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平成29年 1月27日歴史文化魅力発信調査特別委員会(研修会)−01月27日-01号

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  1. 堺市議会 2017-01-27
    平成29年 1月27日歴史文化魅力発信調査特別委員会(研修会)−01月27日-01号


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    平成29年 1月27日歴史文化魅力発信調査特別委員会(研修会)−01月27日-01号平成29年 1月27日歴史文化魅力発信調査特別委員会(研修会)                平成29年1月27日               研  修  会  記  録                   講  師              大阪大学大学院文学研究科教授                 福 永 伸 哉 氏             堺    市    議    会 〇午後2時2分開会
    ○森 委員長  それでは、定刻となりましたので、ただいまから歴史文化魅力発信調査特別委員会研修会を開会いたします。  本日は、お忙しいところ、歴史文化魅力発信調査特別委員会研修会に御出席いただきましてありがとうございます。  御存じのとおり、本市では、大阪府、羽曳野市、藤井寺市とともに、百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産に登録するための取り組みを進めており、平成23年5月に百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議を設置し、4自治体が連携し、登録へ向けた事務の調整、ユネスコへの推薦書の作成、登録機運の醸成に向けた事業などを進めています。  残念ながら、昨年は世界文化遺産登録に向けた国内推薦の選定は見送られましたが、ことしの国内推薦を確実なものとするためにも、文化審議会から指摘があった課題を確実に解決するとともに、さらなる機運醸成を図ることが重要であります。  このような中、本委員会としましては、改めて世界に誇れる百舌鳥・古市古墳群の価値や魅力について理解を深めるとともに、より見識を高めるため、このたび大阪大学大学院文学研究科教授、福永伸哉先生に御講演をお願いいたしましたところ、先生には公私御多忙にもかかわりませず、快くお引き受けいただきました。心からお礼を申し上げます。  皆様におかれましては、どうか最後まで御清聴いただき、この研修会が有意義のものとなりますようお願いいたしまして、簡単ではございますが開会の挨拶とさせていただきます。  続きまして、本日の研修会の講師であります福永伸哉先生を御紹介いたします。  先生は、大阪大学埋蔵文化財調査室助手、同大学文学研究科教授を経て、2005年4月から現在まで大阪大学大学院文学研究科教授として活躍されておられます。また、百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録有識者会議委員を初め、文化審議会世界文化遺産無形文化遺産部会委員など、国や地方自治体における会議等の委員を務められるとともに、文化財に関する多数の著書を執筆されておられます。  本日は、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けてと題し御講演をいただきます。  なお、本日の研修会に当たり、御聴講の皆様には、著作権法に基づき、本研修会でお配りしている研修資料、お手元にあると思います、の複製、転載、配布等を行わないよう御配慮をお願いいたします。また、スクリーンに投影されるパワーポイント資料について、カメラ等による撮影は御遠慮いただきますように、よろしくお願いいたします。  それでは、福永先生、よろしくお願いいたします。          「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けて」                            講師 大阪大学大学院文学研究科                                 教授 福 永 伸 哉  こんにちは。今、御紹介にあずかりました福永でございます。  恐らく市議会の先生方、随分何年も世界遺産、あるいは百舌鳥・古市古墳群のお勉強といいますか、御研修をされているんじゃないかと思うので、私がここでまた改めてお話しするということは、本当にお釈迦様の前で仏法を説くような、何か落ちつかないとこがあるんですけれども、勇気を持ってお話しさせていただきたいと思います。  それで、先ほどちょっと著作権の関係で、ハンドアウトとか、こちらの画像のことを言っていただきましたけど、最近は随分こういうのがあちこちで、どういいますか、規制といいますか、昔はもっとおおらかにやっていたんですけれども、すぐに、例えば講演なんかに行っても、それを画像を撮って、場合によってはユーチューブに上げたりされる聴講者の方がいて、ちょっとトラブルが起こっているようなこともございます。  それとともに、もう一つは、きょうお話しするのは、百舌鳥・古市古墳群の、私どもも少し手伝わせていただいていますけれども、これをどういう価値づけをして世界遺産に持っていこうとしているかという、ある種の戦略も、あるいは百舌鳥・古市古墳群の評価もきょうお話しするんですね。  実は、百舌鳥・古市古墳群のライバルとなるような他地域の資産が、今、恐らくはっきりしているものであと2つぐらいあるんですね。北海道・北東北の縄文遺跡群と、あと佐渡の鉱山ですね。長崎は一足先に国内推薦を得ましたので、少なくともその2つがライバル関係にございまして、それぞれのチームが他の資産はどういう戦略でいこうとしているかという情報を非常に探しているんです。きょう、若干そういうことにも言及いたしますので、先生方のブログとかでそういうふうに書かれて、その他の資産をやっておられる方がそれを見ると、なるほど、百舌鳥・古市はこれでいこうとしているんだなということで対抗するいろんな戦略を考えられますので、そういう少し現実的なこともございまして、制約という形でちょっと御無理を申し上げますけれども、よろしくお願いします。  まず、きょうのお話は、もちろん世界遺産登録に向けてどういう課題があるかということを私なりに理解しているところをお話しさせていただきますけど、その前にちょっと百舌鳥・古市古墳群の歴史的な意義というものをおさらいといいますか、少しお話しさせていただいて、そして世界文化遺産登録へ向けての話ということにしようと思います。  お手元にお配りしましたハンドアウトは、パワーポイントを映しますものから少しだけ抜粋してつくってきたものですので、この、ない画像が映るかもわかりませんが、そのときには御容赦ください。これちょっと暗くなりますでしょうか。ありがとうございます。  大阪で初めての世界文化遺産登録に向けて、現在の国内推薦のプロセスが進んで、いよいよ第4コーナーを回っている、直線になって、これからたたき合おうかというあたりに来てるんじゃないかと思います。今後、年度末にそれぞれの推薦書原案というものをそれぞれの資産のチームから出していただきまして、5月、6月あたりに文化審議会ヒアリング、それを経まして、まだ日程はきちんと決まっておりませんけれども、6月の下旬から7月ごろには、来年度の国内推薦の候補が1つに絞り込まれる予定でございます。  世界文化遺産というのは、最終的にはユネスコで審議するわけですけれども、その前に国内推薦を得るということも、これは場合によっては本体の世界遺産の登録を承認されるよりも少しハードルが高いかもわからないというぐらいにいろんな事情がございます。これは、1つは顕著な世界的な価値を推薦書に過不足なく論理的に書き切るかということとともに、2つ目として、地元の御理解と熱意というのがどれぐらいあるだろうかということが国内的にはやはり問われることになります。  まず、百舌鳥・古市古墳群というのは、古墳時代の最盛期の代表的な古墳群であるということでございます。今、映しておりますのは、おおむね日本古代の、古いほうからいきますと、旧石器時代、縄文時代弥生時代古墳時代、飛鳥、奈良、平安、この日本の原始・古代の主な遺跡、とりわけ世界遺産に関係するものをこちらに書いております。  この中では、北海道・北東北の縄文遺跡群というのが、今、一番時代的には古い、これは暫定リストに載っているか、あるいは世界遺産に既になったか、そういうものがここにございますけれども、縄文遺跡群、そして我が百舌鳥・古市古墳群、もう少し新しくなると、飛鳥・藤原という、この奈良の飛鳥のあたりのことですね。あと、世界遺産になっているものとしては法隆寺のあたり、そして古都奈良古都京都、これぐらいのものが世界遺産になったり、あるいは現在、暫定リストという形でこれから世界遺産をめざしている日本国内の資産ということになります。  その中で、私どもの百舌鳥・古市古墳群というのは、日本列島の各地の勢力がおおむね政治的なまとまりをつくって、日本の国としてやっていこうというふうな歴史的なかじを切った。ちょうどそのかじを切るときに大変重要な役割を果たしたのは、ここにいる女王卑弥呼という人なんですけれども、その卑弥呼のころに大和政権というのができ上がります。  大和政権というのは、考古学証拠で言うと、全国各地に大きな前方後円墳という同じ形をした有力者のお墓が出てくる。東北の南部から九州の南まで、そういう同じ形をした有力者のお墓が出てくるということで、こういう前方後円墳が出てくるということで、日本列島の大部分の人たちが政治的にこれはまとまったんだろうというふうに考えます。そのまとまりの中心にあるのが、一番大きな前方後円墳をつくる畿内という地域の勢力であるというところはわかっております。  その畿内の勢力というのが、これは私なんかは邪馬台国畿内説という立場に立っておるものですから、こういう女王卑弥呼というのが日本列島の当時暮らしていた人たちの中で、王として共立されたという話が魏志倭人伝という中国書物に出てまいりますので、これが恐らく畿内のどこかだろうというふうに。九州では、また私は別な話をするかもわかりませんけれど、ここでは先生方、こちらのことですので、全く疑っておりません。私もこれは畿内の共立を、卑弥呼という人物が出てきたことによって、畿内を中心とする大きな日本列島のまとまりが初めて生まれたということです。  これは大きなことでございまして、現在、日本という国民国家ができておりますけれども、恐らくこのときに古墳時代というものがなかったら、今のこの日本列島の中に複数の国民国家が並立している可能性だって十分あったと思います。  古墳時代の前の弥生時代というのは、それぐらい地域文化の特色がいろいろ豊かに各地に存在していた時代でございます。古墳時代というのは、先ほど申したように、それを共通の前方後円墳というのをつくりますというある種の仕組みによってまとめた時代なんですね。だから、この古墳時代がなければ、日本の国の姿というのは随分変わっていたんじゃないかというふうに思います。  この古墳時代の直前の弥生時代の、これは終わりごろの話ですけれども、先ほど各地の地域の勢力がそれぞれ分かれていたという話をしましたけど、弥生時代には、これ1世紀から2世紀のころのことでございますが、九州九州で銅の矛の非常に大きなものを地域シンボルとして、それを持ち合うことによって仲間意識を確認していた時代です、九州のほうはですね。  この近畿や東海のほうは、大きな、これ銅鐸と言います。銅鐸、ちっちゃいものもありますけど、最後は非常に大きくなります。こういう銅鐸を共通に持つことで、近畿や東海の人たちは、ある種の政治連合を組んでいたわけですね。瀬戸内には吉備という大きな勢力がございまして、ここでも、これは特殊器台と書いてありますけれども、有力者のお墓にお供えする、特殊な土と特殊な模様でつくった大きな器を載せる台、1メートルぐらいあります。そういうものをこの吉備の勢力というのは共通に持って、政治的な連合をアピールしていたわけですね。  日本海の出雲や越の勢力というのは、有力者がつくる独特の形をした、アメーバーのような形をした墳丘墓を共通のシンボルにしまして、地域のまとまりをつくっていたわけですね。ですから、もし古墳時代という時代を経なければ、こういうふうな地域のまとまりがずっと後まで続いて、場合によってはそれが現代まで続いていたということだってあり得るかもわからないということでございます。  しかし、そういうふうにはなりませんで、このあたり、今、弥生時代の後期のあたりですね、それぞれの地域にこういうシンボルのようなものがございまして、これで地域ごとに連合ができていたんですけれども、前方後円墳が出てくる古墳時代になりますと、こういう前方後円墳という共通のお墓が、先ほど申したように、東北から南九州まで出てくるようになりまして、これで自分たちは大陸の勢力とも違う倭人として、1つの政治的なまとまりをつくろうというふうに大きく踏み出した時代であるということがわかります。  踏み出した張本人の人はこの人だと思うんですけれども、いろいろ卑弥呼さんはこういう感じじゃなかったかというふうに、いろんな方がいろんな絵を描いたり、人形をつくったり。こちらは由紀さおりさんですけれども、こういう感じの、結構近いんじゃないかと思います、この由紀さおりさんの卑弥呼像というのは、渡来系の顔をしておられますので結構近いんじゃないかと思いますけど。いろんな卑弥呼のイメージというのがございますが、こういう卑弥呼が女王になって、倭人をまとめるような立場に立ったということが非常に大きかったというふうに思います。  卑弥呼は、中国の魏に使いを送っておりまして、当時、中国の魏という国は、東アジアでは一番大きな国でございました。使いを送って、自分を親魏倭王という王の位を、王の立場を中国から認めてもらって、倭人社会のこれはもう紛れもない王であるということのお墨つきを、ある種の国際的なお墨つきを得るわけですね。これが239年のことでございます。そのお墨つきを得た証拠に金印とかもらってるんですけれども、それはまだ日本のどこからも出土しておりません。多分、この畿内のどこかに、今、埋もれているはずなんですけれども、出土しておりません。  金印以外にいろんなお土産物をもらって、その中に銅鏡100枚というのがあるんです。これは卑弥呼の使いが中国の魏の皇帝から銅鏡100枚という、こちらからもお土産を持っていって、その10倍ぐらいのお土産物をもらってくるわけですけど、その中に銅鏡100枚というのがございまして、この銅鏡100枚が一番古いような前方後円墳に副葬されている鏡ということになります。  ちょっとこの写真奈良盆地の東南部にございます箸墓古墳という古墳写真です。これは日本で最初の大きな前方後円墳です。長さが280メートルぐらいございます。これがその図なんですけれども、この中に入っているのは弥生時代の終わりごろの大きな墳墓がこの中に入っているんですけど、大きさを比べてみると、弥生時代の一等大きな墳墓と比べても、箸墓古墳というのは飛び抜けた大きさだというのがわかります。280メートルございます。体積はもう30万立方メートルです。全部土盛りでつくっているんですね、恐ろしいことに全部土盛りです。30万立方メートルの土盛りを盛り上げるには、ユンボとかを使わなければ、大体135万人ぐらいですね、1立米が4.5人ぐらいの歩掛というのが、近代工法が取り入れられる以前歩掛になりますので、135万人ぐらいが、この箸墓古墳をつくる土を盛るだけで、それぐらいの人がここで働いたということになります。135万人ということは、大体毎日2,000人ぐらいの人が2年間ぶっ通しでそれをやれば、それぐらいのものができるということですが、2,000人を動員して奈良盆地の南のほうでこれだけやろうと思うと、もう食料はどうするのかとか、その人たちが使う道具はどうするのかとか、本当に今では考えられないほどの、あの当時としてはロジスティックスの充実がないと、これはできなかったことであります。  このお墓については、実は宮内庁が、今、このお墓の縁の部分までくいを打って管理しているんですけれども、実はお墓は現在の地表面よりも外に伸びておりまして、ここの外のところはさっきの箸墓古墳の下のほうの一部分が続いているんですけれども、ここは宮内庁が管理していないものですから、中の調査ができるわけです。かつて、ここの部分の調査をしましたときに、こういう土器が出てきまして、大体、箸墓古墳がつくられていたころの土器でございます。  これを千葉県にあります国立歴史民俗博物館のチームが放射性炭素年代という方法で、土器の表面についている炭化物ですね、土器はおかゆのようなものを煮てつくってるわけですけど、ちょっと目を離したすきに吹きこぼれて、それが土器の外側にこびりついたりするんです。そのこびりついた炭化物を放射性炭素年代という方法ではかりますと、それが西暦の240年から260年ごろに、その箸墓古墳のすぐ上から出てくる土器がそういう年代に割り当てられるということが年代測定法でわかったわけですね。  そうすると、先ほど来、申しております日本の国の成り立ちに非常に大きな役割を果たしたという卑弥呼さんの亡くなったころと合致するわけですね。卑弥呼さんが亡くなったころは、何年ということはわからないんですけど、中国歴史書に、中国のある年号の間に亡くなったということが書いてあります。恐らく248年とか249年というころに卑弥呼さんが亡くなったというふうな情報なんですけれども、ちょうどそのころと、この箸墓古墳という日本で最初につくられる大きな前方後円墳の年代が合うわけですね。  私なんかは当然、畿内説でございますので、これは卑弥呼の墓の可能性が高いというふうにあちこちで言ってるんですけど、学問的にもかなりこれは妥当性のある見解になってきているというふうに思います。  今の箸墓古墳というのは、宮内庁が管理していて掘れないんですけれども、箸墓古墳から出た土器とちょうど同じころの土器を出す古墳、大体、箸墓古墳と同じような時期の古墳の中に、先ほど銅鏡100枚を卑弥呼がもらってきたと申しましたけれども、その有力候補であります三角縁神獣鏡という鏡がちょうど箸墓古墳と同じころの古墳から出てきます。その中には、景初3年という中国の魏の年号を持っているものがあります。先ほど、卑弥呼が親魏倭王という国際的な王の地位を認めてもらったというあの記事が中国魏志倭人伝に出てまいりますが、それを認めてもらったのが、まさにこの景初3年という、この年なんですね。  認めてもらって、鏡100枚のお土産物を持たせてもらったということなんで、これなんかはその年号をまさに持つ、これ中国の魏の鏡ですので、卑弥呼がもらってきた銅鏡の最有力候補ということです。こういうものが一番最初の古墳には副葬されているということになります。  そういう三角縁神獣鏡が今のところ日本で一番たくさん出土するのは奈良県でございます。奈良盆地の南のほうに桜井市というところ、あるいは天理市というところがございますが、そのあたりでたくさん三角縁神獣鏡というのが出るんです。この河内、和泉の地域ではさほど出ないんですね。そこがまたおもしろいとこでございますけれども。  そういうふうにして箸墓古墳という卑弥呼のお墓と私が考えている古墳が登場しまして、古墳時代という時代が始まります。日本列島各地で、前方後円墳だけで、もう6,000基近く見つかっています。全ての日本列島全部、古墳が何基あるかというのは誰も正確に数えたことはないんですけれども、文化庁なんかの最近の書かれたものを見ると、16万基以上はあるというふうに書かれておりますので、少なくとも十数万基以上の古墳日本列島の中に、わっとこの時代につくられたわけです。  古墳がつくられる時代というのは、先ほどの箸墓古墳が250年ぐらいといたしますと、それからおよそ350年間ぐらいの間ですね、古墳がずっとつくられるわけです。16万基とかの古墳がつくられるわけです。  日本古墳の特徴は、古墳には違う形のものがあるということです。これが日本古墳時代の非常に大きな特徴です。海外でも、こういう墳墓をつくる文化というのはあるんですけれども、大体同じ形のものをつくってるんですね、同じ時期には。ところが、日本古墳時代には前方後円墳もあれば、この鍵穴型の丸いほうがちょっと四角な形になっている前方後方墳というのもあります。そして円墳というのや方墳というのがあります。これ基本的な形は、この4つなんです。古墳時代が出発した時点での基本的な形というのは、この4つなんですが、後に述べます百舌鳥・古市古墳群の時代になりますと、前方後方墳というのがなくなっていきまして、このかわりに帆立貝のような前方部のほうが非常に短い帆立貝式古墳とか帆立貝型古墳とかという、もう一つ別な形のものが出てきますが、ともかく日本古墳文化というのは、古墳の形の違いが同じ時期に見られるということ、これは非常に重要なポイントでございます。  それとともに、前方後円墳だけ見ても、箸墓古墳、これは280メートルありますけれども、十数メートルのちっちゃい前方後円墳もあるわけです。あるいは前方後方墳も大きさの違いが、円墳、方墳も随分大きさの違いがあるわけですね。こういう古墳の形と大きさの違いで、有力者の、古墳をつくる人たちというのは有力者なんですけれども、古墳をつくらない一般の人たちというのはたくさんいるわけですけれども、古墳をつくるのは有力者です。古墳の形と大きさで有力者の地位が示される時代、これが日本古墳の大きな特徴でございます。  一番大きな古墳というのは、必ず前方後円型をしています。日本列島で一番大きな古墳というのは必ず前方後円型をしていますので、これが形の上からの格付では一番トップ。王墓なんかは、こういう前方後円墳になります。あとは、それぞれのこういう形の違いなんか、大きさの違いなんかで、それぞれの葬られた方の地位の違いであるとか、当時の地位の違いというのは、政治的な大和政権とのつながりの違いということにもなりますけれどもね。  先ほどの箸墓古墳というのは、つくられた同じころに日本列島でわっと古墳がこういうふうにつくられるようになります。これは箸墓古墳とほぼ同じ世代ぐらいの3世紀の半ばから後半にかけて、瀬戸内にわっと出てくる有力な古墳です。こういうふうに出てきます。これらの中には、かなり高い確率でこういう三角縁神獣鏡が副葬されていますので、卑弥呼がもらってきたような三角縁神獣鏡が、少なくとも西日本の政治的なまとまりをつくるような有力者の間に与えられている、あるいは分けられていると、こういうことが言えます。  古墳の大きさの話を先ほど申しましたけれども、それは個人個人古墳の大きさももちろん違うんですけれども、地域によっても古墳の大きさが随分違います。この縦の軸というのは、これ古墳のサイズを示していますけれども、一番大きなのは当然、これは古墳時代が始まって間もなくのころですけど、大和にございます。次に大きなのは山城、そして次は備前、吉備の地域ですね。そして九州地域とか、こういうふうになっていく。  このときには、河内には大きな前方後円墳はないんです。これはこれで非常におもしろい話ですけれども。ともかく古墳というものの形と大きさで、個人個人の立場の違いと地域の立場の違いというのが非常に明瞭に示されるようになったということが古墳時代の大きな特徴でございます。  この古墳時代を生み出した、この畿内の中でも、とりわけ最初は大和の勢力というのがリーダーシップを握っているんですけれども、こういうことでこの古墳時代政治的なまとまりを大和政権というふうに一般的に呼ばれております。  古墳時代は、先ほど申し上げたように350年間ぐらい続きます。350年間ぐらい続く間に、もう考古学ではどこの古墳のどれがどの時期だというのがほぼわかってますので、それぞれの時期に一番大きな古墳をつくっているのはどこかというのを比較してみますと、日本列島で一番大きな古墳は必ずこの畿内の地域にあるんですね。古いところでは、この箸墓古墳なんかが一番大きいですし、古墳時代の中ごろになりますと、これは大仙陵古墳、仁徳陵古墳ですけれども、これが一番大きいですね。  古墳時代の終わりごろになりますと、また奈良盆地の見瀬丸山古墳というのが一番大きいんですが、ともかくこの畿内という割と狭いエリアに必ず日本列島で一番大きなサイズの前方後円墳があるということで、大和政権のリーダーシップといいますか、主導権というのは一貫してこの畿内の豪族が握っていたということになります。当然、大和政権の王たちがその畿内から出ていたのであろうと考えられるわけでございます。  ただ、おもしろいのは、畿内というのはそれほど広くはないんですけれども、これは大阪湾を取り巻くエリアでございますが、350年間の古墳時代の間に一番大きな古墳がつくられる場所というのは一貫して大和盆地というわけではないんですね。一番最初に登場するのは大和盆地の南のほうですけれども、桜井市とか天理市のあたりですが、その後、100年足らずのうちに奈良市のあたりに移動して、さらに百数十年たつと、この百舌鳥・古市古墳群のエリアに日本列島で一番大きな古墳が出てくるわけです。  さらに6世紀になりますと、淀川のほうに一番大きな古墳が出てきて、最後はまた奈良のほうに大きな古墳が出てくるという、こういうふうに一番大きな古墳、多分これ倭王の墓と考えればいいわけですけど、ちょっと転々と移動しているわけですね。畿内というエリアの中ではあるんですけれども、転々とこう移動しているわけですね。  これをどういうふうに捉えるかですけれども、大和政権というのは畿内の豪族たちが打ち立てた連合政権でありますけれども、日本列島倭人社会の中では必ず畿内がリーダーシップを握っているんですけど、その中では、畿内のそれぞれの勢力が時期によって少しずつ主導権を握ったり奪ったり、次の勢力に主導権が渡ったりというふうな、割とこう移動しているんじゃないかと。しかし、全体として見ると、畿内の勢力が大和政権の主導権を握り続けていたということになります。  考古学のほうでは、こういうふうに奈良の盆地の中に一番大きな古墳がある時代、これを古墳時代前期、次に、河内平野に出てくる古墳時代中期、そしてこちらの淀川水系のほうに出てきて、最後に奈良盆地に行くんですけど、そのころを古墳時代後期というふうに呼び分けております。  ようやく百舌鳥・古市古墳群の入り口の当たりに参りました。百舌鳥・古市古墳群というのは、その古墳時代、前期、中期、後期で分けたときの古墳時代中期の王墓を含む日本最大の古墳群ということになります。  この王墓を含む日本列島最大の古墳群が河内の平野にできたころは、古墳の大きさが一番大きくなる時期でございます。その350年間の時代の間に一番古墳の大きさが大きくなる時期です。ということは、先ほどの古墳の形と大きさで葬られている人の地位が表示されるという古墳時代の特有の仕組みというのが一番発達した典型的な時期だということが言えるわけですね。  この点をもって、この百舌鳥・古市古墳群というのは日本古墳文化代表例であるという、そういう理屈が成り立つわけでございます。この点は百舌鳥・古市古墳群を世界遺産に持っていくときの理屈として、なぜ百舌鳥・古市古墳群を選ぶんだと言われたときに、いや、これは古墳文化古墳時代の仕組みが最高潮に達したときの日本列島の王権の古墳群であるからという、こういう理屈が成り立つんですね。  100メートル、200メートル古墳というのは岡山の辺にもございますし、群馬県のあたりにもございます。百七、八十メートルのものは宮崎県にもございます。ですから、それを例えばユネスコの世界遺産の方々が見られて、こっちにも大きいのがあるんだったら、それも一緒にして世界遺産の資産にすればいいじゃないかと言われたときに、いや、そうじゃないんですと。古墳時代の最盛期の仕組みを一番純粋に残している古墳群、しかもそれは王権の古墳群というのが、この百舌鳥・古市古墳群です。だから、それを代表として1つの枠組みに入れるということは、これが妥当なんですという、そういう理屈が成り立つわけでございます。  これは、先ほどのですね、左の軸はこれ時期でございます。上から前期、中期、後期ですけれども、前期のうちは大和の盆地の中に大きな古墳群があって、中期になりますと、この河内の平野に、河内、和泉の地域に出てくるわけですね。最後は淀川水系に行って大和に帰るということであります。  さあ、その百舌鳥・古市古墳群の出発点となった一番大きな古墳というのは4世紀の、恐らく西暦で言うと三百七、八十年ごろじゃないかと私は考えておりますけれども、藤井寺市にございます津堂城山古墳という古墳です。長さが200メートルございまして、しかもその古墳の周りにこういう、考古学では盾形周濠と言うんですけれども、昔の弓矢の矢を防ぐような盾の形をした大きなこの堀が、周濠が周りを取り囲みます。こういうふうな大阪平野では一番古い段階に出てくる巨大な前方後円墳というのが津堂城山古墳。これは百舌鳥・古市古墳群の大型の古墳群の出発点になったような古墳でございます。  この古墳明治年間に中があけられておりまして、今、宮内庁が一番中心部分だけを陵墓参考地ということで管理しておりまして、それ以外の場所は国の史跡になっています。明治年間に、地元の人がそれをあけたときに、こういう巴形銅器という、これは古墳時代のさまざまな器物に取りつけられる飾り金具なんですね。もともとこれは沖縄のあたりからとれる、足が曲がったような貝があるんですけれども、その貝をかたどったものなんです。こういう鍵のような曲がりぐあい、マジカルな力を持ってるということで、随分このデザインというのが古墳時代にも大切にされまして、これを青銅器で模しているものが、この巴形銅器というものなんです。日本列島の在来の青銅器でございます。  この巴形銅器というのは、最近、朝鮮半島南部の、韓国の釜山の西隣に金海というまちがございますが、そのまちで見つかった王墓群から、この巴形銅器というのが出土したんですね。ということは、これ津堂城山古墳の百舌鳥・古市古墳群のスタートとなった有力者と韓国の東南部の、これ伽耶という地域なんですけれども、伽耶の地域の有力者の間につながりがあったと、何かやりとりをしてる、交渉しているという、国際関係があったということが最近になってわかってきたわけですね。  これが今の申し上げた金海市というところにございます大成洞墳墓群、この丘陵上に大きな盛り土はないんですけれども、地下の墓室が大変大きな墓室をつくっておりまして、こういうところに先ほどの津堂城山古墳にもあったような巴形銅器が出てくるということですね。  それと、これは私ども大学に今あるんですけれども、藤井寺市に野中古墳というのがございまして、ここから鉄製のよろいかぶとが11組も出土しています。これらのよろいかぶとは、日本列島で当時、この河内エリアでつくったはずなんですけれども、この鉄の原材料とか、あるいはこういう鉄板をとじ合わせてこうした製品をつくる技術というのは、これは先ほど述べた伽耶の地域から来てるわけですね。そういうところから、鉄の素材であるとか技術を手に入れて、日本列島の河内のエリアで、こうしたよろいかぶとをたくさんつくっている、武器もたくさんつくっていますね。これは同じ野中古墳から出土しました伽耶の土器でございます。こういうやりとりを百舌鳥・古市古墳群の有力者が伽耶の地域とやっているということですね。  そうしますと、この百舌鳥・古市古墳群が登場するような4世紀の後葉から5世紀にかけての時期というのは、東アジアではどういう時期だったかということを考えてみますと、先ほど卑弥呼が使いを送った魏の国という話が出てまいりましたが、これは中国の北のほうにあった王朝であります。中国後漢を受け継いで、次に出てくる王朝が魏という王朝なんですけれども、その魏を受け継いだ晋という王朝があるんですが、それが316年に滅亡します。その後は、東アジアが、小さな勢力が勃興して、もうちょっと収拾のつかないような時期が少し経過いたします。そのころに、ちょうど4世紀のころですけれども、朝鮮半島百済とか新羅とか伽耶とか、高句麗は少し前から勢力を持っていますけど、朝鮮半島の諸勢力がそれぞれ国づくりを進めていくという、非常に大きな歴史の動きが始まる時代でございます、中国の魏とか晋が滅亡した後にですね。  考えてみたら、先ほどの大和政権成立する直前というのは、卑弥呼が親魏倭王という東アジアでの王の立場を中国の王朝が承認したというところから始まってるわけですけど、卑弥呼たちの立場を承認した中国の王朝というのは滅亡してしまうわけですね。そうすると、お墨つきがなくなってくるわけです。東アジアでは各地で勢力が勃興すると。  こういう中で、大和政権というのは畿内の豪族たちが連合で支えていた政権なんですけれども、大和政権の中の大和派と言ったらいいでしょうかね、大和盆地の勢力がリーダーシップを担っていた古いやり方では、そうした新しい時期に歴史の動きに対応できないんじゃないかということで、河内を中心とする大和政権河内派と言ったらいいでしょうか、これが新たに朝鮮半島南部の伽耶の勢力と連携を結ぶことによって、いわば実力で鉄をたくさん手に入れて、武器をたくさんつくって、そういう実力で大和政権の中の主導権を握っていった時代、こういうふうに百舌鳥・古市古墳群の時代を捉えることができる、古墳時代中期を捉えることができるんじゃないかと思います。  その百舌鳥・古市古墳ごろは、中国の北には北魏という、これは比較的強い勢力です。南のほうには、宋という、南宋があります。これも比較的強いですけれども、漢とか、あるいは魏のような、そういう影響力を及ぼすほどではありませんでした。朝鮮半島には、高句麗百済新羅、伽耶という、こういうものが台頭しています。  こうした東アジアの流動的な動きの中で、当然、倭人たちもその中で自分たちの国づくりを一生懸命進めていかないと、東アジアの中で、場合によっては、変な話ですけども、侵略されてしまうとか、場合によっては上下関係で言うと、少し下のほうになってしまうというか、そういう国際的な競争を感じまして、その競争の中で、この河内の勢力を中心とする大和政権河内派というのが生き延びていって、当時、最大の前方後円墳をつくりながら日本の国をまとめていくという、そういう役割になったんじゃないか。  そういう意味で、この百舌鳥・古市古墳群のつくられていた時代というのは、激動の東アジア情勢の中で日本列島の国づくりを一生懸命、大阪平野の有力者たちを中心にして進んでいっている時代ということが言えるわけでございます。  さあ、その世界遺産に推薦予定をしていますこの百舌鳥・古市古墳群でありますけれども、このあたりから少しハンドアウトも関係してくるかもわかりません。  昨年の12月の段階で、百舌鳥・古市古墳群、世界遺産というのは構成資産というのが必要です。その世界遺産として組み立てている中に、どういう遺跡があるのかというのを明示しないといけません。その構成資産としては、この百舌鳥のエリアで、今、29基の古墳ですね。そして古市のエリアで32基の古墳で、今、59基がこの資産として組み合わさっております。  この数は、今後変わるかどうかわかりませんけれども、後から述べますように、世界遺産の理屈づけをするときに、これだけの資産で過不足がないかということが厳しく問われますので、ちょっと要らないものというのはおかしいけども、必ずしも世界遺産の価値とは関係ないようなものが入っているじゃないかとか、これは同じようなものが多過ぎるんじゃないかとか、ちょっと壊れているから古墳としては残りが悪いので、少しこれは除いたらどうかとか、いろんな話が出てき得ると思います。現在の段階では59基、これを構成資産として、世界遺産の1つの組み立てができているということになります。  普通のこういう古墳群の世界遺産というのは、これまで世界遺産になっているものも含めて、エリアで指定する。エリアというのは、地続きで1つの地域古墳群ですよと言って、くくってしまうのが一般的なあり方です。ところが、この百舌鳥・古市エリアというのは、市街化が早く進んでいますので、これ全部エリアでずっと一続きで資産にしてしまうと、古墳古墳の間に、今、まちができていますので、そのまちを取り除かなくてはいけなくなるという非常に難しい問題が生じます。  実際に韓国の慶州というところがございますが、ここは新羅の墳墓群があるとこですけど、慶州では新羅の墳墓群を面的に地域として指定していまして、その中にある住宅を全部強制的に移転させているんですね。さすがに日本ではそういうことはできないと思いますけれども。  そうすると、もう一つ別なやり方として、それぞれの大きな古墳、あるいは小さな古墳も含めて、それぞれの古墳を一つ一つ集めて何か共通のコンセプトを与えて、これを世界遺産にしようと、そういう考え方で、それはシリアル・ノミネーションという考え方なんです。あちこち、最近、例えば明治日本の産業革命遺産というのが世界遺産になりましたけど、あれは九州から関東地方までの幾つかの離れ離れになっている資産を集めて1つの組み立てをしたものですね。ああいうものですね、シリアル・ノミネーションというのは。  そういうふうにして、百舌鳥・古市も百舌鳥・古市古墳群という名前ではあるんだけれども、その資産としてシリアル・ノミネーションで組み立てようという戦略でやっているところでございます。  百舌鳥・古市古墳群は、日本古墳代表である。これは何度も申し上げましたように、古墳時代、あるいは古墳文化の最盛期を示すものであるということで、古墳の大きさも非常に大きくなります、数もふえます。しかも、その時期の王権の古墳群であるということで、百舌鳥・古市古墳群の特徴としては、3つ挙げるなら、1つ目は古墳時代最盛期の王権中枢の古墳群、59基をもう厳選しましたよということですね。  特徴の2つ目は、その中に日本三大前方後円墳を含む世界最大規模の古墳群ですよと、こういうことですね。百舌鳥・古市古墳群の中には、200メートル以上の長さを持つものが11基含まれます。世界でも200メートル以上のものを1つの古墳群に11基も含む資産というのはないんですね。しかも、その中には仁徳陵古墳とか、あるいは応神陵古墳とかいう世界でも一、二を争うような傑出した大きさのものが含まれているということで、これは掛け値なしに、世界最大規模の古墳群と言っても間違いじゃない。国内的には、日本三大前方後円墳を含むというか、三大というのは結構、日本人好きですから、三大を含むと言ったら、なるほどと。国内推薦のときにはこれ重要ですけど、ユネスコで世界でこれを吟味されるときには、世界最大の古墳群であるということも十分アピールする必要がございます。  3つ目、これは非常に日本古墳文化の特徴なんですけれども、我々日本考古学歴史研究者は当然のことだと思っているんですけれども、先ほど来、申しておりますように、墳墓の形と大きさで社会政治秩序を示す古墳文化の典型であるということです。こういうあり方が、実は珍しいんですね。世界の墳墓群の中では、形が同じ時期に余り複雑なものはないと申し上げましたけれども、大きさと形でそういう葬られた人の地位を示すという、こういうやり方は非常に珍しいんですね。我々当然だと思っているんですけども、ここのところを世界の人にどう説明するかというのが、これがいわゆる学術的な理屈をつける場合には大変難しくて、今、頑張っているところでございます。  この3つの特徴が、百舌鳥・古市古墳群にはございまして、だから日本古墳代表であると。奈良盆地のものじゃなくて、大阪平野のこの百舌鳥・古市古墳群でないと代表とは言えないという。よろしいでしょうか。宮崎とか吉備のああいう大きな古墳群では代表ではない。なぜ百舌鳥・古市古墳群が代表かと問われたときには、こういう3つの特徴を持ってるということでございます。  特徴1ですけれども、これは王権の古墳群であるということですね。先ほど来、申しておりますように、日本列島では200メートル以上の長さの前方後円墳というのは、およそ37基ございまして、そのうちの3割がこの百舌鳥・古市古墳群に集中しているということです。これは大変、百舌鳥・古市古墳群の特色をよく示すものでございます。  この百舌鳥・古市古墳群をつくられていた5世紀ですけれども、おもしろい研究がございまして、石川昇さんという方がやられたんですけれども、この前方後円墳の体積を、5世紀のものを全部推算してみようということで、河内のエリアに、これは河内が分国して和泉と分かれる前のことですから、これは百舌鳥・古市のエリアを全部含んでいるわけですけれども、この河内のエリアにつくられる前方後円墳の体積が641万8,000立方メートルあるというんですね。  土盛りをこれだけ盛るのに、先ほど言った1立米4.5人で考えると、大体3,000万人ぐらいになるということです。これはすごい人数です。もちろん5世紀の100年間ぐらいの人数でこれなんですけれども、これを5世紀の100年間のうちの、大体この地域では、年間の降雨日数というのがあって作業にならない日というのもございます。それを引いていくと、200日余り年間で作業できる日があると思うんですけれども、100年間に年間200日作業をするとして、この3,000万人を使おうとしましたら、大体千二、三百人が毎日毎日、天気の日には、この大阪平野の南のどこかで働いていると、土を盛り上げていると、そういう計算、それが100年間続くということなんですね。これは大変なことでございますね。食料はどう供給するか、道具をどう調達するか。  当時の河内の地域人口というのは、奈良時代人口からさかのぼって推計すると、8万人ほどになります。さほど多くないですね。この近江とかのほうがまだ多いんですけれどもね。この8万人ぐらいの人口の中には、子どももいますし、お年寄りもいるし、女性もいるということですね。この中から100年間で3,000万人動員するということは、これは無理だろうというのは石川昇さんの御研究でありまして、そのためには各地の余り古墳をつくってない地域というのはこのときあるわけですね。そういう地域から労働力を大徴発いたしまして、この河内の地域の百舌鳥・古市古墳群をつくるのに投入するという、そういう仕組みなんですね。  こういう仕組みが成り立つということは、間違いなく社会としてはかなり複雑な社会であるということでございます。文字はさほど発達していないですけれども、社会としては複雑な社会であるということがここからうかがえるわけです。  今後の特徴の2としまして、世界最大規模の古墳群ということを申し上げましたけど、世界の10本の指に入るものが3基あります。これは日本の三大古墳でもあるわけですけれども、そういうものが百舌鳥・古市古墳群にはあるということですね。  特徴の3としましては、日本古墳文化の典型的なあり方ですけれども、墳墓の形と大きさで秩序を表示するということです。大きなものから小さなものまで、百舌鳥・古市古墳群の中には全ての形とサイズのものが含まれているという点が重要であります。  よく海外の有識者に百舌鳥・古市古墳群を説明したときに、いや、これは300メートル以上のものだけをピックアップして資産とすれば、もうすぐにことしでも世界遺産になりますよと、そういう言い方をよくされるんですけれども、そうじゃなくて、大きなものから小さなものまで、形の違うものも含めて1つのセットとして意味を持つんですよということが、これが日本古墳文化の特徴としてきちんとアピールしていかなければいけないところということです。世界には、こういう墳墓の仕組みというのはほとんどないわけですから、これはだから大きいものだけ選ぶというふうに妥協するんじゃなくて、こういうあり方が人類文化の中で一つの意味を持った例があるんですよということを、オリジナリティーをアピールしていく必要があるというふうに考えております。
     世界の巨大墳墓との比較で言いますと、まず余り大きなものは世界にはないんですけれども、強いてそれでも大きなものを探していきますと、例のクフ王のピラミッドというのがございます。これは1辺が240メートルぐらいになります。高さが140メートルありますので、確かに山のように高いという点はすごいです。  あと、最近、ギリシャで見つかっているカスタという円形の墳丘墓がございまして、これはアレクサンダー大王の墓ではないかという説も最近出てきていますが、これがヨーロッパでは今のところ一番大きなものです。百五、六十メートルの発掘が続いております。基本的には、ヨーロッパにはこんな大きなものはないんですけれど、これはヨーロッパでも少し東のほうで、もう地中海からオリエントの影響を受けて大きなものができているんだと思いますが、これが今のとこヨーロッパでは大きいです。でも、百五、六十メートルですね。百舌鳥・古市古墳群に持ってきますと、第2番目のランクのものになります。  あと、小アジアトルコ共和国に300メートルぐらいの、あるいは350メートルの円墳が2つありまして、これはもう大きいです。これは世界でトップ5の中に入るぐらいのものです。紀元前七、八世紀というとこですね。  東アジアですと、秦の始皇帝陵が一番大きいです。これは以前は350メートルぐらいというふうに考えられていたんですが、それと比べると仁徳陵古墳がそれより大きかったんですけど、最近、地中レーダー探査とかをしまして、一番長い辺が515メートルぐらいあるんじゃないかというふうに復元されています。だから、ちょっと首差ぐらいで、長さとしては仁徳陵古墳よりも大きくなる可能性がある。だけど、仁徳陵古墳も堀の水を全部抜いてですね、本当に古墳の端がどこかというのを確かめると、これはもう500メートルを優に超えるという研究が実は数年前に出ているんです。ですから、いつか堀の水を抜くことがあったら、わっと発掘をして長さを確定するほうが私はいいんじゃないかと。515を超えれば大丈夫ということですね。  あと、東アジアに余り大きなものはございません。新羅の慶州にございます皇南大塚というのが120メートルですけれど、これは80メートルぐらいの丸いのが2つくっついてるものですから、1つの古墳とは言えないわけですけども。  ヨーロッパに行きますと、先ほどのカスタ、ギリシャのものを除けば、100メートル級のものが一番大きなものになります。北ヨーロッパに行くと、70メートルとか、このあたりが一番大きなものです。しかも、今、ヨーロッパの墳丘墓なんか、もちろん複数つくられているんですけれども、その間には、大きさで、例えば葬られた人の秩序を示そうとか、そういう狙いはなくて、隣の有力者が大きなものをつくれば、うちも負けないぐらいのものをつくろうと。よく隣の市の役所が10階建てだったら、うちも10階か11階をつくろう、そういう発想でございます。  そう考えてみますと、人類における墳丘墓の築造というのは、これは私の考えです。2つの類型があるんじゃないかと思いまして、1つは有力者がお互いに競争し合ってつくる。隣がこれぐらいをつくれば、うちもこれぐらいという。そういうところでは、大体、大きな墳丘墓のサイズというのはよく似通ってくるわけです。ヨーロッパで100メートルぐらいのものがあちこちにあるというのは大体こういう発想でつくられているんじゃないかというふうに考えています。  そうじゃなくて、飛び抜けて大きいものがある地域、世界では3つか4つぐらいの地域しかないわけですけど、それは飛び抜けて大きいということを1つの売りにしまして、権力の大きさを見せることによって王が偉大なんだとか、そういうことです。統治を目的とした墳丘墓築造というのがあるんじゃないかと。百舌鳥・古市古墳群の場合は、この統治を目的とした大きな墳丘墓に加えて、さらに形の違いと大きさの違いで、この2番目の目的を実現しようとした非常に重要な事例になるんじゃないかというふうに考えております。  まとめますと、世界文化遺産としての価値は、世界最大級の王墓群であるということですね。しかも、形と大きさの違う古墳を統治手段として利用した。文字は普及してないんだけれども、そういう形で古代国家の形成に向かったまれな例であるということでございます。  1つだけ残念なのは、百舌鳥・古市古墳群の多くの、これは宮内庁が管理しているものが多いんですけど、木が生え放題、荒れ放題になっているので、これは何とか世界遺産を機にきちんと散髪をしてもらいたいというふうに思っています。江戸時代には、これは履中天皇陵古墳、こんなにすっきりしていたんですね。  最後に、少しだけ国内推薦に向けての話をいたしますが、国内推薦、去年の段階で推薦書原案を出していたのは4つの資産がございました。長崎と北海道・北東北、百舌鳥・古市、佐渡。このうちの長崎は、もう去年、国内推薦を決めましたので、もう先に行ってしまいました。その残ったものでは、暫定リスト入りが一番古いのが北海道・北東北ですね、そして次が百舌鳥・古市、次が佐渡ですね。このあたりの争いになってくるんじゃないかというふうに思います。  文化審議会文化庁から百舌鳥・古市古墳群に対しては、昨年度5項目、今年度も5項目の課題が示されました。それはハンドアウトにあるとおりでございます。この5項目の課題でございますが、何を言ってるのかよくわからないと言えばわからないところがあるんですが、少し文化庁の考え方をそんたくしてお話ししますと、まず2015年7月に示されたものは、階層性の意義をさらに明確化せよということですね。形と大きさで葬られた人の立場を示すというのは、これは非常に珍しい事例なので、この部分をちゃんと実際の手がかりを、そう考えることができる手がかりを示しながら、この点をきちんと理論的にはっきりしてくださいということですね。構成資産の中でそれをちゃんと証拠立てなさいということです。  2つ目の真正性の観点を踏まえた個別資産の説明ぶりということですが、それぞれの構成資産、現時点で59基ですけど、それぞれが世界遺産の価値をきちんと示せる材料になっているかということ、ついでに入れたようなやつはないかとか、そういうことを言ってるものであります。真正性というのは、それが世界遺産の価値を本当に示す資産として適切かどうかということですね。それを踏まえて個別資産の価値を説明しなさいと。  国内外の同種の資産との比較検討。これはいいですね。  あとは、周辺の緩衝地帯も含めた保全をやりなさいということと、5番目は来訪者の管理をきちんとしなさい。特に百舌鳥古墳群と古市古墳群は10キロほど離れていますので、それをどうやって来訪者にガイドしたりするとか、交通をどうしたりするかという、そういうことをきちんとやりなさいということであります。  これが今年度ですけれども、昨年の7月に示されたものは、もう少し詳しくなっています。5項目というのは変わりません。内容もさほど変わらないんで、大体、先ほど述べたような線に従ってブラッシュアップすればいいんだと思います。古墳の階層性、これが普遍的価値を持つんだという、これは日本古墳文化にある珍しい特徴なので、これをヨーロッパの人たちに対しても説明できるように理屈立てをしなさいと、証拠をもって理屈立てしなさい。  2番目は、各資産が全体として顕著な普遍的価値に貢献しているかどうかということですね。構成資産の内容と数がこれでいいかどうか、過不足ないかということでございます。  3番目は、これは古墳文化の特質というものを東アジア文化史の中から説明することということは、さっきこれも申し上げました。形と大きさで、特に大きなものをつくったり形の違いをつくってるということがどういう意味を持つのかという、これをもう少し周辺地域と比較しながら際立たせてくださいということです。  4番目と5番目は、その資産の保存、管理、活用のことでございます。本体そのものだけじゃなくて、眺望も大事なんですけど、眺望以外に水の環境とか、これから見つかる地下のものをどうするかとか、そういうことも考えてくださいということですね。  5項目です。昨年度5項目、今年度5項目ということです。よそを見ますと、これは北海道・北東北の縄文です。何項目の課題が示されたかということ、これ実は余り外には出ていない情報です。これは新聞からとってきますと、9項目も示されてるというんです。これは大変重い指摘だと思います。9項目というのは、5項目の2倍ぐらいの項目が北海道・北東北の縄文遺跡群に対しては示されている。これ簡単にはクリアできないですね。  佐渡、これもね、佐渡のホームページを見ても、どこにも何項目というのは出てこないけど、新聞を探し回って、今年度5項目。去年幾らだったかというと、これも新聞を探し回りまして。これは百舌鳥・古市古墳群も5項目です、出てますね。佐渡は、昨年は4つの課題です。4つの課題が今年度になって5つにふえています。百舌鳥・古市古墳群は5だったのが5のままです。これは多分意味があることだと思います。つまり、少し先行していました佐渡がちょっとおくれたのか、百舌鳥・古市が追いついたということになります。少し課題がふえたということでございますので、百舌鳥・古市と横一線に並んだということです。  北海道・北東北はどうでしょうか。9項目、10馬身ぐらいというふうに私は見ております。この項目の数というのは余りオープンにならないということは、そういうインプリケーションといいますか、含意がある、何項目が示されているかということに意味があるということで、そういう点から見ますと、百舌鳥・古市古墳群は、今残っている3つの中で先頭を並んで走っている状況です。そういうところまで来たということでございます。  それで、1つだけ、ちょっとこれ冗談かもわかりませんけれども、私、先週、あるほかの県の委員会で、文化庁史跡の部門の方とお会いしたとき、何か大仙公園の中に自転車博物館ができるという話を知ってるかと言われて、いや、全然知りませんと言った。それは冗談じゃないですかと言ってたんですけども、大仙公園というのは、まさにシリアル・ノミネーションの資産の一番いいところの真ん中にあるものですね。大仙古墳の中にも、国の史跡古墳がございますし、あの緑地というのが面的にエリアが確保できない中でも、全体として雰囲気を保とうとしているという非常にいいアピール材料になる公園なんですね。ですから、そこに、今、何か、どういうものができるか知りませんけれども、冗談かもわかりませんけれども、何かできるとしたら、これはちょっと後ろから鉄砲玉が飛んでくるような感じもしまして、冗談であることを願いつつですね。  ちょっと時間がオーバーして大変恐縮でございました。話を終了させていただきます。ありがとうございました。(拍手) ○森 委員長  どうも先生、長時間ありがとうございました。  委員の皆さん、質疑応答の時間を若干用意していますので、もしございましたら、今の先生の内容に対しましての質問を受け付けたいと思いますけど、どうでしょうか。 ◆札場 委員  済みません、札場と申します。  今、先生が最後にいみじくも言われました大仙公園、先ほどね、その自転車の云々というところがあったかと思うんですけれど、私たちの認識としましては、この百舌鳥・古市古墳群ということで、古墳自体のところが対象というふうにずっと考えておったんですけれど、その近接のそういった緑地公園など、そういったところも対象というふうな形になってくるものなんでしょうか。 ◎福永 講師  その点は、どう言いますか、厳密に言うと、当然その資産とその周りにある緩衝地帯というものが大事になってくるんですけれども。ただ、百舌鳥・古市古墳群の場合には、最初からシリアル・ノミネーションと言いまして、少し離れた、1つの古墳群だと言いながら、少し離れた古墳を集めて1つの資産にしようとしているという、最初から少ししんどいスタートになっています。  そこのところをどういうふうに事務局、推進本部のほうで理屈立てをしたかというと、離れてはいるんだけれども、例えば眺望としては隣の古墳がちゃんと見えますよとか、その古墳の近傍から、例えば仁徳天皇陵古墳の周りに立ったときに、その景観を崩してしまうようなものは余り向こう側には見えませんよとか、そういうことをなるべく工夫をしながら、全体として離れたもので1つの資産にすることができるという理屈立てをしているわけですね。  ですから、そういう意味で申しますと、必ずしも緩衝地帯に入ってないからといって、すごいものがぼんとできたりするとか、そうなると、このまちとして世界遺産のあるまちをめざしておられるんだけれども、どういうおつもりなんだろうなということを少し疑問を持たれる。特にヨーロッパの方は景観を大事にしますので、持たれる方が多いんじゃないかと思いますし。  ちょっと先ほど冗談かもわからないということで申し上げたんですけど、今、大変デリケートな時期でございます。もう、ちょっと余り外では言えないことで、5項目、5項目で、今ちょうど佐渡と並んだということを申し上げて、百舌鳥・古市古墳群が追いついたとこなんですね。あと数カ月の間に文化審議会ヒアリングがあって、半年以内に決まるというとこまで来てるわけですね。こういうときに、大仙公園というのは、ある意味で緑地があって、資産そのものじゃなくても、それに準ずるような景観を持ってるということで、ヨーロッパのさまざまな有識者が来たときも評価されてる場所なんですね。  そういう場所であるということと、今この時期にということが私は大変危惧していて、むしろ国内推薦を決めるときのさまざまな議論の中で、これはちょっとオフレコですけどね、佐渡というのはそういう開発の圧力というのはもともとない地域なんです。ですから、佐渡の豊かな自然と、その景観の中にある資産を残しましょうと、ヨーロッパ人にとっては好かれそうなコンセプトで来るわけですね。そういうときに、こちらは都市化した中でも、なるべく景観に配慮しながらまちづくりを進めて、百舌鳥・古市古墳群の世界的な価値を今後も維持しながら、それを活用していこうという、そういう都市型のコンセプトの中で、非常にデリケートな時期で、余りそれとは、法律的にはもちろん可能ですけれども、そういういろんなものを建てるということは。それとは少しコンセプトがずれていくようなものが実際ににょきっとしたらどうなのかなというのは、ちょっと個人的な少し懸念ではあるわけですね。もうちょっと場所が変わるとか、あるいはもう世界遺産になった後に考えるとか、今、非常にまずい時期じゃないかというふうに個人的には思います。 ◆札場 委員  済みません、続きで申しわけないんですけれど、来訪者対策ということで、仁徳天皇陵西側にガイダンス施設、これを堺市は計画しているということなんですけれど、この来訪者対策ということと、その今言われている対象の古墳との兼ね合いですね、もう隣接するところにこういったガイダンス施設をつくるということ、ここのところはどうなんでしょう。今、先生の御説明であったら、景観の問題と、あとこの来訪者対策、ちょっとこれ相反するようなところがあるかと思うんですけれど、ちょっとその辺のところの御説明をお願いします。 ◎福永 講師  この辺もどういうものができるかということにもよるんですけれども、来訪者対策ということは、もともと理屈としては世界遺産の価値を来られる方にきちんと伝えられるような、そういう施設をつくろうということなので、うまく世界遺産の価値づけとコンセプトの中にはめ込めば、それが全くハニワ課長のような形だったら困るかもわかりませんけれども、ちゃんとなじむような形のものであったら、それは説明はつくと思うんですね。だから、あくまでも世界遺産のコンセプトの中に入り込めるような景観を保つとか、そういう中で世界遺産の価値を伝える役割を果たすんだという理屈なら、何とか大丈夫じゃないかというふうに私は思うんですけれども。 ○森 委員長  ほかにどうでしょうか。 ◆裏山 委員  きょうはどうもありがとうございました。  先ほど、非常にこの百舌鳥・古市古墳群の特徴である階層性の話がございましたけれども、私たちは普通にそのように思えるわけですけれども、ヨーロッパの方々にそういうことが受け入れてもらえるかどうかというと、ヨーロッパのほうにはやっぱりそんな余りね、考え方がないというか。それをこういう階層性をもって合理的に説明しなければいけないという、非常にこれ相手方がそういう素地がないのに、こちら側がそれを説明するというのは非常に難しいかなと思うんですが、その点はどのようにお考えでしょうか。 ◎福永 講師  おっしゃるとおりだと思います。私どもから言うと、そういうことも知らないのかというふうに、海外、特にヨーロッパの有識者たちには申し上げたいところなんですけれども、これは日本考古学研究がその部分を十分に海外にアピールしてこなかったということもあるんです。ただ、こちらの推進本部の方々の御努力で、何回も国際有識者会議を重ねて国際シンポジウムをやってきていますので、かなりその点の理解は進んでいってるんじゃないかと思います。  ちょうど昨年の9月に、百舌鳥・古市古墳群に海外の有識者を御案内したときに、その方は考古学の大変有名な雑誌の編集長なんですけれども、12月に出ましたその雑誌に、編集長の記事のところに百舌鳥・古市古墳群を見たと。これは全体ですばらしい古墳群であって、その価値や歴史的意義もよくわかったというふうに書いてくれているわけですね。  ですから、今、委員がおっしゃったような懸念はもちろんないことはないんですけれども、それはそこまで我々は、どう言いますか、自分たちの文化財の価値を切り刻んでまで世界遺産にするのか。つまり、大きなものだけ二、三基選んで世界遺産にすればいいんじゃないかという考え方になると思うんですけれども、全体としてまとまって、大きさの違うものや形が違うものがあることに意味があるという本来の主張を貫くべきかという点では、やっぱり私どもは本来の主張を貫かないと、堺市にある百舌鳥・古市古墳群としてのまとまりを誇るべきじゃないかというふうに思っているんですね。  それはかなり理解が進んできているので、多分プロセスとしては、もし古墳が国内推薦に選ばれれば、国内推薦を経てユネスコに推薦するまでの間に、海外の有識者にさらにユネスコ系の人に見に来てもらって、いろいろ評価をもらうわけで、そこでも十分説明する時間はございますので、まず国内推薦をとる段階では、十分これまでの私どもの研究とか堺の文化財の、これまでやってこられたことを自信持ってアピールすればいいんじゃないかというふうに思っております。 ○森 委員長  よろしいですか。 ◆裏山 委員  ありがとうございました。 ○森 委員長  ほかに御質問ありませんか。 ◆黒瀬 委員  先ほどの札場委員のお話に戻ってしまうんですけども、純粋に世界遺産をめざすというところだけでいくと、今進めようとしているガイダンス施設というのは、果たして本当に優先的に要るものなのでしょうか。 ◎福永 講師  ちょっとそのガイダンス施設の内容というのは、私、十分存じないものですから、それがどういうものができるのかというのは承知してないんで、簡単なことは言えないんですけれども、ガイダンス施設が現地に必要だという考え方は十分あり得ると思うんですね。例えば、著名な例のストーンヘンジというのもガイダンス施設が最近できましたけれども、やっぱりあの施設があるかないかで、来訪者に対する理解の進みぐあいというのは随分違うということがわかっています。  もちろん大仙公園に立派な博物館がございますが、これは堺のまちの歴史文化をトータルで伝える博物館でございますので、そういうものとは違って、本当に資産の近傍に百舌鳥古墳群を伝えられるような博物館があって、あるいはガイダンス施設があってということは、私、十分意味があると思うし、日本の国の史跡の保存活用のやり方から言っても、なるべくそこに近いとこにガイダンス施設をつくるというのは、これは1つのセオリーですので、特にその施設ができるかどうかということで大きな問題になることはないんじゃないかと思います。  要は、全体のその景観にきちんとマッチしてるかとか、あるいは例えばガイダンス施設をつくろうとして何か地中から世界遺産に関連するような文化財の続きが出てきたときにどうするかとか、むしろそういうほうが何か問題視されるとすれば問題視されるんじゃないかと思いますが。ちょっとどういうものができるかとか、計画があるかというのは承知しておりませんので、私のお答えがきちんと的を射たものかどうかというのも、その限りでということで御理解いただければと思います。 ○森 委員長  よろしいですか。黒瀬委員よろしいですか。 ◆黒瀬 委員  はい。 ◆小堀 委員  済みません、今、先生がおっしゃられた、そのガイダンス施設は必要であると。しかしながら、ハニワ課長のような形ではなく、景観にマッチしたものだとおっしゃられたんですけど、その景観にマッチをしているのかどうなのかという御相談をさせていただけるところがあるんでしょうか。  と申しますのも、今、先ほど先生がおっしゃった自転車博物館は現在進行形でして、ただそれも含めて景観にマッチをしているのかどうか、こればっかりは長崎さんが一旦取り下げてイコモスさんに御相談されたように、そういった第三者に御相談できるような場所があるのかどうか教えていただけませんでしょうか。 ◎福永 講師  世界遺産の取り組みというのは、それぞれの国の文化財保護のさまざまな仕組みの延長上にあるということになっていますので、今、委員がおっしゃる話で言うと、まずは例えば文化庁史跡の整備をされる部門というのがございます。日本全国にある国の史跡や特別史跡をどういうふうに整備・活用していくかというときに、そのガイダンス施設のことも含めて、さまざまなノウハウと見識を持っている部署がありますので、例えばそこに伺われるということだったら、まず一歩としてはあり得ると思うんですね。  それで委員おっしゃるように、本当にどれが景観にマッチしているのかどうかというのは、時代によっても違うし、受取手によっても違うと思うんで、これは簡単には言えないんですけれども、どうでしょうね、例えば、今、景観条例というのが幾つかのまちで出されていますし、そういうものを参考にすると、さすがにこれはあかんだろうなとか、そういう一定のラインというのは出てくるのかなという気はしますが、堺市も何かそういうのをお持ちなんでしょうかね。(「あります」と呼ぶ者あり)  例えば、そういうものを御参考にされるとか。おっしゃるように、受取手によってどうかということがあるんです。ただ言えることは、ヨーロッパ系の有識者というのは、かなり景観を大事にします。それは人口が少なくて景観を確保できるという、そういう地域の利点もあるんですけれども、景観の中にある遺跡、あるいは文化遺産というものの考え方というのは随分発達してるんで。以上でございます。 ○森 委員長  よろしいでしょうか。  ほかに御質問ございませんか。   (「なし」と呼ぶ者あり)  じゃあ、御質問もないようですので、このあたりで質問を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。 ○的場 副委員長  閉会に当たりまして、一言お礼を申し上げます。  福永伸哉先生におかれましては、長時間に及び貴重な御講演いただきまして、まことにありがとうございます。  我々一同、本日拝聴させていただきました御講演の内容を今後の委員会活動へ十分に生かして、百舌鳥・古市古墳群が置かれている現状や課題について議論を深めまして、世界文化遺産登録の実現に向け、なお一層努力してまいりたいと思っております。  また、御出席の皆様方には、最後まで御聴講いただきましたことを厚く御礼申し上げまして、閉会の御挨拶とさせていただきます。ありがとうございます。(拍手) ○森 委員長  それでは、これをもちまして、歴史文化魅力発信調査特別委員会研修会を閉会いたします。どうもありがとうございました。 〇午後3時25分閉会...