唐津市議会 2019-06-14 06月14日-06号
ご案内のとおり、天守閣につきましては、平成29年7月のリニューアルオープンにあわせて、大きく、各フロアーの構成も含め、展示内容の変更を行ったところでございまして、現在は、唐津における中世から近世の歴史を紹介している天守閣2階の部分に当たります「唐津の歴史フロア」、それから3階につきましては「唐津焼フロア」ということで展示品108点を展示しておりまして、具体的にその種類としましては、古文書を20点、武具
ご案内のとおり、天守閣につきましては、平成29年7月のリニューアルオープンにあわせて、大きく、各フロアーの構成も含め、展示内容の変更を行ったところでございまして、現在は、唐津における中世から近世の歴史を紹介している天守閣2階の部分に当たります「唐津の歴史フロア」、それから3階につきましては「唐津焼フロア」ということで展示品108点を展示しておりまして、具体的にその種類としましては、古文書を20点、武具
北前船とは、江戸時代から明治にかけて、北海道と日本各地を日本海航路で結び、海運を営んだ船団のことでありまして、近世物流の大動脈を担ったと言われております。
千栗地区から市原地区の900メートルの部分を残すのみとなっておりました近世の一大土木事業である千栗土居を後世に伝えるために、当時の北茂安町が残存状態のよい180メートルを保存区間とし、公園整備を行いました。公園として整備する前に、築造方法などの解明のために調査確認を実施しております。
その結果、議会棟に近いトレンチより、近世~近代の建物礎石と考えられる大型の石材を検出し、また同じトレンチより多量の近世陶磁器もあわせて出土しました。そのほかの3カ所のトレンチでは、遺構の確認はできない状態でございました。
唐津市といたしましては、近世から近代にかけての数多くの偉人たちや、偉人たちが残した偉業に再びスポットを当てるいい機会と捉えまして、佐賀県と積極的に連携を図ってまいりたいと考えております。 以上でございます。 ○議長(田中秀和君) 大西議員。 ◆12番(大西康之君) 積極的に連携を図っていただきたいと思います。
市内には、近世の城郭を初め、松浦党関係や草野氏関連の城郭や城塞など、数多くあると思っております。総数どのくらいが確認できているのか、そういった中で規模の大きいものはどういったところになるのか、またあわせて、その中で文化財として指定を受けているのはどこなのか伺いたいと思います。 ○議長(田中秀和君) 金嶽教育部長。
近世には鍋島氏が龍造寺氏の居城であった村中城を拡張整備し佐賀城がつくられ、城下町北部には長崎と小倉を結ぶ長崎街道があります。その沿線には町人町が形成され、今でも歴史的建造物が多く残っております。 幕末の歴史遺産としましては、佐賀藩の製鉄、造船などに関する産業遺跡がございます。
大川内山は鍋島焼に関する遺構が広範囲に残されておりまして、近世の窯業史や美術史を研究する上で学術的な価値が非常に高いことから、平成15年に国史跡に指定されております。この国史跡を後世に継承し、活用していくため、平成19年には保存管理計画を策定し、平成26年には、今後の史跡整備を進めるための史跡整備計画を策定しております。
今、5基の窯跡がありますけれども、今から400年以上前に、朝鮮半島より当時の最新の焼物の技術が日本で最初に伝来したところでもあり、まさにここから近世の焼物の技術が、美濃、瀬戸を初め、文禄・慶長役後は渡来した陶工らとともに、国内に広がっていったと言われております。
筑後川下流域に位置する川副町大詫間地区は、北半分は福岡県大川市の大野島地区、南半分が佐賀市の大詫間地区であり、近世まで、大野島地区は柳川藩、大詫間地区は佐賀藩と、歴史、風俗、言葉さえも異なった特徴を持っております。日本には3,000を超える島がありますけれども、1つの島でありながら2県にまたがっているのは、ここだけでございます。
唐津城は、主に近世、唐津藩時代のが中心に今展示をされております。小笠原記念館には、幕末から明治にかけての日本の政治や経済に大きくかかわった偉人たちの遺品が数多く展示をしてあります。また、小笠原記念館がある近松寺には茶室や日本式の庭園もありますので、これは国内外の方にも非常に魅力のある場所ではないかというふうに思っております。
多久市で管理しております史料はこれらが混在しておりますので、回答する上で非常に複雑になり、わかりにくくなりますので、ここでは日記や書物を含めた江戸時代以前のものを近世史料、明治以降を近代史料と、そういう表現で説明させていただきます。
近世において、資本制社会の進展、進化する中で、自己所有権の機運が高まり、その過程の中で、人としての心が失われ、索漠とした事象を見聞するところであります。 このような御時世の愚かさを省みてのこの計画ではないかとの、そういう思いもするところです。近隣との交流の希薄化等の活字や挨拶は人間としての基本というような広報も耳にいたします。心遣い、思いやりの尊さが強調されるようなわびしい時代との思いがします。
次に移りますが、近世における人材育成ということで伺いたいと思いますが、近世の教育は、藩校、私塾等で、幕末、明治時代の人材を輩出しております。吉田松陰の松下村塾では、開校されたのが1年半くらいだったと書いてありますが、その中で高杉晋作とか、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋など明治政府の重要な役割を出した人材を輩出しております。
権現山、党家山につきましては、堀切を持った中世の山城がございまして、その後、文禄・慶長の役の際に石垣が構築された近世の城郭へとつくりかえられたことがわかっております。岩森山につきましては、石垣をつくった近世の城郭として築城されたということがわかっております。
少しさかのぼりますが、本市におきましては、昭和48年の市史編纂事業に伴い、田代領の近世について基礎資料となる対馬宗家文庫の資料を調査するため、対馬厳原町萬松院を訪ねており、それ以降、古文書研究の主体となった鳥栖郷土研究会が対馬への訪問を重ねるなど、関係機関や団体との交流を図ってきております。
幸いにも、鳥栖市におきましては、議員御承知のとおり、懐深い九千部の山並み、そして、悠々と流れます筑後川という大河につながります緑の風景、あるいは国指定史跡であります安永田遺跡や勝尾城筑紫氏遺跡を初めとしまして、古代から近世にかけての歴史的資源が豊富にございます。これらの資源を景観の視点でもう一回見詰め直して育んでいくことで、より魅力を高めることにつながるというふうに考えております。
ただ、今回の調査は、佐賀城全体から考えますと、ごく一部にしかすぎませんので、県の本丸歴史館に眠る約3万点にも及ぶ近世佐賀城関連の文献調査を県の協力を得ながら、26年度以降も続けていくことが必要になるのではないかと考えております。 以上が今後の主な取り組みでございますが、佐賀城に関しましては先ほど少し触れましたが、本丸から天守への入り口がどこにあったのかなど、多くの謎が存在しております。
さて、本市は、勝尾城筑紫氏遺跡以外にも、安永田遺跡を含む柚比遺跡群、旭地区の本行遺跡、田代の太田古墳、ヒャーガンサン古墳、赤坂前方後円墳、剣塚前方後円墳、庚申堂塚前方後円墳などの古代遺跡、朝日山城、所隈城などの中世遺跡、長崎街道を初めとする近世遺跡、鳥栖駅駅舎などの近代遺跡、また、由緒ある多くの寺院、神社が市内に点在し、それぞれの遺跡から出土した土器や埴輪、銅鐸鋳型、輸入陶磁器類、鉄器や金装飾品、勾玉
古代には万葉に歌われました航路として、中世から近世にかけては元寇や文禄・慶長の役の舞台としてさまざまな歴史が展開します。また、江戸時代以降の肥前陶磁器の発生と拡大も唐津の地を通じて行われ、唐津くんちなど庶民の文化が現代の唐津に息づいております。 ○議長(進藤健介君) 宮口市民環境部長。