに出てみたい人はいないかと全国に呼びかけて選手を集めてくれました。都道府県の福祉局が選手を集めて、クロスカントリーで言えば56名が手を挙げてくれました。ただ、クロスカントリーの経験者はほとんどいませんでした。クロスカントリーだと言っているのにアルペンスキーを持ってきた方もいました。  下は10代、上は60代と、非常に高齢の方もいました。視覚障がい者には、鈴を鳴らして、ちりんちりんとリードするのだよ、こうやってガイドするのだと僕に教えてくれました。そうか、視覚障がい者はこうやってリードするのかと思いました。  96年には選手がいませんでしたが、スウェーデンのスンネというところで障がい者スキー世界大会がありましたので、見に行きました。そうしたら、視覚障がい者がガイドとともにトップスピードで走っているのです。下りなんかでは、よく聞いてみると、右のターンのときには1時、2時と時計の針を叫んでターンの曲がりぐあいを指示していました。3時、3時と言ってヘアピンを曲がっていったり、あるいは、10時、11時と指示して滑っていくわけです。  そのときのノルウェーの監督は、ミクレブストさんという全盲の方でした。盲導犬を連れてコース脇に行って、おまえらガイドたち、もっと間隔を詰めろ、もっと声を大きく出してリードしろというようなことを言っているのです。一方、日本は、選手もいなければ、健常者の僕に選手を育成して長野パラリンピックに出てくれないかというのが当時の状況でした。  そのとき隣にいた、長野オリンピックパラリンピックの競技委員長をやる和田光三さんという方が、荒井ちゃん、そういえば、全中に片腕の中学生が出ていたぞと教えてくれたのです。和田さんは、岐阜県の全中の大会に行ってTDをやっていました。僕は、えっと聞いて、日本に帰ったらすぐにその子を集めようと思いました。  僕は、北海道旭川市の出身で、クロスカントリースキーをやってきました。北海道や東北から片腕の中学生が出たらニュースにもなるはずなのに、僕は知らないので、そっちの子じゃないなと思いました。また、当時、僕は関東でもやっていましたから、関東の子でもない、多分、西日本の子だと思いました。それで、スタート係の先生に聞いても、いたけれども、誰だかわからないと言うのですね。僕は、リザルトを見てもプログラムを見ても名簿を見てもわかりませんから、宿のおばちゃんに電話をしました。宿に電話をすると、うちの宿に泊まっていましたよということがわかりまして、岡山県でした。それで、岡山県のスキー連盟に電話しました。そうしたら、西粟倉中学校の新田佳浩君ですと教えてくれたのです。  それで、お父さんは西粟倉の農協に勤めていましたので、僕は喜んで行って、2年後にパラリンピックがあるから佳浩君を何とか出してもらえないかと言ったら、断られました。なぜかというと、うちの佳浩を障がい者として育てていないと言うのです。おじいちゃんとおばあちゃんが農家で、コンバインで稲刈りをしているときに、3歳の彼がいたずらして左手を持っていかれたそうであり、家族がこの子を障がいのある子として育ててしまうと、おじいちゃんやおばあちゃんにずっと負い目を与えてしまうから、障害者手帳はもらうけれども、うちでは一度も使ったことはないんですよということであり、ソフトボールやスキーも小学生からずっとやっていました。そういう子でしたので、説得して、彼が入ってきてくれるわけですね。  これは、高校1年生のときの秋田の国体です。彼は健常者でずっとやっており、国体の少年の部に出たときのフォームです。このときに、皆さんもごらんになってわかるように、障がいのある左手をほとんど動かしていないのです。クロスカントリースキーは、左右のバランスがとても大切な競技です。いかにグライドさせていくかが重要ですが、ほとんど使っていません。  だから、初めての合宿で新田君が前に座ってご飯を食べているときに、新田君、その左手をちゃんとテーブルに上げて食べたほうがいいよ、茶碗を持てないかもしれないけれども、茶碗を持つようにして食べてごらん、そうすれば左手の可動域も広がっていくので、もっとトレーニングをしていこう、君がもっと左手を使うようになれば必ず早くなるよと言って選手を育てていくわけです。  パラリンピック選手たちには、具体的に数値目標を示してあげることがとても大切です。ただ頑張れ、頑張れではなくて、1キロ当たりのタイムは何分何秒で走っているかを示してあげるわけですね。こういったことを続ける中で、具体的に3%アップだったら彼にこういうメニューを与えてやっていくわけです。  最終的に、バンクーバーが始まる前の年は、腹筋を1分間に78回もできるぐらいまで体幹を鍛えることができたわけです。彼は片腕ですが、登山用のザイルをうまく使って懸垂もできます。何でもできます。このように、あらゆるものを生かして選手を強化していくわけです。こういったところがパラリンピックの強化で一番大切なことです。  先ほどお見せした高校生のときのフォームとはまるで違います。このように、バンクーバー金メダルをとる選手にまで成長させるのが、選手を支える僕たちコーチたちの役目になっています。  長野から実に12年、バンクーバー金メダルをとりました。ですから、札幌でオリンピックパラリンピックを招致して、やろうというときに、今から札幌にいる障がいのある子どもたちスポーツを楽しんでもらって、その中でこういった選手を地元からつくっていく、北海道からつくっていくことが僕はとても大切だと思っております。  一人の青年を紹介します。長野のときに手を挙げてくれた札幌に住んでいる長田君です。彼は、シットスキーを始める前は、札幌は雪が降ると車椅子では表に行けないので冬になるのが嫌なんだよねと奥さんと話していたそうです。でも、シットスキーを始めてからは、窓を見ながら早く雪が降らないかなというふうに変わるわけです。  車椅子の方たちがシットスキーを始めたり、冬の期間、外に出て体を動かすということは、決してパラリンピアンだけではなく、多くの障がいのある方あるいは車椅子ユーザーにとっては、いつまでも健康的で、いつまでも若々しくいられるアイテムだと思います。ですから、札幌でシットスキー選手たちが集う来年3月のワールドカップを僕はとても楽しみにしています。  彼は、バイク事故で脊髄を損傷して、背骨の7番、8番を骨折しました。脊髄損傷という障がいは、座位のバランスがどの程度悪いのかをごらんになってください。 〔 映像上映 〕  これはどれぐらいのバランスがあるかという映像ですが、ほとんど曲げられませんね。彼はLW10というクラスですが、手で支えないで座っていること自体がすごいのです。前傾をかけようとしても、前傾ができません。後ろに下がってくださいと言っても、大体これぐらいの可動域です。  脊髄損傷の障がいがある彼らは、腹筋、側筋、背筋をもちろん使えませんので、いかに世界のトップにするかが大切です。そこは、コーチだけではなく、一人一人のシットスキー用具を開発しなければいけません。残念ながら、北海道にはシットスキーを専門的につくるような企業はなく、ほとんど本州の車椅子メーカーに頼んでつくってもらっています。ですから、車椅子ユーザーの方が本当に自分の体に合ったシットスキーをつくるのであれば、東京まで行って、そこで体に合わせてつくってこなければいけません。ですから、今後は、ものづくりを利用して、スレッジホッケーのスレッジやシットスキーなど、パラリンピアンが使う用具を北海道でつくれないのかと思っております。  彼をどう鍛えるかというと、バーベルを持って懸垂のトレーニングをして、使える上腕にしていくわけです。  ちょっと見づらいですが、ここに手術の跡があります。ここにプレートを入れています。骨折しましたので、プレートを両方から押さえて、ボルトで背骨をとめています。ですから、前傾をかけたりできません。  これは、筋電図の試験をして、どういう筋力が使えるかというテストをしています。  長田君が日本人で初めてワールドカップで優勝したのは2004年でしたが、北海道新聞で大きく報道してくれました。  僕はパラリンピックの選手をたくさん知っていますが、似顔絵になったのは長田君だけだと思います。北海道新聞は、このように昔からパラリンピアンを応援してくれていて、僕はとてもうれしく思っています。
     今、彼は、自分の腹筋がないから、足を体育座りのようにおなかに寄せて、倒れても自分の足の力で起き上がるというか、これをうまく利用しています。シットは、ここにもつけて、左右に倒れないようにしています。ベルトもしています。こういう形でつくるわけです。シットスキーは、一人一人違います。  パラリンピックを提唱したグッドマン博士がこういう言葉を言っていますが、失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせというのがパラリンピックの言葉です。要するに、なくしたものをいつまでも探すな、今あるものを最大限に生かせという精神でパラリンピアンはやっています。考えてみたら、最大限に生かせという言葉は、僕自身もこのように言われていて、僕らみんなの言葉だなと思うわけです。こういったところにパラリンピックのすごさ、すばらしさがあると思っています。  次に平昌があります。各国のチームが平昌の合宿の前に札幌で事前合宿をやりたいと言います。クロスカントリーの場合は、バイアスロンもやっています。バイアスロンというのは、射撃があって、ライフルを持ってやっています。来年3月、バイアスロンとクロスカントリースキーのワールドカップを札幌でやるということは、世界中のパラリンピアンにとっては大変な驚きなのです。ですから、僕は、来年のワールドカップをやって、翌年も国際大会をやって、みんなで合宿にも来られるし、そこで集えるという環境をこの札幌にどうしてもつくりたいと願っておりました。  きょう、委員の皆さんにどうしてもお話ししたかったことは、ボランティアについてですが、ボランティアの考え方が違います。  これはカナダバンクーバー島ですが、ここでワールドカップをやりました。このとき、日本で言えば地元の老人会の方が、フードテントで一生懸命に食事の用意をしました。そして、地元の小学校の子どもたちが見学に来ました。僕は監督で忙しかったのですが、何か興味があって彼らの後ろをついて行ったのです。  最初にどこへ行くかと思ったら、ボランティアの人たちのところへ行くわけです。ここでどういう食事を提供しているのかボランティアのおじいちゃんに説明してもらって、子どもたちが感心して聞いているわけです。子どもたちは、自分の家族の名前を書いたプラカードを持って、そこで声を上げているのですね。  そして、次は駐車場に連れていきました。駐車場のボランティアの方が、ここに車をとめて、これぐらいの広さをとって、車椅子の方がおりるからこれぐらいあけておかなければいけないのだよということを子どもたちに話しているわけです。ここは選手のゾーン、ここは大会役員のゾーン、向こうはお客さんのゾーンなど、駐車場のボランティアをやっている方は、さぞ自分がやったように説明しているわけですね。子どもたちは、それを聞いてすごく感心しているわけです。子どもたちにとっては、そのボランティアの方がすごいヒーローなのです。みんなで、きょうは成功させるぞなんて言って、外国人の乗りで騒いでいるわけです。こういったボランティア教育を子どもたちにしていくことが札幌ではどうしても大切だと思っています。僕自身も、これをぜひやっていきたいと思っています。  そして、子どもたちは、必ずワールドカップを見に来ます。これは旭川のときです。僕が旭川でやったことは、まず、秋口のうちに学校に行って、先ほどの永瀬さんの映像ではないですが、こういう大会ですよということを伝えます。そして、この大会に来る選手たちのことも伝えます。ですから、選手の名前や、応援したい国を書いたプラカードや旗をつくって応援に来てくれるわけです。札幌のワールドカップでも、こういった仕掛けをぜひやりたいと思っています。  また、僕にはフランスやカナダノルウェーの友達がいます。その友達に、短い期間ですが、小学校に行ってもらうよう頼んで、子どもたちに体験してもらいました。選手たちも疲れていると思いましたが、いいよ、学校に行こうと言ってくれて、子どもたちと触れ合うわけです。ノルウェーのラーセンという僕の友達はすごく人気者で、こんなにたくさんの子どもたちが集まって、サイン攻めを受けていました。  実は、旭川の次はノルウェーでワールドカップが開かれたので、僕らはノルウェーに行きました。そうしたら、僕ら日本人なんて、ふだん、外国の応援をしたこともないですが、ノルウェーの子たちは、日の丸をいっぱいつくってくれたり、顔にペイントしたり、おでこにジャパンとマジックで書いて、こんな子どもたちがたくさん応援してくれました。ここはラーセンの地元ですから、多分、日本へ行ったら子どもたちがこんなふうにやっていたよと話したのだと思います。そして、日本の選手たちを応援しようというふうに子どもたちにつながりが生まれていくわけです。こういった子どもたち同士の交流を大切にしていきたいと思っています。  それから、ことし2月のワールドカップでドイツに行きました。フードテントの中には、小学校1年生から6年生までの地元の小学校の子どもたちが描いた絵がたくさん張ってありました。うまいか下手かは抜きにしても、パラリンピックというテーマで一生懸命描いてくれています。こういうおもてなしがパラリンピックならではのワールドカップだと思っています。ぜひ、これをやっていきたいと思っています。  もう一つは、僕は江東区にいましたが、長野パラリンピックの前はパラリンピックのことが皆さんになかなか知られていないので、どうしたらいいかということで、中学生にお願いしました。三つの中学校から生徒を募集して、中学生が伝えるパラリンピック展を企画しました。無料でスポーツセンターのロビーをお借りして、ここに30人の中学生が集まりました。知的障がい者のチーム、身体障がい者のチーム、視覚障がい者のチームと10人ずつ三つの班に分けて、その障がいについて勉強しよう、そして、スポーツについて勉強しようということをやりました。9月にパラリンピック展をやったのですが、中学生のみんなは、夏休みの間に自分たちが調べたものを手づくりして、大変いい企画でした。これはちょうど2000年ですから、今から16年も前のことです。今、彼らは、ちょうど31歳ぐらいです。もう企業で頑張っていますね。  この間、ある企業に行って、荒井さんと声をかけられました。このときに中学生だったセキ君という子がいて、たまたま偶然会いました。そして、パラリンピック展をやったことを僕は覚えていますよと言ってくれました。このように、パラリンピックを機に中学生や小学生と交流して、きょうの永瀬さんの話のように、パラリンピアンを応援するような環境にしていきたいというふうに思っています。  これは、網走市の小学校6年生との交流ですが、3年間やりました。  委員の皆さんにも資料をお配りしているのでここでは読みませんが、こういった手紙を40人全員に書いていただきました。限界は伸びるんだから諦めるなという言葉を小学校6年生のカエデちゃんからもらうわけですね。ソチに向けて、そんな手紙をもらいました。  あるいは、ウエノ君という子は、ほとんど学校に来られない不登校でした。でも、友達が、パラリンピックの選手が来るから行こうよと声をかけてくれて、そのときに学校に来てくれたのだと思うのですね。そうしたら、少しずつだけれども、自分も学校に行けるようになりました、そういう選手を見て、僕らが頑張らなくてどうするのだと思い、学校に行けるようになったと。本当に選手の皆さんに感謝していますという感謝の言葉を書いてくれたのは彼だけでしたね。40人いて、みんなは頑張りましょう、頑張ってねという中で、心の優しい彼がこう書いてくれたのはすごくうれしかったです。  今は、もちろん通っている学校は違いますが、高校1年生です。そこに久保恒造選手がメダルの報告に行きました。美幌町の出身ですが、ことしのリオにも内定して、陸上で出場する予定です。  この高校生たちに、2020年の東京のときにはちょうど東京の大学に行っている子もいると思うので、ぜひボランティアをやろうと誘いました。語学のボランティアがいいから語学ボランティアをやろうよと言うと、みんなはやるやると言っていました。英語だけではなく、いろいろな国の言葉があるから、今から勉強しようと話しています。  我々パラリンピックチームは、ただの強化だけではなく、障がいのある子たちと一緒に雪遊びなどをしていまして、このような活動を札幌でもやりたいと思っています。これを、ぜひ実現したいと思っています。  最後ですが、オリンピックパラリンピックを招致する中で、世界あるいは日本のウインタースポーツ選手たちが集えるようなナショナルトレーニングセンター的な施設が日本にあると、とてもいいと僕は思っています。フィンランドとドイツの写真を載せていますが、このようなナショナルトレーニングセンターがあれば、障がいのある子どもたちや僕たちがますますトレーニングできると思っています。  これは、ことしの平昌であったアジアカップです。アジアカップですが、ロシア、カナダアメリカも参戦してきました。この平昌に向けては、みんな札幌で事前の強化合宿をするはずです。  次の2022年は北京です。平昌では雪が降らないので、韓国では事前合宿ができません。北京のオリンピックパラリンピックのときも、どこに来て合宿するかというと、ここしかないのですね。多分、北海道です。ですから、今後、札幌がオリンピックパラリンピックのウインタースポーツのメッカになることは間違いないです。このときに、先ほど永瀬さんが言っていたように、パラリンピックのことも最初から計画して、障がいのある人たちも参加していればねということにならないようにしていただきたいと思います。  当然、これからますます高齢化社会に向かいます。そんなときに、僕らが年をとっても、冬でも元気に外で活動できるのだというまちづくりをすればとてもうれしいと思っています。  拙い話でしたが、これで私のお話を終わります。ありがとうございました(拍手) ○長谷川衛 委員長  荒井参考人、どうもありがとうございました。  お2人から、大変中身の濃いお話を伺うことができました。  ここで、参考人に対する質問を行います。 ◆村山拓司 委員  大変貴重なお話をいただきまして、ありがとうございます。  私から、2点質問がありまして、一つ目は荒井監督と永瀬選手に、二つ目は荒井監督にお伺いしたいと思います。  まず、1点目は、海外での障がい者スポーツのトレーニング施設の事例などが紹介されておりましたが、北海道、札幌でのパラリンピック開催に向けて、障がい者スポーツの普及や選手育成のためには、アスリートと指導者という視点からどのような環境づくりを進めたらよいか、お伺いいたします。  また、2点目については、来年3月にクロスカントリースキーとバイアスロンのIPCワールドカップ札幌開催が決まりました。荒井監督のホームページにも、バイアスロン競技は1998年の長野パラリンピック以来の開催と書いておりましたが、この大会が札幌で開催することになった経緯と札幌で開催する意義についてお伺いいたします。 ◎永瀬充 参考人  まず、一つ目のご質問に対してです。  私の話の中でも、また、荒井監督からのお話にもありましたが、子どもたちの環境をどうするかというところです。  冒頭で私の試合の映像を流しました。準決勝があって、突然飛んでメダルセレモニーでしたが、間に決勝戦があってアメリカと試合をしました。日本チームの平均年齢は36歳、アメリカの平均年齢は23歳です。1週間、ハードな試合をしてきて、残り5分、私はゴールキーパーですが、選手たちはみんな足がとまりました。その時点で体力的な差は非常に出てきていました。  今、2020年の東京に向けて、パラリンピックのタレント発掘事業や育成事業をいろいろとやっておりますが、私から見ると、そもそもやる人がいません。どこから発掘するか。荒井監督が新田選手を探したように、それぐらいの発掘が必要です。オリンピックのほうだと、今いろいろな事業をやっていたりしますので、集まってと言ったら何十人か来ます。既にいろいろなスポーツをやっていて、クラスの中、学校の中でスポーツが得意な子どもたちが集まってきます。でも、パラリンピックのほうはどうかというと、若い選手はほとんどいません。私は、昨年、引退して、指導者になるのですかと言われたときに、指導する相手を探す活動をしますと言いましたが、そこからなのです。それが今の日本のパラリンピックの現状ですし、特にウインタースポーツの現状です。  長野パラリンピックのときには、たくさんの予算で、たくさんの選手たちが出ましたが、私もその恩恵を受けました。長野パラリンピックの遺産が残ったと思うのです。私が最近よく言うのは、その遺産をバンクーバーで使い果たしてしまいました。バンクーバーでは、ホッケーメダルをとりましたし、アルペンもクロスカントリー金メダルをとって、男子も女子も活躍しましたし、車椅子カーリングも出ました。日本チームにとっては最高でしたが、その後、ソチから選手が一気に引退していなくなってしまって、そもそもやる選手がいないということです。  どうやって発掘するかというと、障がいのある、特に車椅子子どもたちは、ほとんどが普通学校に行っていて、福祉の接点がない中で暮らしています。そういった子どもたちは、体育ができません。その子どもたちが高校生になって、12年間、スポーツをしてこないで、そういう人がパラリンピックを目指しましょうとはならないと思います。普通の子どもを考えたときに、ずっとゲームばかりしている子にオリンピックを目指そうかと言っても、全く無理な話です。そういったところからいくと、幼稚園や小学校に入るか入らないか、子どもたちが元気に走り回って鬼ごっこなどができる環境の延長線上にスポーツがあると考えております。まずはそういったところから人を見つけていくということであって、指導するのはその後だと思っております。 ◎荒井秀樹 参考人  まず、最初のご質問ですが、選手たちに聞くと、一番困っているのは用具です。パラリンピックに使う用具は大変高価です。先ほどの永瀬さんの話ではありませんが、グローブを買って、バットを買ってというようにはいかず、シットスキーは1台35万円から40万円ぐらいします。車椅子バスケット、いろいろな競技用の義足も大変高価だと聞いております。こういった仕組みを変えていかないと、どこでも、いつでも、パラリンピックを体験したり経験することができないのが、いま一歩、前に出ていかないところだと正直思います。  もう一つは、やはり指導者です。パラリンピックの競技を指導する人材をいかにつくっていくかが、パラリンピアンを育てていく上でとても大きな事業だと思っています。  次に、来年3月に控えるIPCのワールドカップですが、来年のワールドカップは、フィンランドのボッカティとウクライナ、そして日本の3カ国で行う予定です。この3カ国で大会をやるというのは、とても意義があります。なぜかというと、今までは全部ヨーロッパでやっておりましたが、3月中旬にテストイベントが平昌でありまして、今度は平昌と札幌、アジアをステージにしてやっていきたいという強い思いがありました。そういった意味で、札幌で開くワールドカップは、今後、2022年の北京に向けてもそうですし、2026年に札幌が立候補するにしても、札幌を十二分にアピールしていく、あるいは、市民の皆さん子どもたちに札幌オリンピックパラリンピックをアピールする絶好の機会だと僕は思っています。  これは、IPCやほかのところが言っていることではなく、パラリンピッククロスカントリースキー、バイアスロンをやっている全員の総意でやりたいと言ってくれています。各国とも平昌、札幌のシリーズをとても楽しみにしていますので、ぜひ成功させたいと思っています。 ◆松原淳二 委員  貴重な機会をありがとうございます。  私から、1点ずつお聞きしたいと思います。  もう引退された方ですが、私の地元の一つ上の先輩に車椅子バスケをやっておられた方がいます。Jリーガーになって、それから車椅子バスケに移られた方ですが、車椅子バスケに出会うまでにも結構かかって、それからスタートしたという話を聞いております。よって、先ほど来あるように、裾野を広げるためには身近なものでなければいけないだろうと思います。ただ、障がいのある方のスポーツパラリンピックの全ての競技をできる環境を整えるのはなかなか難しいと思います。よって、北海道、札幌ならではのスポーツ種目に少し特化したほうが盛り上がりも出てくると私は勝手に思っています。  そこで、永瀬さんには、今ある施設なりで札幌に適したスポーツはどんなものがあるのかということをお聞きします。  荒井監督には、指導者という立場でお答えいただきたいと思いますが、障がい者スポーツを経験した方だけが監督や指導者になることはなかなか厳しいと思っております。一方で、私はできませんが、北海道ではウインタースポーツが盛んで、誰もがスキー、スケートをできると思いますけれども、健常者が障がい者スポーツを指導することもまた難しいと思うのです。そういう中で、どういった点に気をつければ健常者でもそういったことに携わることができるのかという観点からお2人に質問したいと思います。 ◎永瀬充 参考人  どういうスポーツかということについては、私はホッケーをずっとやってきたので、ぜひホッケーをやってほしいという思いがあります。ただ、こういうスポーツは、場所的な制限があるので、そんなに手軽にはできないと思います。  そういう中で、荒井監督がやられているクロスカントリースキーは、特に北海道にいると冬は数カ月雪に覆われていますから、スポーツを楽しむきっかけとしてはいいと思います。しかも、シットスキーは学校のグラウンドでできます。小学校を考えたときに、大体、1年生はグラウンドでスキーをやるので、グラウンドで少しやるにはシットスキーがいいと思います。2年生になると、山に行ってちょこちょこっと滑るので、次はどうしようか、高学年ぐらいになったときにはアルペンスキーをどうしようかというところにだんだんと行けると思います。突然、アルペンスキーをするというのは、先ほどの映像にもありましたが、人的サポートや高価な道具が必要だったりするので、ハードルが高いです。  シットスキーをやっていると、基本的な動作はホッケーと同じなので、タイミングが合ってホッケーをやろうかというときにもスムーズに行けるし、体力もついています。ホッケーは、チームスポーツなので、チームがないとできませんが、シットスキークロスカントリーの場合は身近でできます。私は、旭川で育って、スキー場が近かったので、家からスキーを履いてスキー授業に行きました。室蘭など海のほうではなかなかないと思いますが、旭川のように、そのように子どもたちがやっているようなところではスキーがいいかと思います。  あとは、障がいのある人たちだけでなくてもできるスポーツもあります。今、車椅子バスケットは障がいがない人も一緒にやっていますが、テニスも、4人で行こうとなって、4人のうち1人が車椅子でも十分にできます。友達同士で4人で遊びに行くときに、いきなり勝負はしないですよね。楽しく打ち合いをしようとして行くので、車椅子だからというのは意外と関係なく一緒にできます。  あとは、北海道は広いので、まだ少ないですが、ハンドサイクルという自転車のようなものがあります。首都圏や都市部だと車が多くてできないのですが、北海道の農村地帯では気軽にできます。自転車に乗るために観光に来るような時代ですから、車椅子の人はハンドサイクルで回るとか、そういうことができると、札幌市内には前田森林公園など広いところがいろいろありますし、河川敷のサイクリングロードでもできますから、身近なところで家族や友達と一緒に自転車を楽しむことができます。  障がい者に特化してしまうと、用具がないとか場所が限定されますが、障がいのない人も一緒に楽しめるスポーツからやっていけるとすごくいいと思います。そういったところから、いわゆる心のバリアフリー的なものが生まれると思います。 ◎荒井秀樹 参考人  指導者の側から、どういう指導者がいいのかといいますと、障がいについて理解する、知ることが指導者にとってとても大切なことです。僕は、実は、昨年から東京の大学でパラリンピック概論という授業をやっています。ことしからは札幌大学でパラリンピック概論という授業を14回やっていて、障がいについて理解したり、パラリンピアンにゲストとして来ていただいています。  それで、これから教員になろうとしている学生、あるいは企業に勤める学生たちにパラリンピックのことを知ってもらう、そういう中から、ボランティアやスタッフ、あるいは自分の好きなスポーツのコーチという道があるかもしれません。また、ガイドという道もあるかもしれません。こういった取り組みをやるべきだと僕は思っています。  来年からは、札幌市立大学でもパラリンピック概論という授業が始まることも聞いております。このように、いろいろな地域の大学でパラリンピック概論をどんどんやっていけば、この後、若い彼らによって、指導者やコーチたち、ボランティア、スタッフたちが必ず生まれてくると僕は思っています。 ◆好井七海 委員  貴重なお話を大変ありがとうございました。  荒井監督、永瀬さんには、札幌大学でいつもご講演いただき、オリ・パラ教育に対して熱心に取り組んでおられることに心から敬意を表したいと思っております。  私からは、荒井監督と永瀬さんに1点ずつお伺いしたいと思います。  障がい者スポーツへの理解促進や普及啓発にはオリ・パラ教育の取り組みが必要で、市民や、特に若い世代への普及啓発が重要であると考えております。平成26年度より障がい者スポーツに関する事業が厚生労働省から文科省へ移管され、平成27年10月にはスポーツ庁の発足により移管されたこともあり、学校現場における子どもたちへのオリ・パラ教育促進という面で大変期待しているところであります。  そこで、オリンピックパラリンピックの教育的価値について、特にパラリンピックを学ぶ教育を取り入れることに対する価値についてどのように考えておられるか、また、取り入れた効果を今後どのように考えていらっしゃるか、荒井監督にお伺いします。  もう1点、永瀬さんには、バリアフリーという部分で競技施設の件が出ていましたが、もう少し具体的にお伺いします。  ほとんどはオリンピックの施設を使われると思いますが、パラリンピックへの対応というところで、留意点、また改善点、問題点がたくさんあると思いますけれども、何点かでも教えていただければありがたいと思います。 ◎荒井秀樹 参考人  パラリンピック教育で一番大切なことは、継続することです。今は、パラリンピアンを招いて体験する、大体はそこで終わっています。そうではなくて、3年生だったら3年生から4年生、5年生、6年生まで一貫してやっていくことが絶対に大切です。全てをやると大変ですから、スレッジホッケーだったらスレッジホッケーでいいのです。永瀬さんだったら永瀬さんに、時間のあるときに学校に遊びにきてもらうのです。そこから、カナダあるいはアメリカの選手のことなど、いろいろなことを語ってもらうわけです。そうすれば、スレッジホッケーの国際大会を札幌でやるとなったら、そのアメリカの選手はどんな選手か実際に見てみようと必ず来るはずです。  日本に勝ってもらうことが一番うれしいですが、もしも日本が負けたとしても、応援していたアメリカカナダの選手がいたら、日本ではない決勝戦だってスタンドがいっぱいになるはずです。こういった教育をしていかないとだめだなと思っていますし、日本が出ていないからといって、がらがらというのはよくないよと、今、僕は東京でもこのことを言っております。ぜひ、これをやっていくことが大切だと思っております。 ◎永瀬充 参考人  施設のバリアフリーに関してですが、先ほどもお話ししましたように、日本にはバリアフリー法があります。建物をつくるときに、もちろん建築専門の方々はそれをわかっているので、多分、それに適応するようにつくると思います。しかし、それは割と大きな動線など表の部分ばかりで、住宅的なところや観客、選手用の裏の部分というところは入ってきません。ですから、そういったところは我々みたいな実際に経験している人から聞いていくしかありません。資料があるかというと、先ほどお話ししたIPCのアクセシビリティーガイドラインはありますが、それにはそういうものはなかなかないので、調べるところから大変かと思います。  まず、ホッケーでいきますと、ベンチと、反則したときに2分間閉じ込められるペナルティーボックスは、バンクーバーとソチは中も氷です。それ以前はプラスチックの板を敷いていましたが、それだと、入る瞬間に若干の段差があったり、入った瞬間にブレーキになります。スレッジホッケーも、普通のホッケーと同じように、試合中に何回も選手交代をするのですが、急いでいるときに、スティックがすかっとなるのです。すかっとなった瞬間に、こけたりして、もたもたして、早く出ていけよみたいなことがよくあるのですね。でも、氷にすると一発ですっと出られます。逆に、入る瞬間にブレーキングするスペースがないので、うちのスタッフはみんな足をやられていたり、監督などは、冬用ではなく、普通の革靴なので、つるつるして、トレーナーなどは走って転んだりします。だから、僕らにとってはバリアフリーですが、立っている人にしたらバリアです。  あとはフェンスです。基本的に、かたいボードの下に僕らの目線があって、そこは大体白いペンキで塗ってあるのですが、ベンチやペナルティーボックスから見えるようにクリアになっていまして、そこさえクリアになっていれば何とかできますから、そこをどういうふうにしていくかということです。ただ、日本にはアイスリンク自体がなかなか少ないので、パラリンピックのためだけにそこの仕様をつくるとなると結構大変ですから、そこの工夫が必要です。  それから、カナダアメリカでは、ベンチのボードをすぽっと簡単に取りかえられるようにしました。また、昨年、アメリカの大会に行ったときは、簡単なレバーですぐにクリアにしたり白にしたりすることができるようになってきています。それは、そこに行って写真を撮ってこないとわからないものですから、そういったところをこれから一緒に話し合っていくことが大事だと思います。  それから、ロッカールームです。海外の選手はよくシャワーを浴びますが、日本は、水回りのところに高さをつくるというか、水が外に出ないようにします。そうすると、車椅子は入れないですし、お風呂の戸みたいにものをつけると入れないので、そこを車椅子で行けるようにするためにどうするかと。  また、車椅子の人もロッカールームのトイレに行きますので、車椅子トイレが会場に何カ所かありますと言っても、それは観客用ですから、車椅子ロッカールームのトイレに行けるかというところも必要になってきます。  また、アルペンスキーに関しては、今、ニセコでやるという話が出ていますが、チェアスキー人たちはどうやって上まで行くか。リフトには普通に乗れますが、先日、アルペンの選手に会ったときに言っていたのは、ゴンドラに乗るときもあるらしくて、チェアスキーの板をとって、下のところにスケートボードのようなものを載せてゴンドラの中に押し込んでもらい、上に行ったらスキーの板をはめます。これには人海戦術が必要ですが、リフトを三つ、四つ乗り継ぐよりもゴンドラのほうが早く行けます。  ただ、今は、普通に行こうとするとスキー場は対応してくれないので、そういうこともスキー場と一緒になって検証したり練習したりすべきだと思います。さらに、ゴンドラ乗り場に行くときに階段になっていると、その時点で行けません。スキーの選手はなれていると思いますが、海外なんかではゴンドラに乗れるところがあるので、その辺のことも出てくると思います。  それから、先ほど言った選手村に関しては、海外の選手の車椅子は私の1.5倍ぐらいの大きさのものもあります。日本のドアは規格が大体決まっていますよね。今のIPCの基準だと推奨基準が95センチですが、日本のドアはオーダーメードではないので、選手村の全部をバリアフリーの部屋にすると物すごいことになるので、何部屋つくったらいいのか、それは選手が来てみないとわかりませんから、そういったところも考えていく必要があると思います。  それから、乗り物に関しても、北海道というのは地下鉄は割とスムーズですが、電車自体に段があるのでスロープを乗せてもらわないといけません。最近は、突然行ってもすぐに駅員さんが対応していただけますが、期間中、海外からたくさんの人が来て、もちろん予約もないですから、対応している間にまた次の人が来たり、大勢で来たりした瞬間にどうなるかという想定も必要です。  そして、最近わかりましたが、どこかの駅で、エレベーターに行くと駅員さんに電話してくださいということがありますけれども、そこに何人も来たらどうなるか。ですから、単に動線が通っていればいいというだけではなくて、使うというところでいろいろな想定が必要です。札幌では、いろいろな当事者団体が検証したり調査したりしているので、そういうところと意見交換しながら競技者独特の視点を入れていけばいいと思います。  ただ、パラリンピックの選手、特に冬のパラリンピックの選手は余り重度な人がいません。ホッケーチームに15人の選手がいるとしたら、完全に車椅子の人は大体2〜3人、多くても4〜5人です。あとは、片足の人とか、私も歩けますが、歩行障がいなので歩くとなったときにはまた違ってきます。ですから、車椅子の人だからといって、みんな同じではないというところがバリアフリーの難しさだと思います。 ◆伊藤理智子 委員  きょうは、貴重なお話を本当にありがとうございました。監督と選手から具体的にお話を聞いて、非常に感動しました。  日本で制定されて5年になるスポーツ基本法がありますが、お2人が、スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは全ての人々の権利であるという理念を実現させるために頑張っていらっしゃるのだなということがひしひしと伝わってくる一方で、日本では理念の実現がまだまだほど遠いなと感じました。  先ほど、永瀬さんから見せていただいた映像の中でも、カナダでは小さいお子さんのときから選手を育てていることとか、アメリカでは障がいのある方たちが心からスポーツを楽しんでいる映像を見て、すばらしいと思いました。  そこで、永瀬さんと荒井さんはそれぞれいろいろな国に行ったと思いますが、いろいろな国の中で、障がい者のスポーツが先進的に進んでいるなとか、これは日本でも広めていきたいなと思ったことがあれば伺いたいと思います。  さらに、今、たくさんの課題を出されたと思いますが、実際に経験された中で、日本ではどういう課題があると感じたのか、選手が輩出されるヨーロッパと比べて根本的に何が日本と違うと感じているのか、お聞きしたいと思います。 ◎永瀬充 参考人  失礼ですが、すごくいい質問だと思います。  競技を20年やっていて、日本の障がい者スポーツは海外と比べてどうなのですかといろいろな方にいつも聞かれます。私も、20代のときには、3年間、カナダに留学したり、遠征でいろいろなところに行ったりしていますが、私が感じるのは、日本のスポーツ文化という分母に対して、障がい者スポーツは割合的には結構高いと思います。長野パラリンピックから20年近くたってすごく変わってきていますし、いいところもたくさんあります。ただ、スポーツ文化という分母が余りにも海外と違い過ぎるので、そもそも論で、障がい者スポーツがどうこうではなくて、国民的、市民的にスポーツをどう楽しんでいるのか。  私が行ったカナダは北のほうなので、サマータイムがあり、夏は午後9時ぐらいまで明るいです。5時、6時で仕事が終わったら、そこからサッカーをしたり、野球をしたり、外で遊んだり、フリスビーをしたりした後、スポーツバーに行ってプロのスポーツを見ながら食事して家に帰るというのが、すごく生活に密着しております。しかも、小さなまちにもマイナースポーツのチームがあるので、仕事の後、お父さん子どもたちを連れて行って、見て、地元のチームを応援します。トップのメジャーリーグやNHLは何千円と高いですが、マイナーリーグに行くと500円や1,000円で見られます。野球だと、子どもたちはグローブを持って走り回って、ファールボールが来たらとりに行くということがすごく身近なのですね。その延長線上で車椅子だったらどうかと考えるのと、日本で野球を見に行くとしたら、何千円もかけて札幌ドームに日ハムを見に行くしかない、そういうところから障がい者のスポーツをどうするかということなので、そもそもスポーツ文化を考えてなければいけないと思います。  メディア関係も、海外だとテレビでパラリンピック放送をたくさんしています。日本のテレビ文化は地上波の8局ぐらいがメーンですが、海外はケーブルテレビの100チャンネルのうちの1チャンネルで映っています。会社としては四つぐらいのチャンネルを持っていて、たまたま1個がパラリンピックだということです。ただ、日本では、どうしても地上波がメーンになっていて、スポーツを見て楽しむというところもまた違ってきます。パラリンピックをもっと報道しなければという声がありますが、そもそもメディア文化が違います。そういう中で障がい者スポーツだけを議論しても進まないと思います。障がい者スポーツは行政的にも市民的にも非常に広がってきておりますが、パラリンピックだけではなくて、札幌では障がいのない子どもも含めてウインタースポーツを楽しんでいるかどうかということなのです。障がいのない子どもたちがやっていないのに、障がいのある子どもだけにしてもらおうというのもまたおかしな話なので、そこの議論が大事だと思います。  あと、海外が進んでいるかどうかはわかりませんが、プロのスポーツチームがスポンサーになったりします。メジャーリーグやバスケットのプロチームが下部チームとして車椅子のチームを持っていて、そこにチャリティーでいっぱいお金を出しております。ですから、スレッジホッケーのチームも、同じ名前、同じユニフォームを使って試合をしています。 ◎荒井秀樹 参考人  僕は、札幌がおくれているとは全然思っていません。札幌では、昔から障がいのある方たちのクロスカントリースキー大会もやっていますし、お正月には、滝野すずらん公園である新聞社の主催でずっとやっています。長野以前からやっています。そのように考えると、札幌市は、障がいのある方たちのスポーツやイベントが数多くあります。なぜ、そういったことが僕らの周りに伝わらないのかということが問題なのです。  今、インターネットが普及している時代ですから、シットスキーだったら学校に行くとスキー教室がありますよ、貸し出しもありますよという情報をもっともっとうまく広めれば、こんなところでも車椅子の方たちがランニング大会をやっていたとか、あるいは、こういうイベントがあったということが後づけで新聞で知ったりテレビで見たりできます。さらに、うちの授業を受けている学生たちがこういうことをわかっていれば、ボランティアに行ってみようよ、実践だ、体験だということができるわけですね。そういう連携が今ここにないからだめであって、ぜひ、知恵を出し合ってやれば、すごく札幌をアピールすることができるのではないかと思います。 ◆松浦忠 委員  きょうは、どうもご苦労さんでございます。  監督に一つお尋ねしますが、札幌は、冬季のオリンピックを招致できたら2度目になります。私は、オリンピックをやるにはそれなりのお金もかかるということから、できるだけ市民理解を得ていくには、札幌として果たさなければいけない役割があるだろうと思います。  その役割は何かといったら、今、オリンピックパラリンピックは、間を置かないで一緒の年次に開催することです。それがようやく定着してきました。そこで、私は、札幌大会では、開会式から閉会式まで同一期間内にオリンピックパラリンピックを開催すると。これらの大会をやる上で、やはりお金は必要になります。今は、国際オリンピック委員会には、スポンサーを含めて相当のお金が集まるようになっております。しかし、パラリンピックのほうは、まだなかなか大変な状況にあります。そこで、私は、同一期間内に開催して、オリンピックパラリンピックも両方の組織委員会共催にして、同一期間ですからお金は一緒に集める、札幌市はこういう方式をとるべきだということを提唱しております。  監督はいろいろな意味合いで広く国際的にかかわっておられますので、札幌でオリンピックを開催する段階でこれは全く不可能なことなのか、あるいは、可能性があるし、こういう取り組みをすれば実現の道に近づいていくというような考え方がありましたらお聞かせいただきたい。 ◎荒井秀樹 参考人  オリンピックパラリンピックの同時開催を札幌でというお話を聞きました。今では、2020年オリンピックパラリンピックというふうに、初めて報道でも周りでもオリ・パラと言われるようになりました。しかし、昔は大分違っていまして、オリンピックの後にもう一つのオリンピックということで、パラリンピックオリンピックは別々に言われてきました。1996年のアトランタのときは、アトランタオリンピック組織委員会が、この後のパラリンピックは開催できないと表明しました。オリンピック組織委員会パラリンピックの700以上のクラス分けをしなければいけない、財政もない、オリンピック組織委員会はこういったことをできないということで拒絶したわけです。  それに対して、アトランタにある当時のシェパードセンターというところが、パラリンピックを開かないとは何ていうことだということで手を挙げて、1万7,000人のボランティアを集めてパラリンピックを成功させました。こういった地元の人たちパラリンピックを存続させてきた力が、2000年のシドニーのときにIPCとIOCが協定を結んで、オリンピックでは必ずパラリンピックをやってくださいということを決めていくわけですね。  ですから、昔はオリンピックパラリンピックを別々の会場でやっていましたが、今は同じ会場での実施が定着するようになりました。昔は、オリンピックの後、別に期間は決まっていませんでした。ですから、調べてみていただければわかると思いますが、オリンピックの後に開催するパラリンピックの期間は、2週間あいていたり10日間だったり、いろいろ違います。長野のときは、ちょうど12日間でした。  なぜこのように分かれているかというと、僕の理解としては、今、オリンピックが世界中で最大の国際イベントです。2番目は何かというと、サッカーのワールドカップです。そして、今、IPCが主催するパラリンピックが3番目のチケットの売り上げとなって一大イベントに成長しているわけです。こういったときに、IPCがIOCと同じ大会の中でやっていくのはどういうものかと私自身は率直に思います。  今、何をしなければいけないかというと、ぜひ皆さん方にも考えていただきたいことは、国際組織についてです。例えば、国際スポーツ連盟があります。スキーでしたら、FISと言って国際スキー連盟です。我々はここには入っておりません。それに対して、障がい者スキーの国際組織があるかというと、実はないのです。IPC、クロスカントリースキー、ノルディックスキーコミュニティーというところでボランティアをやっている方、事務所もないのですが、そういう方たちがクロスカントリースキーのワールドカップなどの大会をやっています。国際組織、IFと呼んでおりますが、トライアスロンは健常者も障がい者も同じ組織です。それから、卓球も同じだったと思います。陸上は別々で、スキーも別々で、アイスホッケーも別々です。  まず、僕が言いたいのは、こういった国際組織が一緒にタッグを組んで同じになっていただくことです。まだ世界選手権は別々だという中では、オリンピックパラリンピックを一緒にやれないし、今もし一緒に開催すればこのオリンピックの中にパラリンピックが埋没してしまうおそれがあります。  では、この日本はどうですか。日本も、障がい者のスポーツと言っても、事務所もなければ、個人がボランティアでやっているような団体ばかりです。ですから、全日本スキー連盟の中に障がい者の部門が一緒になって入っていくという作業がまずは必要だと思います。  札幌が同時開催だというのであれば、これは僕の全くの個人的な意見ですが、国体があります。夏の国体は、終わった後に身障国体をやってくれています。障がい者の国体をやるわけですね。冬はどうかというと、ウインタースポーツの身障国体は、実は開かれていません。僕は、いつか、どこかの都道府県が開催する国体で身障国体の冬季大会をやってくれる、手を挙げてくれるのではないかなと思っております。
     このように、健常者や障がい者が一緒になってスポーツができるような環境をつくっていくのであれば、僕らが叫ばなくても、市民からオリンピックパラリンピックを一緒にやりたいよねという声が生まれてくるのではないかと思います。  ですから、いろいろな見方があって、同時開催だけを僕らがただやるのではなくて、その前に周りの健常者も障がい者も一緒にスポーツを楽しめるような環境をまずは僕らがつくっていくことが、今、僕が聞かれたらお答えできる範囲だと思います。 ○長谷川衛 委員長  ほかに質問はありませんか。  (「なし」と呼ぶ者あり) ○長谷川衛 委員長  なければ、参考人に対する質問を終了いたします。  本日は、永瀬理事及び荒井監督にご出席いただき、さまざまな質問に答えていただきまして、本当に有意義で大変参考になりました。感謝申し上げます。  私たちも、きょうの委員会でいただいたさまざまなご意見を糧に、今後の審議の参考にさせていただきたいと思います。  どうぞ、お2人とも、ご活躍ください。  本日は、どうもありがとうございました。(拍手)  ここで、参考人及び理事者退席のため、委員会を暫時休憩いたします。     ――――――――――――――       休 憩 午後5時43分       再 開 午後5時44分     ―――――――――――――― ○長谷川衛 委員長  委員会を再開いたします。  最後に、参考人出席要請についてを議題といたします。  冬季オリンピックパラリンピックの招致に向け、その効果や課題などを調査するため、学識経験者や選手等を参考人として招き、意見交換を行うことについて、これまで理事会で協議、調整を進めてまいりました。  つきましては、お手元に配付しております案のとおり、葛西紀明氏及び川本 謙氏のご両名をお招きすることとして、委員会条例第24条の規定に基づき、出席要請を行うことにご異議ございませんか。  (「異議なし」と呼ぶ者あり) ○長谷川衛 委員長  異議なしと認め、そのように決定いたします。  なお、日程につきましては、8月1日月曜日午後2時から開催することといたしますので、よろしくお願いいたします。  以上で、委員会を閉会いたします。     ――――――――――――――       閉 会 午後5時45分...