板橋区議会 2024-03-15 令和6年3月15日予算審査特別委員会-03月15日-01号
富士山といいますと、これもご存じの方はご存じと思いますが、前回大規模に噴火をしたのが宝永の大噴火ということで、317年前の宝永4年、江戸時代だったそうであります。
富士山といいますと、これもご存じの方はご存じと思いますが、前回大規模に噴火をしたのが宝永の大噴火ということで、317年前の宝永4年、江戸時代だったそうであります。
この計画は、江戸時代を通して板橋区にありました加賀藩下屋敷が、明治政府の誕生とともに明治政府陸軍(省)の板橋火薬製造所として受け継がれ、日本の産業近代化を牽引してきました。そして、近年この地より火薬弾道試験に使用された弾道管が発見され、2017年、平成29年には国の史跡指定を受け、今日を迎えております。
江戸時代、美濃の国に存在した郡上藩主の菩提寺が青山にある梅窓院であり、これが御縁で郡上おどりを青山において実施することになりました。ちなみに、青山という地名も郡上藩主であった青山氏の家名が由来となっております。 これは一例ですが、港区のあらゆるまちには歴史があり、その歴史こそがこれからまちをつくっていく上で礎となるのであります。
歴史・文化を学ぶ上では、江戸時代の前に、長らく日本の歴史・文化の中心地であった京都や奈良は、やはり最適な場所だと思います。
また、江戸時代には中山道の最初の宿場町として栄え、戦後には駅を中心に商店街が形成され、にぎわいのあるまちとして発展してきました。一方、駅前広場については整備から約50年が経過し、各施設の老朽化、交通処理や歩行者の安全性・利便性などの交通結節機能の課題、にぎわい・憩い・交流ができる広場機能が不足するなど、これらの解決に向け、2015年、板橋駅西口周辺まちづくりプランが策定されました。
この木は、江戸時代から「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ、愛されるも枯れてしまった天然記念物の木の二世ではないかとも専門家に指摘されている貴重な木ですが、今回の計画で伐採が予定されています。区道上の木ではないとのことですが、何とかできないものかと思ってしまいます。
伊達家は、戦国時代に奥羽地方の戦国大名、江戸時代には仙台藩62万石の大名となり、明治維新を迎えます。中津川家は、この間、300年以上にわたって伊達家に仕えました。戦国時代から幕末期に至るまでの間、大名家を支えた武家に伝わる文書群として、様々な情報が記されている貴重な資料です。 2点目、有形文化財古文書、兼房町沽券図。所有者は、港区教育委員会。所在は、港区白金台四丁目6番2号、郷土歴史館内です。
また、一方の企業側は、江戸時代から続く企業経営のお手本である“三方良し”の経営理念と共に、政府に頼らず自己責任で運営をしていける社会経済システムが健全であるため、自治体から直接的な資金援助には基本的に消極的な考えである。 しかしながら、現状においては以下の点を指摘したい。
都市部で生ごみから堆肥をつくって、農村部に回して、そして農村部で作った野菜をまた都市部で消費していただくという、江戸時代なんかだと割と回っていたサイクルをもう少しでも東京でやれないものかどうか。やり方は2つ考えられると思います。一つには、コンポストを従来どおり各世帯や集合住宅ごとに置いてもらって、それを堆肥ができたら区が回収して農村に持っていくというやり方。
古文書講座は、将監橋の修理に伴う達書、溜池上の中屋敷に置いた肥前国佐賀藩主鍋島治茂の書状、芝田町五丁目にあった米穀問屋の証文など、江戸時代の港区に関連する文書を使用しております。いずれの文書も、初学者が学びやすい内容となっております。 ○委員(杉浦のりお君) 区民に学びの機会を提供することは、教育機関としての郷土歴史館にとって大切な役割だと思います。
そして港区は、江戸時代から歴史のある地域でもあります。だからこそ日本の和の文化を大切にしていく取組ができるのではないかと思います。日本の伝統文化をグローバルに広め、世界に発信し、若い世代を育成していく必要があります。それが文化芸術ホールの機運醸成にもつながるのではないでしょうか。 港区には邦楽邦舞界の著名な方々が多数居住しており、こういった人材という資源を区としても活用すべきです。
今年度は、手始めに全世代対象型のオープンキャンパス、ピーターラビットのおはなしと、板橋学江戸時代の板橋の町と村、全5回を実施し、好評を頂いております。来年度につきましても、引き続きオープンキャンパス事業を実施しながら、多世代化に向けた検討を行ってまいりたいと思います。
江戸時代には、多くの武士や町人たちが暮らし、風格漂う大名屋敷や情緒あふれる町屋が立ち並んでいました。区役所の目の前に広がる増上寺は、徳川家康により将軍家の菩提寺とされ、隆盛を極めました。海岸沿いの本芝や金杉には、漁師や魚問屋に魚を求める客が行き交い、赤坂氷川神社の祭礼では、氷川山車を一目見ようと内外からたくさんの見物客でにぎわうなど、港区は江戸でも特徴のある一面を持っていました。
○麻布地区総合支所まちづくり課長(大久保光正君) こちらなのですけれども、古くはここ一帯が江戸時代、大名屋敷でありました。その大名屋敷の中に、既に斜面なり高低差があったと想像できます。その後、昭和2年に今の擁壁を築造したという経過がございまして、それ以来、もう100年近く、いろいろな地震等にも耐えてきたということであります。
7代というのは、大体江戸時代の末期から今までですよ。江戸時代の末期から今まで百何年ですけれども、200年たちませんが、やや200年の間に日本人は1人もいなくなる。 その前に怖いのは、国民が減ることによって国力が低下する。何をやるにしても財源がない。そういうことで、子どもが育てにくいとんでもない国ができてしまうのではないかと思うから、私は何度も何度も同じことを言っているんです。
かっぽれは、江戸時代からの伝統芸能であり、それを子どもたちが引き継ぐことはすばらしいことです。このコンクールの審査員は、港区の名誉区民である桂由美先生、水谷八重子先生、そして人間国宝の長唄三味線の今藤政太郎先生、都山流尺八の野村峰山先生や重要無形文化財総合認定保持者の観世流能楽の藤波重彦先生でした。 このコンクールのユニークなところは、観客の投票で決まるオーディエンス賞がありました。
婦人警官第一期生の山名もとさん、江戸時代から続いた魚問屋の松本トミ子さん、開業医として半世紀過ごしてきた二村ふみえさん、十八人の女性の生きてきた道がこの本につづられています。婦人会館ができて既に四十二年、この四十二年の歩みを本にまとめ後世に残していくべきです。区のお考えをお聞きします。 次に、特別区税収入についてです。 令和三年度の特別区税決算見込額が示されました。
片方では、地中に埋まっていた高輪のものに多くのお金をかけて、移築してやると言っている一方で、僕的には、江戸時代の最後の幕末のペリー来航に備えた台場というものは、日本の歴史上大きなターニングポイントであったと思うし、あれが今、本当にそばに行って見たらよく分かるのですよ。角の隅石なんて、もう本当にあした滑り落ちておかしくない。
手話という文化というものに対しては敬意を払いますけれども、でも、実際問題としてそういう便利なツールができていて、我々、昔は一日に五里とか十里とか、そういう単位で歩いていたのが、ほとんど今、歩かないような時代に変わってきていますね、江戸時代から現在では。それぐらいのことで、どうなんですか、その辺は見通してするんですか。
江戸時代の高札場の跡であります。高札は、通行人の多いまちの入り口に立てられ、決まり事などを民衆に周知する役割を担っていたわけでありまして、江戸初期の元和2年、1616年、この札の辻に芝口門が建てられ、江戸正面入り口としての形式が整えられたと聞いております。