宮古島市議会 2022-06-21 06月21日-06号
宮古島の当時の住民が人頭税を首里王府に納めて、那覇からの帰り、宮古島へ帰る途中に台風に遭って遭難し、台湾に流れ着いて言葉が通じない。そこから誤解が生じ、なぜ殺されたかいまだに分かりませんけども、原住民に殺害された琉球民遭難殺害事件、その加害者の末裔、それから被害者の末裔の方々の和解の取組が非常に感動的です。
宮古島の当時の住民が人頭税を首里王府に納めて、那覇からの帰り、宮古島へ帰る途中に台風に遭って遭難し、台湾に流れ着いて言葉が通じない。そこから誤解が生じ、なぜ殺されたかいまだに分かりませんけども、原住民に殺害された琉球民遭難殺害事件、その加害者の末裔、それから被害者の末裔の方々の和解の取組が非常に感動的です。
平成元年に市の指定文化財となりました野嵩石畳道は、首里王府の公道、宿道の一部として、現在も昔ながらの石畳がきれいに残っており、本市にとって重要な文化財でございます。 石畳道の保護と活用を促進するために、定期的に草刈りなどの清掃を行うとともに、文化財パトロールも定期的に実施しております。 ○平良眞一副議長 屋良千枝美議員。 ◆18番(屋良千枝美議員) ありがとうございます。
その区画整理事業を担当したのが首里王府の役人、仲宗根親雲上、仲宗根にやという2人と碑文に記載をされています。その区画整理事業のときに、4つの角に東西南北四方神が祀られております。北の神様は今帰仁城跡に向かっております。南の神様は久高島に向かっております。東の神様は浜比嘉島に向かっております。肝心な西の神様ですが、そこにはどういう訳か、鳥を潰して埋めております。
当時は、首里王府から、首里城から浦添市の当山の石畳道を通って、このアガリガーの前を通って、そして宜野湾松並木を経由して普天満宮への参拝の参道であったと。その道中、休憩所になっていたということであります。
平成元年に市の指定文化財となりました野嵩石畳道は、首里王府の公道、宿道の一部として、現在も昔ながらの石畳がきれいに残っております。本市にとって重要な文化財でございます。石畳道の保護と活用を促進するために、定期的に草刈りなどの清掃を行うとともに、文化財パトロールも定期的に実施しております。
やはり、ここで寄附したからいいのではなく、さらにまた、観光の観点から見ても、そしてまた、この首里王府の第一王統と第二王統、この流れですね、教育的にも、南城市民にも、もっともっと深く知ってほしいというものも含めて、これは十分に納得できる、そしてまた、市民の理解も得られると考えまして、議案に賛成し、そしてまた、修正にはちょっと、気持ちはわかりますが、今回この緊急事態、本当に、あってはならないことではありますが
首里城の歴史、とりわけ第二尚氏の始祖、内間御鎖金丸こと尚円王とのつながりが深いここ西原町は、琉球王国時代、首里王府の直轄地ではありますけれども、首里王城を中心とした間切りの3等分した三平等と言いますけれども、その中の一つであります。この三平等の、ちょっと訂正してくださいね。ヒラは等しいという字が入ります、平等という、これが正しい字であります。三平等の1つでありました。
碑文に記された関係者も首里王府系図座に届け出た家譜より実在が確認できる等、貴重な記録碑文と思われるが、平田大比屋の墓と併せ文化的評価を伺います。 以上、よろしくお願いいたします。 ◎農林水産部長(森山紹司) こんにちは。 平田安則議員の1、家畜排せつ物の処理・保管についてお答えします。
国道から下につきましては、現在、兼久・仲伊保線、元の宿(しゅく)道(みち)(首里王府と各地の間切(県の市町村をむすぶ幹線道路。))ですね。
喜屋武マーブは、琉球王朝時代の1644年のろし台が設置され、進貢船や薩摩船の往来を首里王府に通報する火打ち城と呼ばれたる場所です。首里王府を守り、民を守る役割を果たしました。それから375年の時を経て、今度は災害から市民を守る情報電波塔として復活できますようお願いし、次の質問に移ります。 続いて、通告2.防災テレビキット導入について質問いたします。
新造佐阿天橋碑でございますけれども、このことにつきましては、首里王府によって現在の北谷町普天間川河口付近に新たに石造の橋を架設した記念として1820年に建立された石碑ということでございます。場所につきましては、現在の愛誠園南側の旧護岸の傍らに建っているところでございます。これは、当時の公道整備を示す重要なものとして、平成元年3月に宜野湾市指定史跡に指定したというような経緯がございます。
そのころ読谷村には「喜名焼」があったが、首里王府の命令により、那覇の壺屋に各地の陶工は集められ、1682年以降にと絶えてしまったと書いてあるのですが、1682年、こっちは重要です。当時の琉球王府は、美里村の知花、首里の宝口、那覇の湧田にあった窯場を現在の那覇市壺屋に統合し、陶器産業の振興を図ったと記録されています。
多良間田は、首里王府の時代に、多良間島の人々が平久保半島東海岸に通って稲作を行っていた田んぼ跡と伝承をされています。 この多良間田を活用するに当たり、これまで多良間村郷友会のご助力をいただきまして、案内板、説明板等の設置を行ってまいりました。 多良間田を現地において多良間島の子どもたちと石垣市の子どもたちに紹介し、先人の苦労と古くからの交流を思いにはせることは大変意義のあることと思います。
歴史資料は数ある収蔵品から時代を代表する首里王府からの辞令書、公文書や家譜等の古文書、また、唐人墓碑等がございます。民俗資料では、近年余り見られなくなった石臼、島材を使用し作製されたたんすなどの生活用具も各種展示しており、往時の生活の様相が理解できるようになっております。これらの貴重な資料を将来にわたり保存すべく、年2回のガス燻蒸を行い、資料等の保存に努めております。
首里王府から浦添市を通って普天間に行く前に、この浦添のほうで前に国の重要文化財になりました。浦添市にあっても普天間街道なのです、この国の重要文化財の名前は。それだけ由緒ある名前ですので、またその歴史的背景を踏まえると、ぜひともこのモニュメントの設置をお願いしたいと思います。 そして、先ほど交流拠点施設の話も出てまいりました。この交流拠点施設の中には、平和祈念像の原型が今も保存をされております。
首里王府から国王が三司官を含め、家臣100名を従えて、首里王府から普天満宮へ、国家の安泰と五穀豊穣を願って始まったものでございます。この琉球国王普天満御参詣が始まり、その間、宜野湾間切で休養していた王子が、国王が通るために松を植えて日陰をつくって、その松並木街道となったのが宜野湾並松であると聞いております。ですから、歴史的にも文化的にも大変意義のあるものでございます。
ウフタビラはかつて首里王府から通じる宿道、現在でいう国道としての役割も果たしていた歴史的にも重要な観光資源であります。ウフタビラを文化財として復興することで、具志川地区やうるま市の歴史文化を学ぶ場として価値の高い場所になることが見込まれます。また教育交流の場として、地域活性化にもつながりますので、整備を行い活用していくことが望ましいと考えますが、市の対応をお伺いいたします。
首里王府所在の首里、那覇においては、支配と服従により成り立っていた。ところが、村落においてはオソイとクサティであった。近世において形成されたと考えられる碁盤型村落といえども、祖先神と関係の深い、旧家が上位の位置に配置されるものである。たとえその村落の有力者、経済的有力者の富農があらわれても、彼らは上位の位置に居住することはなかった。
次に小項目6、嘉手志川と金びょうぶについては、首里王府が1713年に編さんした琉球国由来記や1731年の琉球国旧記及び1743年の球陽等に他魯毎が尚巴志の金びょうぶと嘉手志川とを交換して、領民の信頼を失い、ついには尚巴志に滅ぼされたとする内容が記されており、一般に語り伝えられているところであります。
近世の間切や村の地理的状況を描いた絵図として、首里王府が実施した土地調査事業において作成され、近隣の数カ間切ごとに集成をして作成したものが琉球国惣絵図であります。これらの絵図から当時の地名や海方切と呼ばれる海上線によって海域の境界が示されています。c、昭和40年に県知事が線引きした糸満漁協の共同漁業権設定の図面についてお答えします。