17件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧

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川越市議会 2019-03-07 平成31年第1回定例会(第15日・3月7日) 本文

平成二十八年度の「歴史講座、後北条の時代と川越地方」の参加者数は三十八名。平成二十九年度の「歴史講座、河越氏の興亡と東国武士」の参加者数は四十四名でございます。なお、本年の「歴史講座、原始・古代高階地域江戸時代高階地域、二つの時代の高階歴史を知る」の参加者は五十名でございました。  以上でございます。   

加須市議会 2017-09-14 加須市議会 会議録 平成29年 第3回 定例会( 9月)-09月14日−06号

また、東京大学史料編纂所所蔵の「伊藤家文書」には、上杉謙信が小田原の北条との戦で私市(騎西)城を攻め落としたこと、川越市光西寺所蔵の「石川正西見聞集」には、徳川家康が江戸に入り、2万石の騎西藩が置かれたことなど、歴史的な経緯が記述されております。

加須市議会 2017-03-10 加須市議会 会議録 平成29年  3月 予算特別委員会-03月10日−03号

当時は、別にお城といってもとりでですから、土塁で囲まれているやつですから、天守閣ができるようになったのは信長以降ですから、あそこのお城が越後から上杉謙信が相模の北条を攻めたときに、あそこが焼き討ちに遭って、玉敷神社があそこにあったが、それも大変になっちゃって、それで今の位置に移転したというような、あそこにはそう書いてありました。そういう歴史があるわけです。

川越市議会 2015-09-10 平成27年第4回定例会(第10日・9月10日) 本文

日本遺産にふさわしいと思われる具体的な連携につきましては、例えば、小江戸のつながりで栃木市香取市北条のつながりでは、主な自治体として東松山市、さいたま市、行田市、嵐山町、小田原市相模原市八王子市、沼田市、佐倉市など。太田道灌のつながりでは、さいたま市、越生町、伊勢原市、東京都千代田区など。

川越市議会 2014-06-13 平成26年第4回定例会(第11日・6月13日) 本文

第二巻につきましては、大化の改新前後から後北条支配の終えんに至るまでを叙述した中世編と別巻板碑の二冊で構成されております。  第三巻につきましては、川越市域の近世歴史を通史的に叙述した近世編でございます。  第四巻につきましては、明治維新から第二次世界大戦終了までの川越町及び川越市歴史を扱った近代編でございます。  

加須市議会 2010-12-02 加須市議会 会議録 平成22年 第3回 定例会(12月)-12月02日−04号

花崎城跡は昭和55年から56年にかけて発掘調査が実施され、堀の中に畝を残す障子掘が発見され、後北条に関係する城として注目を集めました。現在城跡の一部は史跡公園として花崎2丁目に保存されており、堀跡がめぐり木々が生い茂る公園は多くの市民の憩いの場ともなっております。  また、油井城跡は鐘撞山とも呼ばれ、江戸後期に編さんされた「新編武蔵風土紀行」に掲載されている城でございます。

熊谷市議会 2008-09-16 平成20年  9月 定例会(第3回)-09月16日−一般質問−03号

また、このころ関東は小田原の北条によって支配されていましたが、天下統一を目指す豊臣秀吉関東に攻め入ったとき、この忍城を石田三成、浅野長政軍に水攻めさせました。その結果、忍城は落城し、初代成田助高から13代成田氏長までの約100年間の長きにわたる成田氏による統治は幕を閉じることになります。  

川越市議会 2007-12-10 平成19年第6回定例会(第12日・12月10日) 本文

続きまして、河越氏に関する文献上の調査がどうなっているかという御質問でございますが、河越氏に関する当時の文献史料につきましては、頼朝の時代から北条の時代の河越氏の動向を記しました、先ほど議員さんの御質問の中にも出てまいりましたが、「吾妻鏡」ですとか、入間川の氾濫にまつわる説話の中に河越氏らしき人物が登場する、これは鴨長明が残しました仏教説話集であります「発心集」、また、鎌倉時代の末期から南北朝時代

深谷市議会 2006-03-24 平成18年  3月定例会(第1回)-03月24日−07号

2、榛沢六郎成清、平安末期1205年、二俣川で北条のだまし討ちで戦死。3、田嶋將監経栄、鎌倉末期室町初期、新田武将で新田義貞の3男武蔵野合戦に破れ砂田村を開発する。4、初代安部摂津守弥一郎信勝は、天正18年、1590年、徳川家康関東入国に功労があった。2代信盛は、大阪冬、夏の陣の勲功により、岡部藩2万250石に加増され大名となる。13代信宝で明治維新を迎えた。

川越市議会 2005-06-14 平成17年第3回定例会(第13日・6月14日) 本文

河越氏にかかわる当時の文献史料につきましては、御指摘のございました「吾妻鏡」のように、頼朝の時代から北条の時代の河越氏の動向を記した、鎌倉幕府の記録もありますし、また入間川のはんらんにまつわる逸話の中に河越氏らしき人物が登場する、鴨長明が残した仏教説話集の「発心集」や、鎌倉時代末から南北朝時代の河越氏の活躍を描く軍記物の「太平記」などが知られております。

川越市議会 1999-06-16 平成11年第3回定例会(第10日・6月16日) 本文

それが少し経つと小田原の後北条によって滅ぼされて、川越地方は後北条が支配するようなことになった。そういう中でみなさんが御承知のように太田道灌、あるいはそのお父さんの道真、この人たちを頼って実はそうぎは川越に来られた、こういうことになっているようであります。むろん太田道真、道灌だけではなくて、その主に当たる上杉家を頼って来ておられたという話であります。

狭山市議会 1996-09-06 平成 8年  9月 定例会(第3回)−09月06日-04号

一方、入曽が文献に登場するのは、入曽鎮守御縁起や新編武蔵風土記稿で、16世紀北条の家臣によって村が大きくなり、江戸時代初期に南北に分かれ、さらに17世紀中期水野村が取り立てられました。私自身、先人が名づけた入間地区の入間という名は、まさに入間郡の中心をなすという意味や、 100年も培われてきた情緒に富んだ名をこよなくいとしく思う一人ですが、現在の行政はそれぞれの地で入間名を使っております。

川越市議会 1995-01-17 平成7年 建設常任委員会 閉会中(第1日・1月17日)本文

おそらく北条が天下を取っていたら、東明寺合戦の評価は違ってきていたんじゃないかと思います。ただそれが途中で消えてしまいます。途中で消えてしまう合戦というのはたとえば小手指の合戦とか、合戦というのはもうどこでも行われていましたから、たしかに守護大名戦国大名が変わる時期の合戦場であるという評価はできますが、それが日本全国的に見て最高の合戦かどうかというのはむずかしいと思います。  

草加市議会 1989-06-12 平成 1年  6月 定例会−06月12日-05号

人々の伝統的な生活、文化、民間伝承、伝承文化、そういったもの、そして労働の足跡を訪ねる、先覚者といいますか、そういったものをやはり含めたものが民俗ないしは民俗文化であるというふうに思うんですけれども、草加市歴史をどの辺に持っていくかということを、私浅学でちょっとわからないんですけれども、やはり縄文時代の土器も出土しておりますし、鎌倉時代北条ですか、あの辺のこととかいろいろあるんですが、1,000

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