西海市議会 2022-12-07 12月07日-03号
見にくいんですけど、これはシールが貼ってありまして、昭和60年の品物がほぼほぼ。あの体育館ができたのが昭和59年と聞き及んでいるので、1年後には完備しているんですけど、昭和の時代ですよ。これもお話しをいただき、見に行きました、私もよく知らなかったので。そしたら、西彼にもありますと。私は行ってないですけど、西彼の年式とか分かれば答えてもらえませんか。 ○議長(宮本一昭) 作中社会教育課長。
見にくいんですけど、これはシールが貼ってありまして、昭和60年の品物がほぼほぼ。あの体育館ができたのが昭和59年と聞き及んでいるので、1年後には完備しているんですけど、昭和の時代ですよ。これもお話しをいただき、見に行きました、私もよく知らなかったので。そしたら、西彼にもありますと。私は行ってないですけど、西彼の年式とか分かれば答えてもらえませんか。 ○議長(宮本一昭) 作中社会教育課長。
しかし、今の若い人は結構ハイテクになっていて、ここにいるほとんどの方が昭和生まれです。そして、片山君が一人ぎりぎり平成、そういう中で議会をやっております。そして、その中で私たちは30年後の計画を語ろうとしている。その計画が本当にいいものなのかどうなのか。 というのが、5年前に杉澤市政が生まれました。
離島においては、昭和28年に離島振興法が制定されて以来、離島振興政策が推進され、生活条件の改善、産業基盤の整備等を中心とする社会資本の形成が大きく進展した。 離島は、我が国の領域、排他的経済水域等の保全、海洋資源の利用、多様な文化の継承、自然環境の保全とあわせて、自然との触れ合いの場及び機会の提供、食料の安定的な供給等、我が国及び国民の利益の保護及び増進に重要な役割を担っている。
昭和49年3月に施行された工場立地法では、緑地面積率を含めた環境施設面積率が国準則により25%以上と定められていますが、平成23年の法改正により、工場立地法に基づく告示に規定する区域の区分ごとに、基準の範囲内で自治体が条例を定めることが可能となっております。
しかしながら、オランダ村は昭和58年に開業し、38年が経過しており、危険と判断されるところは木製デッキ躯体部分にとどまらず、基礎鋼管杭に及んでいることが想定されます。まずは、しっかりと基礎部分の点検調査を実施し、耐久性など安全を確保することが施設所有者としての責務であると考えており、今回の鋼管杭点検調査なくして先には進めないと考えております。
大島児童館は、昭和63年4月に地域の児童に健全な遊び場を与えて、その健康を増進し、情操を豊かにすることを目的に開設された児童厚生施設であり、西海市社会福祉協議会が指定管理者として管理運営を行っています。
そこら辺で、今回のこういった、ぜひ県のほうに要望していきたいと思って、今回質問をさせてもらったんですけれども、ちょっともう一つ、これが昭和60年ぐらいなんです。うしろの浜の砂浜です。これが現在の砂浜です。見て分かるように、国道側は以前えぐられて、ブロック工事というんですか、波で洗われた経緯があって、これこそ、うしろの浜の砂浜が痩せてきている状況だと思っています。
昭和57年の建設ですから40年弱、38年。 もう老朽化もするでしょう、止まっている状態だし、動かさないならなおさらでしょう。 調査した結果、腐敗等もあり錆びていて、もう回すにも困難だという市長の最終結論だと思うんですけど、そうした場合、私は何で風車、風車と言うかといいますと、回っていないと生きた気がしない。死んだまま、あそこに立っているような感じなんです。血が通っていないという話です。
それで、当時の厚生常任委員会に私も所属させていただいておりまして、実際に大島の児童館にも足を運び、視察をさせていただいたわけですけれども、そのときに、この児童館は昭和63年4月1日に設置されたとあるけれども、実際には、もっと前に保育所として運営していた時期が相当あって、古い建物だという説明があっておりました。 そのときにシロアリの被害、それから遊具の老朽化などがあっておりました。
それで、私は、1953年の昭和28年に生まれたんですけども、実は今、私が住んでる旧西海町の太田和というのは、私が生まれた1953年は、面高村と七釜村というのが合併する時期だったんです。 七釜と面高が合併して西海村になったんです。そのとき、私は、昭和30年ですから2歳です。 私が4歳のとき、昭和32年に瀬川という、川内と横瀬村が一緒になった瀬川村と一緒になって、西海村ができたんです。
この防波堤は、平島漁港に海側から入りまして右側、更にその奥側の防波堤でございますが、元々この防波堤は、石積みによりまして昭和30年代の後半に整備がされております。 その後、現在のフェリー発着の桟橋及びその周辺岸壁、こちらの整備に際し、フェリーの着岸の際の旋回に支障があるということで、平成17年度に先端部分の一部を撤去したものでございます。
奥浦地区の奥浦ポンプ場ついては、昭和53年に旧三菱鉱業セメント株式会社からポンプ小屋やポンプ設備などを一式、無償譲渡していただいております。 また、横浦地区の横浦ポンプ場については、平成14年から稼働しており、どちらも現在まで修理等を実施しながら運転を行っております。
まず、1点目の松島火力発電所の存続に向け、より詳細な情報収集や対策を早急に講じるべきと考えるが、市長の考えを伺うとのご質問ですが、大瀬戸町松島にある「電源開発株式会社松島火力発電所」は日本初の海外石炭専焼火力発電所として、昭和56年に運転を開始し、以来39年を経過しております。
また、協議していれば、その内容を伺うとのご質問ですが、長谷ダムは、砂防ダムとして土石流を始めとする土砂災害の防止のため、長崎県の昭和53年に建設したものであり一般の貯水ダムとは異なり、ダムに溜まった水の排水等の調整機能は備えていない構造であります。
昨年、同じように崎戸産業振興環境整備資金貸付金については、権利の放棄がされておりまして、昨年の分については、昭和60年度、平成4年度、平成7年度ということで、この点を質疑させていただいたところですけれども、その際に債権のみが引き継がれた形になっており、旧崎戸町からの引き継ぎの部分がうまくいっていなかったという説明を受けたわけですけれども、今回の場合の債権の年度が合併した後の年度になっておりますので、
また、ホゲット石鍋製作遺跡につきましては、平安時代末期の遺跡と言われ、国内でも、最大規模を誇り、昭和56年に国の史跡に指定されました。 遺跡範囲内には採掘された滑石が製作の痕跡が今でも残る貴重な遺跡であると認識しております。
昭和57年の私が高校2年の時、皆さんも記憶にあるように長崎大水害で299名が亡くなったという事実があるわけです。それで、近年においても福岡や広島でこういった雨の被害があっている。 西海市は地形が良いのかどうかわからないけれども、そういった大きい災害というのはなかなか来ないですが、その安心感が市長の答弁にあるように「人の命に係るようなことのないようにする」と言ってるけどもつながって来る。
取得の経過については、昭和55年に旧大島町が行った道路改良工事により拡幅された際に、当時の地権者であった松島炭鉱株式会社から買収や分筆がなされておらず、そのまま隣接する現在の大島楽市ショッピングセンターの敷地と一体をなす宅地の一部が道路として長年使用されており、平成18年に三井松島産業株式会社が大島楽市ショッピングセンターの敷地のみを分筆及び所有権移転を行う際、この道路用地についても分筆されましたが
私は、昭和58年から社会科の教員として県立佐世保西高等学校をふりだしに長崎県の高等学校教育に携わりました。 西海市との関わりとして、同居連携型中高一貫教育を導入する県立大崎高等学校、教頭を2年間務めました。 その後、諫早高等学校の副校長、松浦高等学校の校長、平成30年度からは佐世保北高等学校・佐世保北中学校の校長を2年間務め、本年3月末定年により退職いたしました。
あそこは、ご存じのように、昭和62年に着工されて、平成2年から平成7年まで整備をされた。現在、春には菜の花が10万本、コスモスが20万本。望遠とか、展望台とかプラネタリウムは去年、平成30年度ですけど、年間10万人が利用している。何にもない山を、一遍で大きな観光地にしようじゃないかと。そこではいろんな活動が行われて、夜店が出たり、本当に諫早市を代表するような大きな観光地になっている。