島原市議会 2015-09-01 平成27年9月定例会(第4号) 本文
これを質問する理由は、第二次世界大戦の大日本帝国憲法時代の町内会は、昭和22年にGHQが非常に戦争に協力したのは町内会だということで廃止になりました。
これを質問する理由は、第二次世界大戦の大日本帝国憲法時代の町内会は、昭和22年にGHQが非常に戦争に協力したのは町内会だということで廃止になりました。
それによりますと、「第二次世界大戦の末期、昭和20年8月9日、長崎は原子爆弾によって大きな被害を受けました。私たちは、過去の戦争を深く反省し、原爆被爆の悲惨さと、今なお続く被爆者の苦しみを忘れることなく、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。世界の恒久平和は、人類共通の願いです。
イコモスが「西洋から非西洋に初めて産業化の伝播が成功したことを示す」として高く評価の対象としたのは、1853年から1910年の間で日韓併合や第二次世界大戦と時期も趣旨も大きく異なっておりまして、ユネスコ委員各国に冷静な判断を求めたいと思っておりました。
1点目は、第二次世界大戦に対する町長の認識についてお尋ねいたします。 ことしは、第二次世界大戦が終結して70年の歴史的節目の年です。この年が日本とアジア諸国との和解と友好に向かう新たな一歩となることをアジアを初め世界の多くの人々と大多数の日本国民が願っています。そのためには何が必要でしょうか。 私は、戦後90年の1995年に閣議決定に基づいて発表した村山談話の核心的内容であります。
誰も好きこのんで戦争する人はいないと言う人もいますけれども、それではなぜ、第二次世界大戦が起きたのでしょうか。私たちが、歴史の教育で学んだ五・一五事件、二・二六事件は、軍人が戦争をしたくて、自分たちの思いを遂げるためにクーデターを起こし、総理大臣など民間閣僚を抹殺しファシズムへ向かっていった。戦争をしたくて起こした行動ではなかったのでしょうか。 第三の平和主義についてであります。
長崎歴史文化協会理事長の越中哲也さんも第二次世界大戦をとめられなかったのは、本当のことを知らせられていなかったからだと反対しています。静岡県知事も秘密保護法案は悪法だと批判しました。反対の声は国内だけではありません。
第二次世界大戦後の復興が進む中、昭和25年、東京-長崎間で運転されていた急行列車が、長崎を代表される山の名前に由来して「雲仙」と名づけられました。これがこの長崎に登場した最初の愛称つき列車でございました。
いわゆる、人形が友好親善大使のような役割を果たしていましたが、第二次世界大戦中に青い目の人形は敵国の人形であるということで、焼かれたり、銃剣みたいなので刺したりとか、いろんな悲しい運命をたどりました。おおよそ、ほとんどの青い目の人形がそういう悲しい運命でなくなったんですが、全国に約300の人形が何らかの形で残っていました。
実はこの日は、昭和28年の第二次世界大戦終了後云々かんぬん、食料増産、時間がないので、ここのところだけです。 杉山知事、松本市長--おっ、何じゃこりゃという感じだったです。松本市長というのは、地域に松本市長の後援会というか、詳しい方がいらっしゃって、松本市長のお父様だったらしいです。
それも戦争の相手国ですよね、第二次世界大戦の相手国の町でありながら、こうやって姉妹提携をいち早く全国に先駆けて結んだと。これは、やっぱりメッセージ性としてはあると思うんですよね。それをこの像によって顕彰されるということは、非常にいいことだと思うんですよ。それは、もうちょっと深く考えられてもよかったのかなと。
我が国は第二次世界大戦後、アメリカとの安全保障条約を締結することにより、防衛費の支出を抑制して公共事業や民間設備投資に対する助成などを積極的に展開し、世界に類を見ない奇跡的な高度経済成長を遂げました。言いかえれば、我が国のこの経済成長に関してはアメリカの存在が大きかったものと考えられます。
11 北村参考人 陳情書につけております、先ほど渡邊が少し説明いたしました、この第二次世界大戦前後の記述の各社比較対照表というのは、これはことし検定を合格した7社の教科書の記述を比較したものでございます。つまり、ことし採択をされる内容でございまして、この中から来年から使われる教科書が選ばれるということでございます。
第二次世界大戦に前後して、社会的に一番苦難の時期に頑張ってこられた高齢者に祝金を支給することは特別困難なことではありません。したがって、賛成すべきものであります。 次に、請願第4号「新市立病院に結核病床の設置を求める請願について」、意見を申し上げます。病院局長は、他の病院に結核病床を設置するために話し合いを継続しているとの見解を示し、十分に受け入れられなければ検討したいとの答弁があっております。
第二次世界大戦の被害は、どの地域でも残っており、特に長崎市は被爆地であり、学校での平和教育は特別な意義を持つものであります。平和教育を通じて、地域の平和を考える大きな力へとつながっていくと思います。 私も勉強しなくてはならないと思い、文献や収容所の通訳と親しかった人で、川南造船の勤労課や社長室に勤務されていた人から説明を受けることができました。
去る9月2日に、ロシアが第二次世界大戦終結の日として、ことしから新たに国の記念日に制定し、ロシア極東各地で対日戦勝利65周年を祝う記念行事を挙行している。 日本がポツダム宣言を受け入れ、昭和20年9月2日、連合国への降伏文書に、東京湾上の戦艦ミズーリ号上において、終戦時の参謀総長梅津美次郎とともに日本政府全権として重光葵外務大臣が署名を行っている屈辱の写真を記憶されている方は多いと思います。
現在、三井楽の京ノ岳に航空自衛隊第15警戒隊福江島分屯基地が置かれ、半径400キロの日本の西の空をレーダーで常時監視していますが、第二次世界大戦後、米軍が建設し、米軍と自衛隊との共存期間を経て、1959年に自衛隊へ移管され、その後、年次的に通信用大型アンテナ及び最新型レーダーの更新など、施設の整備が図られております。
もともと沖縄の米軍基地は、第二次世界大戦末期に米軍が沖縄に上陸し、凄惨な地上戦を経て占領した際に、住民を16の収容所に強制的に囲い込み、軍用地のみならず民有地を強奪して建設されたものでした。普天間基地がつくられた場所には、民家も役所も郵便局も墓地も、さとうきび工場もありました。
一見非常に違って見える日本とフランスですが、姉妹都市交流によって、日仏両国民には第二次世界大戦という共通の体験があることに気づくようになりました。 我々の故郷ノルマンディーと長崎市は大戦で非常に多くの人命や財産を失いました。 田上市長は覚えていらっしゃいますでしょうか、カン市の平和記念館には次の文が記されています。「私は苦痛に打ちのめされた。
この大恐慌は、その打破のため、イギリス、フランスなど植民地を持っている国は閉鎖的な経済ブロックを形成し、ドイツ、イタリア、日本など植民地を持たざる国は全体主義のもとでの膨張政策を展開するという流れを導き、最終的には、御存じのように第二次世界大戦を引き起こすことになった次第でございます。
26日にはフランスのカーン市を訪問し、第二次世界大戦の惨禍を記録した資料を多数展示するカーン記念館を視察しました。この後、カーン記念館で合流した長崎外海・ヴォスロール姉妹都市委員会の皆様とともに、ヴォスロール村を訪問し、30周年記念式典に参加いたしました。