北区議会 2022-02-01 02月22日-02号
北区では、ワクチン接種コールセンターにて多言語対応が拡充し、英語、中国語、韓国語に加えて、ベトナム語、タイ語、タガログ語、ネパール語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語と対応が充実したと仄聞しております。この対応については評価いたします。 都内施設において、新型コロナウイルス感染症に対しての電話相談が急増しているとの報道があります。北区における電話体制は現在どのような状況なのでしょうか。
北区では、ワクチン接種コールセンターにて多言語対応が拡充し、英語、中国語、韓国語に加えて、ベトナム語、タイ語、タガログ語、ネパール語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語と対応が充実したと仄聞しております。この対応については評価いたします。 都内施設において、新型コロナウイルス感染症に対しての電話相談が急増しているとの報道があります。北区における電話体制は現在どのような状況なのでしょうか。
北区でも、特別定額給付金のご案内を英語、中国語、韓国語、ベトナム語、タイ語、タガログ語、スペイン語、ポルトガル語、インドネシア語、ネパール語、そして、やさしい日本語も併せてホームページに載せています。今までの多言語対応の中で、最も多くの言語に対応していると思います。感謝申し上げます。 ここで、静岡県浜松市での事例をご紹介いたします。
また、国籍別に見ますと中国が最も多く、次いで、韓国・朝鮮、ベトナムの順となっておりますが、近年、ベトナムとネパール国籍の方が著しく増加しております。 こうした状況を踏まえて、区では将来を見据えた適切な施策を推進していくため、昨年七月、北区多文化共生指針を策定するとともに、指針を実現していくための行動計画を定め、全庁挙げて事業を推進しております。
朝鮮戦争やベトナム戦争の影響も受けました。実に多くの戦跡があります。 それでも我が北区は戦後七十年、戦争による死傷者を一人も出さずに平和北区の実現に邁進できました。途中で意に反しての自衛隊基地の恒久化の問題もありましたが、北区平和都市宣言を行い、市長会への参加も実現しました。
朝鮮戦争の戦火が消え、ほっとしたのもつかの間、今度はベトナム戦争です。 一九六五年、アメリカが北爆を開始したことによってベトナム戦争は長期化し、米軍の負傷兵が激増します。すると、米軍は、地図局跡と自衛隊十条基地のある場所に、米陸軍王子野戦病院を抜き打ち開所しました。一九六八年三月十八日のことです。前の年には、北区議会全議員連名の決議も提出されていました。
また、特に移民が多い国ですから、休み時間ともなると、スペイン語、ベトナム語、ロシア語など飛び交っており、仲間づくりの場としても、とても活気のある場でございました。 現在、学校施設の夜間・休日利用について、施設の管理運営面では課題が多くありますが、学校の適正配置計画を進めている今だからこそ、ハード・ソフト、両面から考えることが可能です。
当時、ベトナム、ラオス、カンボジアなどアジアが戦火にまみれている中で、日中が再び戦争をしないために、日中国交回復は大きな政治課題となっておりました。アジアでの戦火の拡大を憂慮し、平和を望む声は切実で、運動は区民の共感を呼ぶことになりました。そのような高まりの中で、世話人会の中から、建てる碑は北村西望氏に相談してはどうかという声が起こり、代表が西望氏にお会いいたしました。
昨年十二月、ベトナム、ホーチミン市の水道公社と大阪市水道局が技術交流に関する協力合意書を締結しました。市水道局の水道供給量のピークは、少子高齢化、不況の需要減から一九七〇年の一日二百四十万立方メートルから、現在百四十万立方メートルに落ち込んでおり、水道ネットワークが縮小できず、維持管理費も大幅には削れません。今は黒字ですが、将来も健全な財務体質が約束されているわけではありません。
先ほど区議会の事務局のほうからいただいた資料なんですけれども、これは二月十八日の「朝日」なんですが、「鳥インフル感染を確認」ということで、これはベトナムでございます。ここで「昨年十二月以降、感染が確認されたのは三人目。現地では家禽が病気になったり、死んだりする例が相次いでいた。男性は病気の家禽類を食べて感染したとみられている。」
っている時間だけは近くでタバコを吸わないでいただけないでしょうか」というお願いを送ってもらい、また、たばこを吸う人は、さっきも申し上げたように、「私はたばこの煙で周りに迷惑をかけませんよ」という、そういうことで意思表示に、それぞれの立場で喫煙対策の象徴を、このリボンに込めているということで、私は驚きましたが、今まで、話がそれますが、イラクの戦争反対ということで、白いリボン、これはアメリカの人たちがベトナム
当日は多くの遺体が仮埋葬された神谷公園で犠牲者の冥福を祈り、加えて敗戦直後連合軍に接収され、ベトナム戦争当時は米軍野戦病院に転用された旧陸軍施設、現在の中央公園文化センターも訪ね、区民や北区当局とともに一大返還運動に取り組んだ先輩区議たちの活躍ぶりも偲びました。
二月十五日の反戦ウエーブは千百万人規模で世界に広がり、ベトナム反戦運動を上回る集会・デモが展開されました。 日本も世界各国も攻撃反対の世論が圧倒的で、例えば隣国のトルコでは九〇%以上の方々が反対をしていると報道されています。日本では七八%が反対していると報道されました。日本政府はアメリカと一緒になって金と圧力で諸国に先制攻撃の多数派工作をしていますが、とんでもないことです。
申し上げるまでもなく、ダイオキシンはポリ塩化ジベンゾジオキシン(PCDD)とポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)の総称で、ベトナム戦争で米軍が使用した枯れ葉剤にも含まれていた猛毒であります。
ダイオキシンがベトナムの枯れ葉作戦の戦場において、女性や新しい世代の子どもたちの遺伝子に大きな影響を与えているという告発が、初めて世界に向けてなされたのは一九七〇年のことでした。 環境問題研究家である綿貫礼子氏は、水俣からチェルノブイリまで、自然や生命環境は、もはや復元し得ないほど、負の恩恵を受けてきた。したがって、現在世代が将来世代と、どう向き合っていくのか。
ダイオキシンがなぜ怖いかというと、あれは化学兵器で、ベトナム戦争のときに枯れ葉剤を浴びた兵士やお母さんのところから生まれた子どもたちが、遺伝子が傷ついてみな異常出産したりして、非常にベトちゃん、ドクちゃんに象徴されるような被害が起きて取り返しがつかないということで、非常に猛毒だということで問題になっています。
ベトナム戦争のときには前線基地となり、銃剣とブルドーザーで奪われた土地は、今なお鉄条網が張りめぐらされ、立ち入ることができない。嘉手納飛行場の航空機の爆音で、小学校の授業が年間百二十回も中断したり、キャンプハンセンの県道一〇四号線越え実弾演習に至っては、本土復帰後四万発余の実弾が撃ち込まれ、樹木も枯れて鉄さびの山となり、文字どおり、沖縄の自然と国土を破壊しています。
私たちの記憶にあるダイオキシン問題の発端は、一九六二年から七〇年にかけて行われたベトナム戦争で米軍が南ベトナムの国土に大量に散布した枯葉剤の中に含まれるダイオキシンによって、早産や流産、死産、異常胎児などが多発しているとの驚くべき事実が報道され、日本にも伝えられたことからでした。
しかも、福生市の調査によれば、ベトナム戦争のピーク時であった一九七三年の一万五千三百七十三回という飛行機の着陸回数が、昨年一年間で一万九千回を超え、ベトナム戦争後最高を記録し、関係五つの市と町では飛行訓練の中止を強く要請をしております。この八日には、騒音訴訟で夜間飛行中止の和解勧告が出されたのは御承知のとおりであります。
一年間で死者数が一万人を超えるということは、かつてアメリカがベトナム戦争で一年間に失った兵士の数よりも多く、まさに交通戦争といわれるゆえんであります。 北区内における交通事故による状況は、十月三十一日現在、事故件数七百八十二件、昨年と比べプラス十一、死者十五、プラス九、重傷三十四、プラス十三、軽傷八百三十二、マイナス三十四となっており、王子、滝野川管内に比べ赤羽管内が増えております。