里庄町議会 2021-03-09 03月09日-03号
私の記憶する限りでは、日本史を教わる場合、原始時代からずっと来てから、江戸時代、明治時代、このぐらいまではもうぎっしり教えてもらえるんですね、時間をかけて。しかし、そこで教わったのは、例えば年号が違う。例えば、鎌倉幕府の開設が、私たちが教わったときは「いい国つくろう」で1192年でしたけど、今は何か違うようなことで、こういったことを一生懸命教えても仕方がないんです。
私の記憶する限りでは、日本史を教わる場合、原始時代からずっと来てから、江戸時代、明治時代、このぐらいまではもうぎっしり教えてもらえるんですね、時間をかけて。しかし、そこで教わったのは、例えば年号が違う。例えば、鎌倉幕府の開設が、私たちが教わったときは「いい国つくろう」で1192年でしたけど、今は何か違うようなことで、こういったことを一生懸命教えても仕方がないんです。
新たな教育大綱では、津山市の自然、成り立ちから江戸時代の偉大なる先輩の紹介と誇れる郷土を示し、それを基本に、育てたい人、目指す教育、つくる学びの場へと続いており、市長の言われるように、一貫した教育の道筋が示されています。教育長の答弁からは、「自らが動く」がキーワードになっているように感じました。 夢や目標の実現のため、体験、行動、協調をおのずから行うことにより近づいていくものと感じます。
7番目、教育のまち備前とは何かについてでございますが、備前市のシンボルである閑谷学校は、江戸時代から今も学びの精神を伝え続ける学びの原郷であり、教育のまちをイメージさせる備前らしさの原点であろうと。大切なことは、その精神にあろうかと私は考えております。
岡山県南部は瀬戸内海に面した平野で、江戸時代は新田開発が進み、稲作地帯が形成され、1950年頃から児島湾を締め切り、淡水化して干拓地に農業用水を供給する国内最初の複式干拓工事が開始されました。これにより水田が拡大し、農業用水を供給するため数多くの用水路が設置され、全国の用水路の総延長が40万キロに対し、倉敷市はその0.5%に当たる2,000キロを占めております。
グローバル,県外資本に対しての江戸時代以来続く,この旧城下町での商いを通した固有の庶民文化,これを今後どう守って育てていこうと考えていますか。ポストコロナを見据えたこれからのまちづくりについて,市長からお考えをお聞かせ願いたいと思います。 第3次補正1.5兆円の中で活用できる施策について何かありませんか。地方創生臨時交付金の地方単独事業分を具体的にどう活用しようとしていますか。
江戸時代の日本の人口は3,000万人でどういう分布だったのか。それは土地価格と結びついてますから、当時のこの地域の土地価格と江戸の土地価格とこのくらいの差があるとしたら、今はこんな差という、そういうことをどうしていくのかという、そういうことがあると思います。
かつては城があったということもあるようですけど,その後,江戸時代に取り壊されて,明治時代になりますと今の住吉地区を埋め立てるために土砂を採取して,山頂の遺構がなくなったということでございます。笠岡駅から車でも5分,歩いてもすぐ登れる,こういう場所にこのような高台があるというのは,県内でもほとんどないんじゃないかと思います。
また,市長答弁にもございましたが,戦国末期から江戸時代の初期にかけて宇喜多家,小早川家,池田家と城主が変わっていった,そういった物語性も魅力になるんではないかなと思っております。 いずれにしましても,岡山の中心市街地における重要な文化遺産,観光資源でございますので,ますますシンボルとして価値が高まるような大改修になることを期待しております。 以上です。
いずえ駅周辺の旧山陽道につきましては、舟夜灯であったりとか一里塚跡碑といった史跡が残っておりますとともに、江戸時代に多くの人が往来する主要街道としての面影も感じられるところでございます。今後の活用等につきましては、関係者とも意見交換をしながら研究したいと思っております。 ○議長(坊野公治君) 藤原浩司君。 ◆12番(藤原浩司君) そのぐらいしかご存じないんですね、部長。
江戸時代の真庭市は、備中国であった旧北房町以外は美作の国で大庭郡と真島郡から成っていました。大庭郡と真島郡の境は旭川で分けられており、東側が大庭郡でした。津山藩の財政難と世継ぎ問題から山中一揆が勃発、大庭郡は天領となり、久世に代官所が置かれました。 この侍の像の立っている場所が、かつての久世代官所があった場所で、真庭市指定史跡となっております。
3回目となる今回は,選挙人の方に新たな視点で訴えるとともに,コロナ禍の選挙ということで,感染予防の啓発も兼ね,岡山市出身で江戸時代に天然痘治療に貢献した緒方洪庵を投票所来場カードのデザインに採用したものでございます。 最後に,次回以降のカードのデザインについての考え及び若者が描いたイラスト等を使用してはどうかという御質問に一括してお答えいたします。
ただ、その減り方をどういうふうに少なくしていくとか、日本の中でもっとバランスを取るとか、3,000万の江戸時代の日本で、こちらにはもっと人がおったわけですからというようなことですね。だから、私どもが人口増加という価値観の中にまだまだ私も含めて染まっているということも考えなきゃならないと私は思っています。 特効薬はありません。
大体江戸時代以前に築造されたものが多く、築造された当時のままの構造で管理されているため池もたくさんあるかと思います。
閑谷焼の細工物を中心に、閑谷焼の影響を受けて誕生した白備前、同じ江戸時代に制作された彩色備前の細工物を展示いたしました。 10月1日、7日、13日、小学校、中学校、高等学校の校長との中間面談を実施しました。中間期までの学校運営を振り返り、課題を明らかにするとともに、後半に向けての取組について、校長と協議いたしました。
政治の「ジ」がまさにこの「治」ということで、政というのは水を治めるということから由来しているというふうに言われてますけども、日本でも江戸時代の中後期から、特に山林をどう保護するのか、治山治水が重要になっておりました。江戸の初めの人口が1,200万人ぐらいで、それが150年たつと3,000万に膨れ上がる。膨れ上がった人たちは、燃料を取りに山に行く。で、山に木が一本もないような、そんな状態になる。
17世紀頃、江戸時代であります、特に大きく発展し体系化され、現在へと継承されています。漢方という名称の由来は、日本へ伝来した西洋医学の蘭方と区別するためにつけられたものであり、中国の伝統的な医学である中医学とも異なり、まさに漢方は日本独自の医学であります。 そこで、お尋ねをいたします。 大手のツムラをはじめとして、国内生産の農家さんたちの育成に力を入れています。
本市を中心とした美作地域は、江戸時代後期から明治初期にかけて、主に医学などの自然科学分野で優秀な学者を輩出してまいりました。現在でも、本市には、中四国のがん医療の拠点である、がん陽子線治療センターの開設や、コロナ禍に対応した感染防止対策製品の開発など、時代の変化に対応した取組を行う事業者がいらっしゃいます。
五重塔は1821年から1843年、これは江戸時代です、に造られました。県内唯一の五重塔でございます。これは国の重要文化財に指定されているんですかね、そういうところに私も一生に一遍でいいからこんなところに住んでみたいなと娘時代に思っておりましたら、知らない間に住んでおり、長い時間がたちました。
例えば私有林に至っては、江戸時代の持ち主の子孫たちが、持ち主が2,000人以上いるとか、そういうことがそこら中で起こっているわけなんで、なかなかこの林野台帳を整備するというのは難しいんだけれども、まあやっていこうという、そういうことなんですが、実際議員お尋ねの、我が市は今基金として積み上げておりますが、これはどういうふうに使うのが一番好ましいかというと、森林を守り、育て、維持していく部分に充当していくべきだというふうに
足守は,江戸時代の陣屋町の風情を体感できる希少な地域であります。足守文庫は足守地域や陣屋町に関する歴史資料を展示するための施設で,最近は足守地域内での発掘調査で出土した考古資料や木下家資料の写真パネルを展示するなど,展示内容の充実に努めております。