さいたま市議会 2021-03-18 03月18日-08号
例えばこういった議会の議事録なんかも、明治時代の大宮町や浦和町の議事録なんかも全部入力してもらって、片柳村、日進村も含めて、ネットで見るようにできるとか。もちろん公園の掃除とか、集団接種会場はこちらですという案内とか、その人の能力、またはその人の希望によって、いろんな仕事を割り振る。リーマンショックのとき、相川市長は100人臨時雇用したんです。
例えばこういった議会の議事録なんかも、明治時代の大宮町や浦和町の議事録なんかも全部入力してもらって、片柳村、日進村も含めて、ネットで見るようにできるとか。もちろん公園の掃除とか、集団接種会場はこちらですという案内とか、その人の能力、またはその人の希望によって、いろんな仕事を割り振る。リーマンショックのとき、相川市長は100人臨時雇用したんです。
このうち本市に関係する方といたしましては、江戸時代に上尾宿で聚正義塾を開設し、子弟の教育に当たった学僧の雲室と、教育者で俳人の山崎武平治、平方村で子弟の教育に当たった医師で教育者の森朴斎、また明治時代にかけて原市村で子弟の教育に当たった医師で教育者の伊藤由哉、大谷本郷村に居住し、市内外の寺社や山車の彫刻を手がけた宮大工の山田弥吉の5名でございます。 ○議長(大室尚議員) 12番、荒川昌佑議員。
食育という言葉は、明治時代の料理小説にも出ており、現在までにわたり、幼児や学童期の人間形成や健康な食生活と食習慣の確立に役立てるという役割を全ての消費者に対して果たしてきました。 しかし、第二次世界大戦から高度経済成長期、バブル期を経て、日本人の食生活が大きく変化し、食育の重要性は余り認識されなくなりました。
◆18番(蓮見節議員) 境界の印がなくなってしまうとか、あるいは公図というと、普通明治時代以降に作られた公図と言われる古い地図なのですが、そういったものと現在の状況が合わないという場合、住民と市で見解が異なって、なかなか合意できないという事例があるわけですよね。そのときには、まず粘り強く協議をして、合意づくりをしていくということになります。
当時の屋敷構えがそのまま残され、明治時代から大正時代の所沢における商家の面影をよく伝えていることから、平成28年に国の登録有形文化財となりました。
明治時代の初めはまだ、夫婦別姓でありました。明治9年に出された太政官指令というのに妻の氏は所生の氏、実家の氏を用いることにされるというふうになっておりまして、明治9年から31年まで夫婦別姓が政府として夫婦別姓を求めていたわけであります。
選択制夫婦別姓に反対している方々は「家制度と家族の絆が壊れる」、「子どもがかわいそう」、「離婚が増える」などを理由にしていますが、日本の戸籍制度は既に崩壊しつつあり、その訳は夫婦が離婚した時に結婚で氏を改めた方が婚姻中の氏を継続できるようになったからで、更にいえば、外国人と国際結婚したカップルは夫婦別姓であることで、明治時代の戸主=筆頭者を中心とした家制度は現在の多様化時代には適していないのです。
浦和の庁舎については、明治時代に現在のロイヤルパインズホテルが位置する場所に、浦和町役場が置かれておりました。そして、1976年に現在の位置に完全移転し、現在に至るものであります。この庁舎の移転ともなると、これまでのまちづくりの方向性が一変します。単にその跡地をどのように活用するのかといった議論だけで済む話ではありません。
しかし、日本では性犯罪はとても軽く扱われ、明治時代(1907年)に制定された刑法が2017年の改正まで大筋では変わることなくそのまま踏襲されてきた。性犯罪・性暴力の根絶に向けた社会的気運が高まる中、2017年6月、110年ぶりに性犯罪に関する刑法の改正案が国会で可決され、同年7月に施行された。
そして、本年の6月定例会の答弁の中で、私の提案した本庄宿を演出するものとして、例えば本陣跡ですとか標識、明治時代の同じ風景の古写真を中山道に設置したらどうかという問いに対しまして、答弁としては電線地中化を待ってというお答えがございましたけれども、しからば電線地中化を待たずにできること、錯視効果表示やAR技術、これはスマホをかざすと情報が表示される技術でございますが、これを駆使するなど、方法は幾らでもありますし
新田次郎氏には数々の名作がありますが、私的には、明治時代にロシアが日本に攻め入ることを想定し、当時の陸軍が八甲田山系で行った雪中行軍訓練を描いた「八甲田山死の彷徨」であります。この訓練では、当日、まれに見る大雪などから、参加兵士200名中199名が遭難したものですが、これは高倉健さんや北大路欣也さんなどにより映画化もされましたから、ご存じの方がいるかもしれません。
昭和20年の本とか、戦前の本とか、明治時代の本、これが今そういうのが大変価値のあるところで、先日、司馬遼太郎の、彼の書いていた部屋というのをYouTubeで見ていたんですけれど、廊下とか全部本で埋まっちゃっているわけです。
渋沢先生も子供の頃が、福沢諭吉先生もそうだけれども、非常に大切なのだということでお話をいただいておりますけれど、それらをどうして渋沢栄一翁と福沢諭吉先生は突出、主に明治時代活躍した方ですけれども、突出をしたのかなというのは、やっぱりその育ち方、家庭環境、あと持っている精神、ハングリー精神と申しますか、チャレンジする精神、ここにもうたってあるけれども、体験というのが私は非常に子供たちにとって必要、こういうふうに
本市には江戸中期に設立した福岡河岸と明治初期に設立した百目木河岸があり、福岡河岸は安永2年、1773年に江戸幕府から正式に公認され、以来、明治時代にかけて新河岸川舟運と陸上交通の要衝として栄えました。
もともと明治時代、測って、それで何平米ということで登録されています。そのときには、ご存じのとおり測量技術があまり発達していなかったということと、あとは税の負担を減らしたいということの意図が働いて、少な目の面積を登載されているということが多いということを聞いております。
明治時代になって女医を目指した荻野吟子は、保己一の復元した「令義解」によって女医試験を受けることができたのですとあります。これも記念館で勉強しました。塙保己一と荻野吟子の時代を超えた関わりは非常に興味深いものがあります。ちなみに、深谷市では偉人の顕彰の中で女医第2号、生沢クノという方を顕彰しています。 ここでもう一つ、吟子と奥原晴湖の関係を紹介します。
我が本庄市は、笑う埴輪の里であり、江戸時代は本庄宿として中山道の最大の宿場町として栄え、明治時代には繭、生糸の市場が開かれ、繭の一大集散地としてにぎわいをいたしました。政治家で日本赤十字社の創設者、佐野常民によって、本庄市に首都を移すべきとの遷都意見書が提出されたことも、皆様ご存じのとおりです。 旧児玉町は、盲目の国学者、塙保己一の生誕の地であり、鎌倉街道の宿場町、繭の産地としてにぎわいました。
田中家長屋は、和紙生産で栄えた小川町の町場の生活道路に面し、緩くカーブした道に沿った形にするなどの工夫を凝らしたつくりとなっており、明治時代前期に建てられたと推定されます。当時の人々の生活の一端を今に伝える、町の歴史的景観に寄与する建物の一つです。 7月17日の国の文化審議会の答申により、町内では割烹旅館二葉本店本館、同六六亭に次いで3件目の登録となります。
本市は、古くは中山道の宿場武州本庄宿として発展し、明治時代になりますと、富岡製糸場に生糸の原料となる繭を供給する日本有数の繭の集散地となり、まさに交通の要衝として栄えました。また、平成16年には新幹線の本庄早稲田駅が開業により新たな拠点が生まれ、その駅前周辺には大手企業の本社や大規模商業施設が立地し、新たな町並みが形成されつつあります。
江戸時代に本庄宿の北本陣と呼ばれた田村本陣の門は、当時は中山道の現埼玉りそな銀行本庄支店の西の辺りから北へ50メートルほど入った場所にありましたが、明治時代には群馬県島村の田島家の所有となり、現在の伊勢崎市境島村へ移設されました。昭和46年に田島家から本市が寄贈を受け、旧本庄警察署前に移設、その後、昭和56年に現在の場所に移設し、これまで長く歴史民俗資料館と併せて見学をいただいてまいりました。