宜野湾市議会 2022-10-18 10月18日-06号
半旗につきましては、毎年6月23日の慰霊の日と8月15日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」、いわゆる終戦記念日でございますけれども、両件につきましては国、県からの依頼文書に基づいて半旗掲揚をしている状況でございます。 ○呉屋等議長 平安座武志議員。 ◆9番(平安座武志議員) ありがとうございます。国、県の依頼に基づいて半旗の掲揚をしているということですね。はい、分かりました。
半旗につきましては、毎年6月23日の慰霊の日と8月15日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」、いわゆる終戦記念日でございますけれども、両件につきましては国、県からの依頼文書に基づいて半旗掲揚をしている状況でございます。 ○呉屋等議長 平安座武志議員。 ◆9番(平安座武志議員) ありがとうございます。国、県の依頼に基づいて半旗の掲揚をしているということですね。はい、分かりました。
昨日、終戦77年目を迎えて、慰霊の日でございました。12時の黙祷から始まって、式典をNHKのテレビで見させてもらったのですが、残念なことがあったのです。テレビでも聞こえるのです。岸田総理が慰霊の日で日本全国の国民を代表して弔事を述べられているときに、「帰れ」とか、「何なんだ」とやじが聞こえるのです。
それから終戦を迎えて、平和主義の日本国憲法が生まれましたけれども、今ロシアの軍事侵攻の問題と併せて、私非常に今の国内の政治の状況が危うくなっている。例えばこの問題に乗じて台湾有事、あるいは核の共有というふうに殊さらあおってきている。
これは、昭和19年から昭和20年、終戦にかけて宮古島の平良第一国民学校、それから下地の国民学校の小学3年生から大体6年生までの児童生徒が宮崎県の小林市のほうを中心とした地域に学童疎開をしております。およそ100名、家族入れて96名ぐらいというふうにカウントしておりますけれども、私はこの件について前政権のときから4回ほど一般質問をしてまいりました。
生き残った県民は、終戦後いち早く、悲惨極まる激戦地となった糸満市や八重瀬町など南部地域から戦没者の収骨を進め、魂魄の塔をはじめ慰霊碑を建立し、戦没者の霊を弔ってきた。しかし、いまだ完全に収骨は終わってなく、戦後76年が経過した今でも遺骨の収集が行われている。遺骨のDNA鑑定による身元確定と遺族のもとへ返還する新たな取組も行われている。
氏は、いとこの比嘉平助氏と共に、終戦を迎えながら亡くなった避難民の方々を埋葬する作業にあたりました。古知屋共同墓地(志利川原)に埋葬された603人の方の、氏名、年齢、本籍地、死亡月日を書き記しました。その名簿をもとに、戦後、多くの遺族の遺骨引き取りが行われ、身元不明の方々のことを案じながら氏は他界されました。
当該箇所については、なだらかな傾斜がある戦前からの住宅地でありましたが、終戦後米軍に接収され、米軍がコーラルを採掘したために大きなくぼ地ができ、そのくぼ地を埋め戻し造成し、住宅ができたところでありますが、昭和57年4月に県が急傾斜地崩壊危険区域に指定し、崩壊防止の整備がなされたところと承知しております。
生き残った県民は、終戦直後から心身の傷を癒す間もなく、悲惨極まりない激戦地となった南部地域から戦没者の収骨を進め、魂魄の塔をはじめとする慰霊碑を建立し、戦没者のみ霊を弔ってきた。しかし、いまだ完全に遺骨収集は終わっておらず、戦後76年が経過した今も行われている。さらに、遺骨のDNA鑑定による身元確定と遺族の元へ返還する新たな取組も行われている。
戦前から続く教育・文化等の歴史や終戦直後から本土復帰前後の社会の歩みと急速な都市化等を経た本市の歴史を調査し、多角的視点から「社会と文化・教育編」の市史編集に引き続き取り組んでまいります。
沖縄県の終戦の慰霊の日、また全国の戦没者追悼式等に合わせて行っておりますが、大変申し訳ないですけど、野党の皆さん、議員の皆さん、ほとんど来られませんので。石垣市の鐘打式にですね。 〔何事かいう者あり〕その鐘打式に来ないのに、また新たな鐘打式をやったらどうかと、発信したらどうかというのは、まず、自分たちが……。
終戦後、米軍は伊江島、今帰仁、本部の住民を現在のキャンプ・シュワーブ一帯を大浦崎収容所として、強制的に移住させられました。最大2万人余の住民が収容されました。後に伊江島村民だけは、久志区の収容所に移動させられました。久志区の収容所跡には記念碑が建立されています。大浦崎収容所跡には、そこで亡くなられた県民が埋葬されたままになっています。
まず今年度の8月15日は、75年目の終戦記念日を迎えました。私たち県民が平和な誓いを改めにする日です。同じ75年前に広島と長崎に原爆が投下されました。 戦争体験者は高齢化が進んで、戦争の実相をいかに次世代に継承していくかが懸念されております。それだけ戦争遺構や、やはり記録を後世に残すことが重要になってまいります。
本市における平和祈念事業、こちらの目的につきましては、終戦から75年を迎え、戦争体験者が年々減少する中、改めて戦争の悲惨さや命の尊さを見詰め直し、次の時代を担う若い世代のみならず、広く市民全般に平和の大切さを継承することでございます。平成30年度につきましては、市立の4中学校及びサンエー宜野湾コンベンションシティ店で出前講座や啓発イベントを行いました。
第二次世界大戦の終戦後75年を迎え、節目の年でもあります。終えんの地でもあります糸満市摩文仁の世界の恒久平和を祈念し、平和情報を発信する沖縄県平和祈念公園において、全戦没者追悼式が開催されます。沖縄戦の戦没者の御冥福をお祈り申し上げますとともに、二度と戦争を繰り返さぬよう後世に伝えることを発信し続けることが私たちの使命です。
また、今年は終戦75周年の節目に当たることから、企画展開催期間も、慰霊の日を含む6月1日から、市民平和の日の9月7日までを予定しており、より一層、本市の沖縄戦の周知に取り組んでまいります。同時に、市民、特に中学生や高校生など、若い世代に利活用しやすい環境を整えるため、関係部署と連携をしながら取り組んでまいります。 ○小浜守勝議長 喜友名秀樹議員。 ◆喜友名秀樹議員 ありがとうございます。
こういったところが北谷町は全域が終戦後基地でございました。 今後どの地域でもあり得るようなところで、しっかりこの方向性を国でルールを作って、この法整備以前の問題、そういうことも見ながら私たちは個人に負担がいかないようなことも考えていかないといかないという基本的な考え方で今回は町でこの個人に大きな負担がかかっているというところを町が代わって行うという予算措置でございます。
この護岸はけ口の閉塞は終戦直後の航路浚渫土砂が護岸部へ移動したことによるもので、現在、進められている地先海域の港湾計画の見直しを含めて、土砂の撤去、導流堤の整備及び護岸排水口の改修等の対応策を見出していく必要があります。
令和2年度は終戦75周年を迎えます。平和の推進については、平和の発信地として「平和のとうとさや戦争の悲惨さ」を継承することが喫緊の課題であり、平和ガイド育成事業や糸満市平和祈念祭事業等の取り組みをより一層推進いたします。
今年度は、終戦75年目を迎えます。戦争の悲惨さなどを風化させないためにも、6月に沖縄戦の写真パネル展、8月に写真ポスター展示による原爆展を引き続き開催し、平和の普及啓発を図ってまいります。 第2部 子どもが活きる学びと文化のまちづくり 次に、「子どもが活きる学びと文化のまちづくり」について、ご説明いたします。
終戦後、米軍に接収され、米軍がコーラルを採取したためにできた崖地でありますが、県が昭和57年4月に急傾斜地崩壊危険区域に指定し、崩壊防止の整備がなされたと承知しております。