長崎市議会 2003-12-04 2003-12-04 長崎市:平成15年第6回定例会(2日目) 本文
これは、21年前の長崎大水害のときの教訓を生かした形の構造になっているところでございますので、この点は、ひとつご理解をいただきたいと思います。 しかしながら、市民が楽しむための簡易な施設の設置につきましては、管理者である県と協議をし、どのようなものが設置可能かどうか、今後、検討してまいりたいというふうに考えているところでございます。
これは、21年前の長崎大水害のときの教訓を生かした形の構造になっているところでございますので、この点は、ひとつご理解をいただきたいと思います。 しかしながら、市民が楽しむための簡易な施設の設置につきましては、管理者である県と協議をし、どのようなものが設置可能かどうか、今後、検討してまいりたいというふうに考えているところでございます。
それから、10ページから13ページにかけましては、19款諸収入を掲載いたしておりますけれども、10ページの中段の災害援護資金貸付金元利収入につきましては、これは7.23の長崎大水害とか台風12号、台風19号とか、こういう台風等により被災した世帯に対し、低利で資金を貸し付けているものでございますけれども、平成5年度からは嘱託の徴収員を配置し、臨戸訪問とか納付指導、完済に向けての進行計画を徹底するということをして
次に、4.7.23長崎大水害20周年事業費でございますが、7月23日に「語りつごう長崎大水害」と題して防災講演会を開催するとともに、「子供防災フェスタ」や「小学生防災の広場」などを実施いたしました。 最後に、6.防災行政無線改良事業費につきましては、防災行政無線、同報系が聞こえにくい地区7カ所にスピーカー延長を行い改良を図りました。 以上でございます。
16 久保田公園建設課長 この、広場をつくるときから、下の方の溝というか、川というのが一定の幅しかございませんので、下を改修するのは難しいということで、これだけの大きな広場をつくると、水が一度に今まで畑だったところにしみ込んだのが流れてしまうので、ここを約数十センチメートル縁が上がってまして、長崎大水害等の大きな雨が降りますと、ここに側溝に出る口はある一定
ことしは、昭和57年7月23日、262名の犠牲者を出した長崎大水害から21年、そして、9月1日は「防災の日」でもありました。大型の台風が本市に接近し、上陸する季節となります。この7月、8月に多くの人命が失われる災害が発生しました。7月19日の福岡地方で浸水被害をもたらした大雨が発生したのに続き、翌日の20日には熊本県水俣市での19人の命が奪われた土砂災害が起きました。
長崎県は、過去に諫早大水害、長崎大水害の被害があっておりますけど、大村市も諫早大水害のときに駅前がつかったそうなんですけど、大村市は今まではそんなに大きな災害とか、水害はあっていないんですね。しかし、これは自然ですから、いつ大村市もこのような状態が起こるかもわからないわけです。そういう状況の中で、本市では緊急時にどのような手段によって市民への通報告知を行っていらっしゃるのか、お尋ねをいたします。
記憶に新しい、あの死者、行方不明、合わせて二百九十九名の犠牲者を出した長崎大水害から二十年が過ぎようといたしております。この間、幸いにも本市におきましては、犠牲者を伴う大きな災害、自然災害こそ発生をいたしておりませんけれども、この災害や阪神・淡路大震災を機に、一気に高まった防災に対する関心を、時間の経過とともに忘れさせてはならないというふうに考えております。
さて、長崎市においては、昭和57年7.23長崎大水害では、多くの犠牲者を出しました。私も、そのとき多くの死者、行方不明を出し、大きな被害を受けた川平町に住んでいました。今でも、その夜の恐怖と自然災害の怖さを忘れることはできません。
諫早湾干拓は一九五二年、長崎大干拓構想と一九七〇年長崎南部総合開発、いわゆる南総計画は漁民の反対で中止されました。二度にわたって異なる目的を持った事業が打ち切られた以上、干拓の必要性はもともと存在しなかったと言えます。今度は防災のためと、あたかも干拓の必要性があるかのように装うため、諫早大水害を持ち出されています。
長崎大水害の後、ただちに工事をしたいということで、地元協議に入って、そのとき猛反対があってできなかったという経過があって、20年かかって、やっと、実現の見通しがたっての今日のご説明かなと思うんですが、今、申し上げた3本の、この風頭方面からの中島川への流入の管渠についてのご説明と、今回のこの銀屋町通りの進捗といいますか、ちょっとご説明をいただきたいと思います。
次に、2の災害援護資金貸付金償還事務費は、昭和57年の7・23長崎大水害、それから昭和63年の台風12号、それから平成3年の台風19号に係る災害援護資金貸付金徴収のための嘱託員の報酬等でございます。 以上でございます。
思い起こすと、長崎大水害の日は行政視察の帰りの日で、大村空港の上空にて飛行機が大村空港に着陸できず、福岡空港へ引き返し、タクシーで長崎へ向かい、翌日から災害復旧に努めたこと等が昨日のことのように思い浮かんでまいります。この間、伊藤市長さんを初め3代の市長さん、先輩・同僚議員を初め理事者の方々、報道機関の皆様、事務局職員の皆様には、一方ならぬお世話さまになりました。
その後、7.23長崎大水害を契機に、自治会単位で自主防災組織を新たに結成をしていただきまして、防災訓練の実施を初めとする防災活動が行われているところでありますが、議員ご指摘のとおり、自治会防火部の活動内容は、自主防災組織及び婦人防火クラブの活動内容に類似している部分が大部分を占めておりますので、その後、結成数が少なくなっている状況にございます。
49 田中副委員長 九州キャラバンの関係なんですが、長崎大水害が起きた昭和57年以降に、長崎の観光はしっかり頑張ってますよということを訴えるためにスタートしたこの九州キャラバン。ちょうど今年で21回目になるんでしょうか。
住民生活を脅かす自然災害は、いつ発生するかわからず、本町でも昭和57年の長崎大水害を初め、平成元年・3年の台風などにより甚大な被害をこうむっており、日常的な防災対策は重要であることはご承知のとおりであります。平成8年に改定された計画には非常に、私も一読させていただきましたが、すばらしい計画となっております。その中で、次の点を伺いたいと思います。
まず、1 九州キャラバンについてでございますが、この九州キャラバンは、昭和57年の長崎大水害を契機として始まり、以来、長崎観光のPRと観光客誘致のため、官民一体となってキャラバンを派遣し、九州の主要都市において宣伝活動を展開しているものでございます。
こういう流れからすれば、少し下の方に、従来、長崎大水害前に予定をしてたというこの位置も、私は一案ではなかろうかなと。こういう流れにすると、西校も先の方にありますから、北の方から流れてくる学生の流れにもつながるのかなと。いろいろ私も考えさせられました。今回ですね。そういうことで、さらなるそういう意見がもし地元に申し上げられるならばと、そういう気持ち。
ただ、現在、市内にある商店街の街路灯は、20年前の水害復興基金をもとにしてつくったという経緯があるんです。20年たって結構傷んできて補修をしたり、あるいはつくり直しをしなければいけない時期になってるんです。
84歳とおっしゃっていたんですか、雨が降るたびに、自分の家ではなくて、前の方の家の雨どいに木のたるみたいなものを常時置いているそうなんですけれども、その雨水をいただいて散水用に使っていっていると、昔の方の知恵といい、節水なのかなという、そういう思想がその方にはあるのかなと感じるんですけれども、本当に雨水は有限であると、私も長崎市の百年史をひもといてみまして、本当にご苦労されたんだなと、つい20年前は長崎大水害
1.大水害から20年目の取り組み。昭和57年7月23日、長崎市は未曾有の大水害に見舞われ、尊い命や財産を失いました。この悲惨な経験に基づき、今日まで災害に強いまちづくりが鋭意進められてきましたが、今後は、災害の教訓を風化させないこと、また、人命を守るため、災害情報の伝達手段や避難体制を整備するソフト面の対策の充実が重要であると思います。