みやき町議会 2017-06-07 2017-06-07 平成29年第2回定例会(第2日) 本文
先ほど課長の答弁では、どうかわからないというような答弁ですけれども、もう佐賀県の有名人だけでなくて、小説、あるいは歴史書に載っている人物だけじゃなくて、地元の人たちもかなりそういう方がいらっしゃると思うんです、明治時代ですね。 今回、市村清先生のリコーでの発展、あるいは事業の王と言われる市村社長の発想は、我々の地元にとっては最高の人だと思います。
先ほど課長の答弁では、どうかわからないというような答弁ですけれども、もう佐賀県の有名人だけでなくて、小説、あるいは歴史書に載っている人物だけじゃなくて、地元の人たちもかなりそういう方がいらっしゃると思うんです、明治時代ですね。 今回、市村清先生のリコーでの発展、あるいは事業の王と言われる市村社長の発想は、我々の地元にとっては最高の人だと思います。
明治時代の歴史遺産としましては、柳町にある旧古賀銀行、旧古賀家や、先ほど議員言われましたけど、11月18日に国の登録有形文化財の答申を受けた水ケ江にある旧百崎家住宅などの建築物があり、当時の景観を今に伝えるものとなっております。 次に、明治維新150年を佐賀市としてどういうふうに考えているのかという御質問にお答えいたします。
県立図書館においては、マイクロフィルムに保存されている明治時代の新聞に掲載されていないか、また、明治6年以降の相知村長の日記の中に記載がないかなど探してみましたが、残念ながら羽熊についての記載を見つけることができず、由来がわかる資料などを確認することは、現段階ではできていない状況でございます。
身近なところでは明治時代より九州の大都市は熊本市、鹿児島市であったものの、博多駅まで新幹線が延伸され福岡市は現在155万人を超すところとなり、今では九州の政治経済の中心として位置づけられています。同じように北信越地方では従来からの大都市、金沢市、富山市にかわり新潟市が近年大きな発展を見ました。これも上越新幹線がいち早く建設され、東京からアクセスがよくなった効果です。
江戸時代から明治時代にかけて、日本は大変変動の時代でございました。長年続いた武家の時代から、市民の力に政治を委ねる、そういう活気のある時代でもありました。そのときに生きて活躍した佐賀の偉人は数多くおられます。 後ほども質問をいたしますが、島義勇侯もその一人であります。今年8月に世界遺産に登録された三重津海軍所跡もその時代のことでございます。
世界遺産を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は、幕末から明治時代にかけての製鉄や造船、石炭産業を主とする重工業分野において日本が急速に近代化していった物語を8県11市にまたがる23の資産で構成したものでございます。 本市に所在する三重津海軍所跡は、造船分野における幕末期の取り組みの様子を具体的に示す産業遺産として、23の構成資産の一つとして選ばれております。
130年前は湿地帯で水路が幾重にも交錯して、明治時代は佐賀の役では激戦地として多数の犠牲者が出たとの伝説もあり、何となく質問しづらいことでございました。昭和30年の三川と南茂安が合併して三根村となり、地理的に役場ができたり、中学校が建設された経過があります。今後、この地区が定住促進とあわせ、活力あるまちづくりを目指すためにも、元気のある答弁を求めます。
そこで、我が国の歴史教育を振り返りますと、我が国では明治時代の初期の学制発足以降、歴史を学校で教えるようになったとされています。 明治23年の教育勅語の発布と小学校令の改正を機に、国家主義的な歴史教育が重視されるようになりました。
次に、絵図の調査でございますが、慶長年間から明治時代までの佐賀城を描いた絵図27点についての比較検討を行っております。天守閣が4層5階の建物であった可能性や天守閣が焼失した享保11年の火災を契機として、二の丸の再建だけではなく、本丸部分についても大がかりな石垣補修などを行っていることが明らかとなりました。
そのベストテンの一番上が芳谷炭鉱でありまして、採掘量、そしてまた鉱夫1人当たりの採掘量、非常にずば抜けて大きい炭鉱であったということが、この明治時代の資料からわかると思います。 しかしながら、芳谷炭鉱は、その後、大正に入ると、だんだん衰退し、相知地区や厳木のほうがどんどん元気を出してきている形になってまいりますけれども、そういった資料としてきょうお出しいたしました。
これは、筑後川の下流域である早津江川分流から筑後川本川河口までの区間、川のほぼ中央に存在する延長約6キロメートルの明治時代に建造された石組みの工作物であり、当時、主要な物資の輸送手段で、船の航路を確保するためのものであります。
次に移りますが、近世における人材育成ということで伺いたいと思いますが、近世の教育は、藩校、私塾等で、幕末、明治時代の人材を輩出しております。吉田松陰の松下村塾では、開校されたのが1年半くらいだったと書いてありますが、その中で高杉晋作とか、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋など明治政府の重要な役割を出した人材を輩出しております。
そもそも日の丸は2007年9月21日の東京地裁判決、教師に日の丸、君が代を強制した東京都教育委員会を告発した裁判でも、我が国において日の丸、君が代は明治時代以降、第2次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは否定しがたい歴史的事実と述べています。
それは明治時代につくられた教育勅語です。(「そうだ」と呼ぶ者あり)教育勅語というと、戦後の占領政策のもとで、戦勝国の意図と日本人の自己反省に基づいて否定され、排除されたものですので、現在においても否定的な印象をお持ちの方もいらっしゃいますが、原文には触れませんが、その内容はまさに真っ当なことが書かれており、12の徳目に分けることができますので、御紹介をしたいと思います。 1、孝行。
明治時代初め、北海道開拓使判官であったその当時の功績が100年以上たった今でも北海道の方々に語り継がれていることを誇りに思うところでございます。このことは、地元佐賀市民もきちんと知ることが必要であり、こうしたことが郷土を愛する心へとつながっていくものと考えております。
しかし、明治時代からの中央集権から、そして地方に光をというか、暮らしをという理念のもとで、地方分権、地域主権が掲げられたことについては、やはり理念としては非常に賛同するところがあります。
それは、旧唐津銀行そのもの、あるいはそれを設計した辰野金吾にまつわるさまざまな人物、あるいは作品、あるいは旧唐津銀行が建設されました明治時代の産業、そういったものに係る特別展示を開催していきたいというふうに考えております。 また、それ以外にも民間の独自のさまざまなイベントというものを誘致したいというふうに考えております。
旧大島邸の活用を考える懇話会のアドバイザーでもございます神奈川大学名誉教授の西和夫氏に委託しました旧大島邸学術調査報告書の中の評価の概要のお言葉によりますと、明治時代の大規模かつ極めて上質な住宅で、当時の和風住宅の庭を伴う建物構成や意匠の優秀さと特徴をよく示している。
(産業企画監兼商工観光部長 落合裕二君登壇) ◎産業企画監兼商工観光部長(落合裕二君) ことし4月に早稲田中学校、高等学校が開校いたしまして、早稲田と唐津との縁というものも注目をされておりますし、また来年3月に旧唐津銀行がオープンすることに伴いまして、明治時代に、その時代に活躍した唐津の人たちというものにも注目を浴びるのではないかというふうに考えています。
末盧国が誕生した弥生時代、それから久里双水古墳の造営とともに始まった古墳時代、遣唐使、遣新羅使の奈良、平安時代、元軍と戦った鎌倉時代、松浦党が活躍した室町時代、それから太閤秀吉と日本じゅうの武将が布陣した安土桃山時代、江戸時代の無血クーデターと言える虹の松原一揆、それから石炭産業で栄えた明治時代と、それぞれの文化財の大切さを言うならですね、どんな言葉でも言い尽くせないくらいすばらしい文化財が残っております