別府市議会 2020-12-09 令和 2年第4回定例会(第4号12月 9日)
最初に来たときは、別府市は障がい者も多く、太陽の家が大変有名で、私も、ああ、すごいのだなというふうに来ましたけれども、当初、私は車に乗っておりませんでして、乳母車に子どもたちを乗せて職場まで通っておりましたが、その道すがら歩道がありません。歩道を通っていても段差があって乳母車が動きません。そんな状況の中で本当にここが「ともに生きるまち」なのかなというような思いをしたことを今でも覚えています。
最初に来たときは、別府市は障がい者も多く、太陽の家が大変有名で、私も、ああ、すごいのだなというふうに来ましたけれども、当初、私は車に乗っておりませんでして、乳母車に子どもたちを乗せて職場まで通っておりましたが、その道すがら歩道がありません。歩道を通っていても段差があって乳母車が動きません。そんな状況の中で本当にここが「ともに生きるまち」なのかなというような思いをしたことを今でも覚えています。
別府市内を走るバス路線のうち、平成23年から令和2年までの10年間で利用者の減少などによる不採算の理由により廃止となりましたバス路線は、スクール線を除いて東山地区の柚の木線と堺線、大所・小坂地区の安心院亀川線、太陽の家経由の関の江団地線の計4路線となっております。
これは太陽の家の創設者でございます中村先生の言葉ですが、中村先生の言葉というのは非常に重いものがあります。このように述べています。「障がい者には保護よりも機会を与えてほしい」。いわゆる社会参加や雇用の機会を与えてほしい、これが第1の中村先生の基本理念です。 そして、次にもう一つ。「世に心身障がい者はいても、仕事に障がいはない」、このように先生は基本理念を述べています。
本市では、「応援村 OUEN-MURA」の主催者として、オリンピック期間中は「北浜公園」に、パラリンピック期間中は太陽の家「太陽ミュージアム」に応援の場を設け、市民や観光客の皆様と一体となって地方からオリンピック・パラリンピックを楽しみ、盛り上げます。 オリンピックマークの輪を重ねて連結した形は、相互の結合と連帯を意味しています。
その中で今回、私、防災を取り上げた中で、実は市長がこの8月に陸前高田の戸羽太市長を太陽の家、コミュニティーセンターにお招きして防災講演を行いました。それに私も興味、興味というか、関心が深いものですから、行ってきたのです。
本事業につきましては、ラオス選手との交流場所として太陽の家や学校を想定しております。そのため、選手の移動につきましては、太陽の家や学校と連携して検討したいと考えております。 また、長期的な展望に立った観光地等のバリアフリー化につきましては、本事業を推進する中で関係部局等との連携のもと、検討する必要があると考えております。
太陽の家がある本市は、「共生社会の街」であり、「思いやりの街」であることを国内外に発信するとともに、東京オリンピック・パラリンピックを契機に、さらなる共生社会の実現に向けて取り組んでまいります。 次に、組織機構改革についてです。
浜田の公民館、古市の公民館、小坂の公民館、それから内竈は太陽の家を少し借りますからね、もうきれいにバリアフリー、車椅子、誰でも通れる。問題は中央、その2区の投票所と四の湯2区の投票所。今言ったように区割りをして上人小学校に一部行っていただいて、残りを東町と四の湯1区と四の湯2区の一部をあすなろ館に一緒に、平田、照波園の方が一緒にできないかどうなのか。
子どもからお年寄りまでいろんなものを、皆さんが集まっていただいて、それから太陽の家の障がい者の皆さんとも一緒に、市長も来ていただいた、卓球バレーね。卓球をあなたは裏からボールを通したのですね。これ、大変喜ぶのですよ。「会長さん、もう1ゲーム、もう1ゲーム」、時間が終わらない。1年に1回しかしませんので、こういう楽しい時間を過ごしています。
しかし、別府市にとっては、この太陽エネルギー施設がやっぱり地下水の浸透等を妨げて、そして別府の景観を損ねているのではないかと思いますけれども、この太陽光パネルの設置状況をちょっと説明してください。 ○環境課長(松本恵介君) お答えいたします。
地権者との用地交渉等を丁寧に行って、言い忘れましたが、あそこは亀川の駅の裏から出ていって国立病院もあれば、太陽の家もあれば、また溝部学園もありますので、どうか早目に整備をしていただきたい。これはことしだけ多かったからではなくて、また来年、再来年も整備に必要なものを、交付金を取っていただきたいと思っておりますので、どうかそういうことでよろしくお願いいたします。
なお、5月19日に朝日・大平山公民館、5月20日に太陽の家、また5月21日に南部出張所で現地出張販売をさせていただきましたが、多くの市民からの要望もありましたため、6月1日より3カ所の各出張所での販売を開始しております。
今あるところというのは、本当に亀川周辺の方、また特に車椅子の方が太陽の家のあたり、周りにいっぱい住んでおられます。今、授産施設はなくなりましたけれども、あの近くに車椅子の方が住んでおられます。昔に比べたら、御高齢になられて、施設に入っていなくなられた方も数多くいるのですけれども、いまだに太陽の家を退職されても周辺で車椅子で生活されている方もおられます。
なぜ市道にしたかというと、駅だけが、駅のお客だけが利用するのではありませんよ、線路で分断された医療センター、太陽の家、溝部学園、それから内竈、いろんなたくさんの方が住んでおられる。国立団地もそうです。将来的に国立団地も建てかえがあるだろう。この庁舎と消防施設は、亀川駅周辺という位置づけだったのです、その当時はね。
運動・温泉・食・健診をセットにした4日から5日程度のモニターツアーを実施、3つ目としまして、「温泉のまち別府における障がい者スポーツの現状と今後の展望」と題しまして、太陽の家創始者であり、1964年東京パラリンピック日本選手団の団長を務められました故中村裕氏の50年を振り返るシンポジウムを開催いたします。
この間の長野市政の奮闘というのは、低く重く垂れ込めた雲を吹き飛ばして、何とか雲間から太陽の光を別府に差し込ませよう、こういう思いの8カ月ではなかったかと思います。その最強の企画が、今回の別府ONSENアカデミアではなかったかなと思います。
さらに太陽の家さん、これはもう全国でも屈指の障がい者のいろいろな方々、きちんと一般の人に負けないように、競争の中で頑張っておられます。こういった中にも、制度によりますけれども、あえて「個性」と言いますけれども、いろいろな発達障がいで個性のある方も働かれている部分もありますので、そういった面ではいろいろ御紹介として支援できるのではないかと考えております。
この円球については、太陽あるいは地球、みんなが心が1つになっておさまるようにと、いろいろなこの説がありますけれども、どれが本当かよくわかりません。私も、緑丘高校の3年の卒業のアルバムに当たって、あの記念公園の前で同級生一同と写真を撮ったのを今でも持っておりますけれども、とにかくそういうことで2回目もちょっと銅像建立までは至りませんでした。 そして、その後、あ、失礼。
やはり太陽の家がある関係で、あの一帯で障がい者の方が住まわれているというケースが非常に多いかと思います。アパート等でかなり上の階に住んでおられる方というのは、そのまま、上の階といっても、一応4階以上にということが言われておりますので、そういったところに住んでおられる方というのは、なかなか少ないのではないかというふうに思います。
亀川地区がある北部地域は、JR亀川駅を中心とした旧来の町並みを基盤とする既成市街地であり、周辺には、山際の地区には立命館アジア太平洋大学、別府大学、溝部学園が立地し、留学生を含む学生が多く、国際的な雰囲気が漂う地区には、別府八湯の1つである亀川温泉があり、いいですか、そして、この地区には多くの病院、別府医療センター、障がい者の多い太陽の家があり、障がい者の方が多い地区でつながり合って、平成17年3月