備前市議会 2023-03-23 03月23日-06号
ここだけ、とてもバブリーな風が吹いているような気がして、先行取得の名の下の不動産の購入、世の中の各自治体も本当に大変公共施設の整備等々、人口減の対応をしておられるときに、いろんな箱物、本当に昭和の時代のような箱物、このままの財政状態、いろいろ考えていきますと不安の残るところでございます。
ここだけ、とてもバブリーな風が吹いているような気がして、先行取得の名の下の不動産の購入、世の中の各自治体も本当に大変公共施設の整備等々、人口減の対応をしておられるときに、いろんな箱物、本当に昭和の時代のような箱物、このままの財政状態、いろいろ考えていきますと不安の残るところでございます。
私は昭和55年に吉永病院に来ました。国保病院、国保病院というのは昭和36年に国民健康保険が始まって、それで市町村に、保険はできたけれども、診療施設がないということで、全国で3,000、国保病院の国立診療所ができました。
2点目、備前市の文化芸術活動の中心組織である、現在、備前市文化協会は、昭和48年、1973年6月に発足し、現在、活動団体18団体、会員数600名で50年余り備前市の文化芸術の推進役として活動を続けてきています。
4番目の最後になりますが、この方の経歴を見てみますと、職歴の中で、昭和63年4月、三石耐火煉瓦、平成元年3月お辞めになられて、平成元年4月に日生町臨時雇員となっています。 元年4月、このときに公務の宣誓をされたのかどうなのか、そしてまた、どうして前任の会社を辞めて日生町の役場に入ろうとされたのか。そこのところをお聞かせ願えたらと思います。 以上です。
報告では、この公債費比率が高い大きな要因として、下水道事業債の償還財源として下水道会計へ繰り出す額が依然と多いためと分析されていますが、これからも昭和40年代に多くが布設された上水道、下水道を含めたライフラインの老朽化対策、耐震化事業にはさらなる財源が必要となってきます。 特に、下水道事業は汚水処理施設の建設や下水管の埋設など多額の費用が必要です。
また、旧アルファビゼン、備前焼ミュージアム、図書館、市民センターなどの機能分担、そして昭和26年に備前簡易裁判所として建設された、令和3年に備前市の歴史を確認できる場として備前市立歴史民俗資料館の開館につながったわけですが、この展示物は、地場産業の耐火物資料や備前焼、民俗資料、郷土にゆかりの文学者、芸術家等の展示が数多くあり、地域ぐるみの協力なしでは実現できなかった展示物ばかりで、市民の手作りの資料館
片上高校は、昭和27年に勤労青少年の教育の場として発足し、898名の卒業生を輩出するに至っております。今後も、仕事と学業を両立して学びたいと願う生徒の期待に応えるべく、関係者の皆様方と共に教育行政の向上に取り組んでまいります。 11月15日、セラミックスセンターで備前市産業祭優良従業員合同表彰式を関係団体と共に開催いたしました。
1944年の昭和東南海地震では、2年後に昭和南海地震が起こっております。今、我々が直面しているタイプはこの地震のタイプです。 巨大地震につながる可能性がある異常を測定した場合、有識者による評価検討会が臨時で開催をされ、南海トラフ地震臨時情報を発表し、自治体、住民に対して事前避難や家具の固定などといった備えの再確認を呼びかけるなどの措置が取られます。
あと、特徴としては、昭和な感じ、レトロな感じの町並みや作業場、作業風景を再現しての展示が多かったように思われます。 とこなめ陶の森資料館の小栗学芸員の言葉をお借りいたしますと、町なかにこれだけの煙突があるところは非常に珍しい。高い場所からこの景色が眺められるとすばらしいでしょうねえとのことでした。
昭和52年3月竣工であり、旧耐震基準により建築されています。平成29年3月実施の調査で耐震性に疑問ありと診断され、国道2号が平成29年7月に緊急輸送道路に指定されていることにより、要安全確認計画記載建築物に該当しているとのことです。
例えば伊部でいろいろ後から聞いたり何かして、実際に昭和50年頃までは松の関係をしとったんで、それ以後、松を伐採した後、そのままにしてきたんではなかろうかと思います。そして、松枯れ等が出て松が枯れてきたと。そういう形で、改めて松林の再生のためですが、雑木を切る、そしてそれに松を替えていくという形をしていかなければならんのではなかろうかと思いますんで、改めて市長の考えをお聞かせください。
次に、旧体育館についてでありますが、当該施設は昭和38年12月に建築、経過年数は58年であり、経年使用による劣化が顕著であります。公共施設個別施設計画における今後の取組方針につきましては、当該施設の行政財産の用途を廃止し、除却を行い、当該跡地の有効活用を図っていくものであります。
2番のうち、まず日生市民会館ですが、建築年度は1982年、昭和57年で、新耐震基準であることや、構造躯体とそれ以外における健全性の評価結果において、改修対策などの優先度、老朽具合及び将来性を踏まえた上での総合的判断から、今後の取組方針は存続の判定であると理解をしております。
昭和62年4月、旧日生町議会議員に当選されて以来、連続34年8か月もの長きにわたり在任され、その間に町議会議長、市議会副議長をはじめ議会運営委員長、予算決算審査委員長など数々の要職を歴任され、リーダーシップを発揮されました。
当該土地は、昭和の時代、石炭から重油を燃料とし、備前市の主要産業である耐火れんがの製造工場がありました。太平洋戦争の敗戦後、国民が寝食を忘れて働き、経済復興を果たした礎の一つであります。 昭和56年1981年、40年前、市制10周年記念事業に現地の片上警察署跡地に市民センターが建設され、その後、車社会を迎え、駐車場が不足し、長い間、町と車の接点になる駐車場の整備が求められてきました。
この法律については、経産省も昭和38年に基本法ができて以来、51年ぶりに改定し各自治体にこの小規模企業振興基本法を制定するよう求めています。政府も小規模企業は、経済を牽引し、雇用を確保する力であり、地域社会の主役として地域経済と住民生活に貢献し、伝統技能や文化の継承に重要な機能を果たす国家の財産とも言うべき存在である、こういうように規定して重要性を述べております。
そのうち、井田から2号線へ延びる都市計画道路伊里中穂浪線については、昭和48年に計画策定され約半世紀手つかずのままです。年々住宅が増え、着工はかなり難しくなっているものと思われます。そして、地元ではこの計画が生きている限り、県が県道穂浪吉永停車場線の改良工事に本腰を入れて取り組んでいただけないという話まで出る始末です。この路線について今後どうする考えなのか、お教えください。
当該土地は、昭和35年、1960年、今から61年前に記録的映画「煤煙よ!さようなら」という題名で映画化されたことを思い起こします。この土地は耐火れんが製造工場が存在し、操業の際炊く石炭のばい煙が黒いぼたん雪のように降り、付近の住民は長い間困り抜いていました。今から思えば、太平洋戦争の敗戦後、国民が寝食を忘れて働き、経済復興を果たした礎の一つでありました。
この言葉はかの有名な田中角栄が、昭和37年蔵相に就任した際に大蔵官僚を前に演説をした名文句であります。簡潔明瞭、すばらしい言葉だと思います。市長はこの言葉を聞いてどのように感じられますか。 私は、あなたが市長選で約束した多くの公約は、前述のできることとできないことの区別がつかず、その場の雰囲気で手当たり次第に約束をされたのではないかと推察いたします。
昭和30年頃には全国で80校以上あったようです。 2016年12月に、義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律、いわゆる教育機会確保法が成立いたしました。