佐世保市議会 2020-03-19 03月19日-07号
競輪事業は、第二次世界大戦による戦災からの復興を主目的にした公営ギャンブルの一つとして開催され、地方財源の確保や地域振興に一定の貢献をしてきたことは言うまでもありません。 しかしながら、財源の確保を公営ギャンブルに頼るのは、健全な市民生活を支えるべき地方公共団体として、本来あってはならないことだと私は考えます。
競輪事業は、第二次世界大戦による戦災からの復興を主目的にした公営ギャンブルの一つとして開催され、地方財源の確保や地域振興に一定の貢献をしてきたことは言うまでもありません。 しかしながら、財源の確保を公営ギャンブルに頼るのは、健全な市民生活を支えるべき地方公共団体として、本来あってはならないことだと私は考えます。
長崎原爆遺跡は爆心地のほか、被爆の痕跡が顕著な旧城山国民学校校舎、浦上天主堂旧鐘楼、旧長崎医科大学門柱、山王神社二の鳥居で構成しており、第二次世界大戦末期における原爆投下の歴史的事実、核兵器の被害や戦争の悲惨さを如実に伝える遺跡として、平成28年10月に国の史跡に指定されました。
戦争目的の達成程度という物差しではかれば、第二次世界大戦は日本の勝ちであり、旧植民地を失って、白人の優越という神話を完全に破壊されたのは、欧米白人社会という判定も成り立つという学者もいます。 歴史を振り返り、冷静に検証して学び、次の世代へ伝えていくことの大切さを思います。このことは、教科書採択の問題にもつながってきます。日本が世界の安定や世界平和に貢献できるようになるには、まず基本は教育です。
これについては、戦後の教育の関係上、太平洋戦争だとか、第二次世界大戦だとか言っておりますけれども、第二次世界大戦といったら世界全域のことであって、アメリカなどの連合国側から言えば日本とは太平洋戦争であると。ただ、日本では、昭和16年12月の閣議で大東亜戦争と呼称すると閣議決定しているわけです。したがって、正式名称は大東亜戦争だと思います。念のため。
港湾整備やダムの改良、それから第二次世界大戦で原子爆弾が投下されたというふうなさまざまな事象がございまして、こういう部分を経て、その痕跡がこの都市長崎遺跡に残されているということでございますから、市の中心部はほとんど、こういう遺跡群として捉えて現状保存してくださいということですから、これは一般的にはちょっとあり得ないのかなとは考えております。
これは世界的に第一次世界大戦、第二次世界大戦、こういうものを経て、どこでも大抵の国が戦争はしないと、武力による国際紛争の解決はしないというふうな憲法を持っております。
さらに中学校におきましても、各学年ごとにテーマを設置し、平和や戦争に関する本やインターネット、新聞等の活用や映像の視聴等で学習を深めまして、原爆の被害、第二次世界大戦下の日本の状況、沖縄戦、第21海軍航空廠等をテーマに新聞にまとめ、成果を発表するなどの取り組みをしているところでございます。 以上です。 ◆1番(田中博文君) ありがとうございます。
それから、平和宣言の問題についてですが、その後の朝鮮戦争や情勢のことなどがありましたけれども、一番の大きな佐世保市民が体験したことというのは、さきの第二次世界大戦で悲惨な結果を受けたということではないですか。
ここで、最後にアイゼンハワーという方がいらっしゃいまして、第二次世界大戦、ノルマンディーの連合軍の総司令官です。この方が、プランとプランニングという言葉の概念の違いだと思うんですが、戦闘においてプランというものは全く役に立たない。しかし、プランニングがなければ何もできない、戦えないと、不可欠であると。どんなに精巧につくったものでも、いざというときには全く役に立たないと。
第二次世界大戦が植民地支配を終わらせましたが、オランダと日本は1600年代に臼杵にリーフデ号が漂着したことに始まり、明治維新まではオランダとだけの交易を続けていました。 日本が植民地解放を意図して戦争したのではありませんでしたが、結果的にオランダの植民地だったインドネシアが植民地でなくなり、オランダにとっては大きな損失となってしまいました。
第二次世界大戦後に憲法が制定され、必然的に棚ぼた式に与えられたかのように思われますが、外国のように独裁政治からかち取った経緯はありません。戦前にはなかった全国民に与えられる権利です。トランプ氏の当選は、佐世保市においては、海の向こうの話のように思えますが、米海軍基地を保有する佐世保市にとっては、他人事では済ませることのできない大きな問題です。選挙権一票の重さが世界を変えることにもなりかねます。
その後、その建物等は、第二次世界大戦の時の強制疎開で建物のほとんどは撤去されたという経緯がございます。その辺のところを考えると、出土物については、江戸時代当時の町家の何か発掘物がでるのではないかと考えております。
ぜひ、今長々と申し上げましたが、やっぱり自分の国の歴史をしっかり冷静に眺めるということは--第二次世界大戦も、要するにあれはチャーチル首相がアメリカも巻き込んで、日本も巻き込んで世界大戦にしたほうが自分たちにとって都合がいいというような策略があったこと。そういうことも、この教科書、中学生向けの教科書の中に書かれているものもあります。もちろん書いていない教科書もあります。
その演説内容を大きく3つまとめると、まず、広島、長崎への原爆投下により、第二次世界大戦は残酷な終えんを迎えたということ、2つ目は、原爆投下によって死亡した子供を含む10万人以上の日本人、多くの朝鮮半島出身の人々や米国人捕虜を追悼するために来たこと、3つ目は、悲惨な戦争で罪のない人々が殺された。我々は歴史を直視する責任を共有しているというものでした。
これを質問する理由は、第二次世界大戦の大日本帝国憲法時代の町内会は、昭和22年にGHQが非常に戦争に協力したのは町内会だということで廃止になりました。
それによりますと、「第二次世界大戦の末期、昭和20年8月9日、長崎は原子爆弾によって大きな被害を受けました。私たちは、過去の戦争を深く反省し、原爆被爆の悲惨さと、今なお続く被爆者の苦しみを忘れることなく、長崎を最後の被爆地にしなければなりません。世界の恒久平和は、人類共通の願いです。
イコモスが「西洋から非西洋に初めて産業化の伝播が成功したことを示す」として高く評価の対象としたのは、1853年から1910年の間で日韓併合や第二次世界大戦と時期も趣旨も大きく異なっておりまして、ユネスコ委員各国に冷静な判断を求めたいと思っておりました。
1点目は、第二次世界大戦に対する町長の認識についてお尋ねいたします。 ことしは、第二次世界大戦が終結して70年の歴史的節目の年です。この年が日本とアジア諸国との和解と友好に向かう新たな一歩となることをアジアを初め世界の多くの人々と大多数の日本国民が願っています。そのためには何が必要でしょうか。 私は、戦後90年の1995年に閣議決定に基づいて発表した村山談話の核心的内容であります。
誰も好きこのんで戦争する人はいないと言う人もいますけれども、それではなぜ、第二次世界大戦が起きたのでしょうか。私たちが、歴史の教育で学んだ五・一五事件、二・二六事件は、軍人が戦争をしたくて、自分たちの思いを遂げるためにクーデターを起こし、総理大臣など民間閣僚を抹殺しファシズムへ向かっていった。戦争をしたくて起こした行動ではなかったのでしょうか。 第三の平和主義についてであります。
第二次世界大戦後の復興が進む中、昭和25年、東京-長崎間で運転されていた急行列車が、長崎を代表される山の名前に由来して「雲仙」と名づけられました。これがこの長崎に登場した最初の愛称つき列車でございました。