中野市議会 1997-03-11 03月11日-03号
この建物は、晋平先生が住んでおられた当時そのままの姿で遺品とともに保存されておりまして、日本庭園の静かなたたずまいの中に落ちついた木造建築で、昔そのままのあどけなさが梅園とともに溶け合い、ここを訪れる人々の心に安らぎを与えてくれるのであります。
この建物は、晋平先生が住んでおられた当時そのままの姿で遺品とともに保存されておりまして、日本庭園の静かなたたずまいの中に落ちついた木造建築で、昔そのままのあどけなさが梅園とともに溶け合い、ここを訪れる人々の心に安らぎを与えてくれるのであります。
その後平成3年に、上田市出身の世界的な商業写真家であったハリー・K・シゲタの遺品、遺作が東京工芸大学の細江教授のお骨折りにより、生まれ故郷の上田へ寄贈されることがまとまりました。上田市としてもこれを受け、収蔵展示する美術館建設についての構想の議論が高まり、議会においても幾人かの議員から美術館建設についての質問がなされてまいりました。
博士の遺墨・遺品や幅広い交友関係がもたらした貴重な資料は、生家の吉江家が継承し保存されております。 これらの大切な資料は、吉江家との連携のもとに短歌館において、過去2回、吉江家所蔵資料のかなりの部分を借用し、特別企画展として公開しており、また常設展示では孤雁コーナーを設け、常時十数点を定期的に展示替えをしながら一般公開をしてきております。
以来、ハリー・K・シゲタ氏の作品、遺品の寄贈によりまして写真美術館の構想が急速に高まってまいりました。社会教育委員会からは総合美術館構想について提言がされまして、この中でこれを進めるために研究委員会の設置が強調されたところであります。
中心市街地へのにぎわいの誘導を図りたいと、関係者とかねてから研究を進めてまいりました仮称池波正太郎記念館でありますが、去る2月19日に池波家と遺品等について市への無償寄託による記念館設置に関する基本的合意を結ぶこととなりました。
時を同じくし上田市出身の世界的な商業写真家ハリー・K・シゲタの遺品、遺作が上田市に寄贈されることになり、平成3年11月18日、当時の市長の代理として赤沼収入役と博物館長、それに上田写真クラブの花里吉見氏の3氏が上京、正式に細江英公氏の承諾を得たところであります。
そのことを中心にして、武井武雄先生の美術館を岡谷市として考えていくことに、まだ御生前の折に御賛同をいただいておったのですけれども、今どれだけそうしたものが保存されているかわかりませんが、大変おしかりをいただいて、その問題が前に進まなくなってしまって、今市は先生の残された遺作品があるだけであって、遺品はありません、市には。
◎教育長(平出友伯君) 〔登壇〕 塩尻短歌館について有効利用はどうかと、こういうご質問でありますが、ご承知のとおり、塩尻短歌館は明治時代の後半から大正、昭和にかけて、近代短歌の潮流をなした塩尻ゆかりの歌人たちの遺墨、遺品などを収集展示するとともに、全国短歌フォーラムをはじめとして、市内はもとより全国の短歌愛好者の交流、研修の場として位置づけ、数多くの皆様の物心両面にわたるご支援のもとに建設運営され、
平成6年度中には研究委員会による構想をまとめ、さらに遺品遺作の寄贈を約束していただいたハリー・K・シゲタを中心とした写真美術館を先行し、オリンピックまでに間に合わせたいとする従来の市長、教育長の議会答弁は一体何だったのか。そして、市長が変わり、一転してまちの中へトータルデザインしたいという言葉に一層先の見えなくなった観さえあります。
こうした中で、貴重な書類や遺品もなくなり始めております。それだけに、二度と戦争を味わいたくない、この戦争の体験、記録を保存することは極めて重要なことと考えます。 具体的にお伺いいたします。 1つは、市として日清、日露、太平洋戦争における戦死、傷病者をどの程度掌握されているか、お伺いいたします。
象山先生の貴重な遺品や資料が展示してあります。十月十日までですので、どうか皆さん方是非御高覧をいただき、そして我が郷土の誇りである佐久間象山先生の偉業をしのんでいただくとともに、なお一層の御理解と御協力をいただきたいと思います。 第五点目は、入館料の改正についてお尋ねをいたします。
現在、シゲタのかなりの遺作や遺品が東京工芸大学の細井教授が保管しており、遺族のご意思もこれあり、条件さえ整えば生まれ故郷の上田市へ寄贈の意思を明らかにされております。それを受け、平成3年11月、市は正式に市長名でその寄贈を申し入れ、了解が得られております。
博物館では、その遺品のうち民俗資料として重要なものを保存しており、今後も民俗資料の収集の中で貴重なものは収集に努めたい所存でございます。前述のような活動をいたしておりますが、御質問の戦争体験記発行につきましては、教育委員会が主体となり進めることは考えておりません。 蚕糸博物館30周年記念行事についてお答えをいたします。
多くの市民から貴重な証言が寄せられ、また貴重な資料や遺品が届けられ、もう二度と戦争をしてはならないという市民の願いが、この会の活動を一層活発なものにしています。
同時に、丸岡先生の足跡をたどり、その遺品の公開もされました。先生の生き方を振り返ることができました。さらに、丸岡秀子さんをしのんでの講演会は、県内外から会場にあふれるような参加者があり、追慕の思いを一つにしました。この丸岡先生も旧中込学校の卒業生のお一人です。
その日記には、黒く塗りつぶされた部分が幾箇所かありますが、当時の軍が検閲して、戦艦の名前とか、場所等を塗りつぶして、遺品として返されたそうであります。その文面には18歳の若き心境とふるさとに思いをはせながらも元気に国の公務のために努力している、心配なきようにという言葉が記されておりました。最後の一日までのその弟さんをしのぶ肉筆の文章、私は感涙をもって読ませていただきました。
戦争にまつわる資料や遺品など、大切に保管されている御家庭がたくさんあると思われます。平和教育の大切な財産として集めて、資料展を開催することによって、当時の生活など、目から入る平和教育として役立つと思います。 また、公民館だより8月号で毎年戦争特集号を組んでおりますが、これと新たに原稿をお願いして体験文集をつくることはいかがお考えでしょうか。
国内につきましても、またいろいろそれにふさわしい都市との姉妹提携の促進を図っていきたいと思っておりますが、佐久間象山先生が松代の御出身でございまして、幕末に横浜港の開港を主張されたという御縁がございまして、ただ今横浜博にも佐久間象山先生の遺品をお貸しして、展示されておるわけでございますが、横浜市の公園にも石碑が、そのいきさつがあるわけで、そういう意味で、佐久間象山先生の御縁で、横浜市とは、議員の皆さんからの
象山記念館の増築については、幕末の先覚者であり郷土の偉大な先人でもある佐久間象山先生の貴重な遺品、資料を保存し、その功績を広く伝えるため、効果的な展示方法、必要な駐車場対策等に留意し、施設の一層の充実を図られるよう要望いたした次第であります。 最後に、請願の審査について申し上げます。 請願第四十号古里地区富竹区に大型店進出に関する請願について申し上げます。